「源雅信」倫子の父 誇り高き賜姓源氏のプライド保った左大臣

 藤原道長の正室・倫子(ともこ)の父・源雅信(みなもとのまさのぶ、920~993年)は皇族出身の貴族で、左大臣を15年間も務めた政界トップクラスの大物政治家です。

 道長の父・藤原兼家が政権を掌握したときも左大臣として閣僚会議をリードする立場で、政界長老の風格を保っていました。兼家やそれ以前に関白を務めた藤原頼忠ら政権担当者も一目置く存在。皇族出身の権威や経済力は後々、婿となった道長を支えていきます。

 源雅信の人物像などをみていきます。

宇多天皇の孫 関白も一目置いた太政官首席

 源雅信は公家源氏の一つ、宇多源氏の出身。「雅信」を「まさざね」と読む説も有力です。また、邸宅にちなんで「一条左大臣」、「鷹司左大臣」、「土御門左大臣」とも呼ばれます。

 父は宇多天皇第8皇子・敦実親王。雅信自身、宇多天皇の孫で、臣籍降下して「源」の姓を得た「賜姓源氏」です。母は藤原時平の娘。藤原摂関家主流の出身です。

幼少期に予言された左大臣就任

 源雅信は、大和権守などを経て天暦5年(951)1月、32歳で参議となり、貞元2年(977)4月、58歳で右大臣、貞元3年(978)10月、左大臣に就きます。正暦4年(993)5月、病気で辞任するまで14年半も左大臣を務めました。

 また、大臣との兼務で花山、一条、三条天皇の皇太子時代の教育責任者・東宮傅(とうぐうのふ)も務めました。

 平安時代後期の説話集『江談抄』には、敦実親王の邸宅を訪れた平時望が幼少時の源雅信の人相を見て、「必ず従一位・左大臣になります」と予言した話があります。まさに雅信の最終官位を言い当てています。もちろん、後付けの創作という可能性も大きいのですが。

左大臣は「一上」、閣僚会議も主導

 左大臣は総理大臣級の重職です。左大臣の上には太政大臣や摂政、関白がいますが、筆頭公卿「一上(いちのかみ)」は多くの場合、左大臣です。

 太政大臣はほぼ名誉職。摂政、関白の権限は絶大ですが、左大臣も太政官トップとして陣定(じんのさだめ)という閣僚会議を仕切るので、やりようによっては権威を発揮できます。閣僚会議には参加しない摂政、関白に対して「多くの貴族はこういう意見」ということを主張できる立場なのです。

 源雅信が左大臣に就いたころは、藤原頼忠(小野宮流)が関白、藤原兼家(九条流)が右大臣で、政権を主導したい藤原北家の大物政治家がともに源雅信を味方にしたいという状況。源雅信は藤原氏の対抗勢力にもなり得る立場でもあり、藤原氏に協力して地位を安定できる立場でもありました。

※参考:源雅信と藤原氏の略系図
※参考:源雅信と藤原氏の略系図

雨乞いは「天下の大事」、兼家に随行

 『大鏡』に、ひでりのひどい年に摂政・藤原兼家が賀茂神社へ雨乞いのため参詣し、左大臣・源雅信が同行する逸話があります。摂政・関白の賀茂神社参詣に大臣が随行する前例はありませんが、源雅信は「天下の大事」だからと同行しました。

 ただ、出発の方法は少し変えて、藤原兼家の行列が邸宅の門前を通過してから牛車を引き出して賀茂神社に向かいました。源雅信の政務に対する誠実さと、藤原氏に対する賜姓源氏としてのプライドが垣間見えます。

「后がね」愛娘・倫子の入内狙うも年齢合わず

 『栄花物語』によると、源雅信は自慢の娘・倫子を天皇の正室候補、いわゆる「后がね」にしたいと考えていました。身分の高い貴族の娘が天皇の妻となると、天皇は妻の実家を頼り、妻の実家も天皇の権威を利用して貴族社会の中でも一歩抜きん出た存在となります。宇多天皇の孫である源雅信は貴族の中で最も高貴といえる立場で、天皇の外戚の地位を手に入れると、政治力も大いに増します。

一条天皇とは16歳差 思惑通りにならず

 倫子が10代後半の頃は円融天皇の時代ですが、円融天皇には藤原頼忠長女・遵子や藤原兼家の三女・詮子が入内していました。倫子は円融天皇の5歳下で、年齢的には釣り合いますが、入内させなかったのは藤原頼忠や藤原兼家との対決を避けたのでしょうか。

 次の花山天皇は短期間で退位してしまい、寛和2年(986)に7歳で即位した一条天皇は、倫子との年齢差が16歳と大きく、どうにもなりません。一条天皇の東宮(皇太子)は居貞親王(三条天皇)。皇太子とはいえ、冷泉天皇の第2皇子・居貞親王は一条天皇よりも年上ですが、それでも倫子とは12歳の年齢差があり、これも難しい状況でした。

本当に倫子を「后がね」と考えていたのか?

 源雅信は本当に倫子を「后がね」と考えていたのでしょうか。

 醍醐天皇の第10皇子で賜姓源氏として左大臣まで昇進した源高明は娘を為平親王の妃としており、冷泉天皇、円融天皇の同母兄弟で皇位を継ぐ可能性もあった親王の後ろ盾になっています。ただ、これが藤原氏の警戒を招き、安和の変(969年)で失脚します。

 臣籍降下してから1、2代の賜姓源氏は昇進も早く、高い官職にもつき、藤原氏の対抗勢力となり得ます。さらに天皇や皇太子の外戚、外祖父となると、藤原氏に警戒されることにもなります。源雅信はより慎重な姿勢で臨んでいたとも考えられます。

道長婿入り反対したが、妻・穆子が強力後押し

 結局、源倫子は永延元年(987)12月、藤原道長と結婚。倫子24歳、道長22歳のときで、翌年には2人の間の第一子・彰子も生まれます。

妻・穆子が道長の可能性に着目

 『栄花物語』によれば、倫子を「后がね」と考えていた源雅信は藤原道長との結婚には反対でした。摂政・藤原兼家の子息の一人で、将来の出世は見込めるとはいえ、同母兄に道隆、道兼がおり、道長が兼家の跡継ぎとして摂政関白の地位に就くことは考えにくく、源雅信は「くちばしの黄色い青二才」としか見ていなかったのです。

 しかし、雅信の妻・穆子(むつこ)は道長の将来性を買い、倫子との結婚に積極的。結局、穆子のペースで話が進み、盛大な結婚式を挙げることになります。

高い経済力で道長支える

 源雅信の邸宅であった一条第と土御門第は倫子を通じて婿の藤原道長に伝えられます。特に平安京東端の土御門第は道長の栄華を象徴する邸宅ですが、元をたどれば、藤原朝忠から娘・穆子、さらにその夫・源雅信の邸宅として継承されてきた経緯があります。

 藤原道長は土御門第に通う形で倫子との結婚生活をスタートさせましたが、ほどなくして倫子の妊娠が分かり、土御門第は道長と倫子の邸宅として機能。当時の貴族の一般的な生活スタイルである通い婚から同居へと移行したのです。源雅信、穆子夫妻が別の邸宅に移りました。

 スムーズに財産が継承されていることから、源雅信も結婚当初から道長に期待していたといえます。倫子を天皇に入内させ、外戚関係を築いて藤原氏に対抗するよりも、藤原氏との協力関係を築こうとしたのが源雅信の真の姿かもしれません。

謹厳な左大臣 無駄口のない人格者だが愛嬌なし

 『大鏡』によると、源雅信は人格も優れ、村上天皇の評価も高かったようです。ただ、雅信の同母弟・源重信(しげのぶ)の方がどちらかというと好かれていたようです。

きちんとしすぎて余計なことは話さない

 『大鏡』によると、源雅信はきちんとしすぎていて、政務のことのほか、余計なことは話さない、無駄口のない性格ですが、余裕がなかったようです。一方、弟の源重信の方は若々しく愛嬌があって人好きのする点では兄より勝っていたといいます。

 この兄弟の年齢差は2歳と近く、源雅信は29歳の頃、蔵人頭として村上天皇に仕えていますので、だいたい、その頃を想定した逸話のようです。そして32歳で参議に任じられて公卿の列に並びます。若い時期からしっかりした面があった一方、精神的にはちょっとピリピリしていたのかもしれません。

 弟の源重信は正暦2年(991)9月に右大臣に昇進し、左大臣の源雅信と並び、一時期、兄弟で左右の大臣を務めました。正暦5年(994)には兄・雅信なき後の左大臣に就き、六条左大臣の異名もあります。

誰よりも早く参内し、最後に退出

 源雅信のきまじめさを象徴するのは『大鏡』にある雅信の述懐です。

雅信:「自分は親王たちの中で成長してきて、世間の内情を知らず、生活の手段もなかったので、朝廷の政務や儀式の際はほかの人よりも早く参内し、行事が終わっても最後に退出するといったふうに人一倍の努力をして万事を見習ったものだよ」

 雅信は冷静な自己分析と努力で身分に相応しい人格、地位を築き上げっていったようです。

 正暦4年(993)7月29日、源雅信は74歳で死去しました。藤原道長の側近である藤原行成の日記『権記』は同日、その死を悼んでいます。

「身は数代の天皇に仕え、位は従一位に至った。三朝の補佐の臣となり、朝廷が重んじたところである。洛陽(都)の士女はその薨逝(こうせい、貴人の死去)を聞いて皆、恋慕した」
『権記』より

 左大臣として円融、花山、一条の3代の天皇を補佐し、人徳もあり、多くの人に慕われていた姿が想像されます。

おわりに

 源雅信の死は藤原道長が政権を掌握する2年前。道長の人物を見抜いた妻・穆子の正しさを知ることはなかったのですが、道長はこのとき権大納言まで昇進していて、雅信自身、倫子の将来を悲観することはなかったと思います。

 この時代、賜姓源氏の中で高い官職に就いて政権中枢にも関わったのが源雅信、源重信の宇多源氏兄弟です。長寿だったことが大臣まで上り詰めた要因ですが、藤原氏との関係にも十分配慮したはずです。侮られず、恐れられず、最後まで付け入る隙を見せなかったのです。また、和歌や音楽、蹴鞠にも優れ、貴族らしい貴族でした。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『公家源氏』(中央公論新社、2019年)中公新書
  • 倉本一宏『藤原行成「権記」全現代語訳』(講談社、2011~2012年)講談社学術文庫
  • 山中裕、秋山虔、池田尚隆、福長進校注・訳『栄花物語』(小学館、1995~1998年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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