「藤原頼忠」公任の父は地味な関白? 派閥争いの中、タナボタ就任

 藤原頼忠(ふじわらのよりただ、924~989年)は関白・藤原実頼の次男で、自身も関白、太政大臣と最高の地位まで上り詰めました。しかし、その割には目立っていません。天皇の外戚となることができず、存分に権力を振るったとは言い難いからです。長男の藤原公任(きんとう)は当代随一の和歌の名手で、さらには音楽、漢詩の才能も示し、藤原道長の時代、目立った貴族の一人ですが、政治的には道長の配下に甘んじています。「地味な関白」だった藤原頼忠の生涯や人物像を探ります。

小野宮流・実頼の次男 九条流との主導権争い

 藤原頼忠は藤原実頼の次男ですが、若い頃は母方の伯父・藤原保忠の養子になります。天暦元年(947)11月、同母兄・敦敏が30歳の若さで死去。頼忠は嫡男として扱われるようになり、順調に出世します。屋敷は三条大路の北側、西洞院大路の東側にあり、「三条殿」とも呼ばれます。

 父・実頼から続く家系が小野宮流で、頼忠の叔父・藤原師輔(実頼の弟)の子孫が九条流ですが、この両系統が藤原北家本流として摂政、関白の地位を中心とした政治の主導権争いを展開します。頼忠は小野宮流の中心人物。政治の舞台で主役になる可能性がありました。

父・実頼が冷泉天皇の関白に

 康保4年(967)に即位した冷泉天皇は、藤原師輔の長女・安子を母に持ちますが、関白に就いたのは実頼でした。師輔はその7年前に53歳で死去していて、実頼は冷泉天皇との外戚関係は薄くても、政界長老としての権威があり、師輔の子息たちも無視できなかったのです。

 師輔なき後の九条流の中心は師輔の長男・伊尹、次男・兼通、三男・兼家。兼家は藤原道長の父です。また、兼通、兼家は激しく出世を競い、兄弟でありながらライバルという関係でした。

※参考:藤原九条流と小野宮流の略系図
※参考:藤原九条流と小野宮流の略系図

実頼、伊尹、兼通…動く摂関の座

 安和2年(969)、冷泉天皇が退位し、同母弟・円融天皇が11歳で即位。天禄元年(970)の藤原実頼の死後は藤原伊尹が摂政に就任します。その伊尹も天禄3年(972)、49歳で死去し、藤原兼通が内覧を経て関白に就きます。

 このとき、藤原頼忠にもチャンスがありました。伊尹なき後、大臣は左大臣・源兼明(醍醐天皇の皇子)と右大臣・頼忠の2人。円融天皇は関白を置かず、頼忠を内覧とする意向でした。内覧は関白に近い権限のある特殊な役職です。

 一方、兼通は権中納言、兼家は大納言で、まだ大臣にはなっていません。結局、権力の座は兼通に落ち着きましたが、頼忠は追い抜かれた兼通と争うことなく、協力していきます。

兼通、兼家兄弟の確執沸点 漁夫の利で関白に

 藤原頼忠は天禄2年(971)11月、48歳で右大臣、貞元2年(977)4月には54歳で左大臣に昇進。関白に就いたのは貞元2年10月です。

 関白の大役は藤原兼通の死によって回ってきました。何と、兼通が頼忠を後継に指名したのです。それは、弟の兼家には関白の座を譲りたくないという兼通の執念でした。兼通、兼家兄弟の確執が沸点に達していたのです。

見舞いかと思ったら素通り

 その経緯を『大鏡』で見ていきます。

 藤原兼通が危篤状態に陥ったとき、東の方から牛車の先駆けの声が近づいてきます。兼通の病床にいた人々が「誰だろう」と思っていると、藤原兼家だと分かります。

兼通:「ここ数年、不和の間柄だったが、私が危篤だと聞いて見舞いに来たのだろう」

 兼通は病床を片付けさせました。ところが、兼家は門前を素通りし、内裏へ。

兼通:「もし来たら、関白を譲る相談もしようと思っていたが、この冷酷さはどうだ。だからこそ、数年来、仲違いで過ごしてきたのだ。さあ、抱き起こしてくれ。車の支度をさせよ」

 兼通は病床の身を起こして装束をただし、参内します。

兼通、臨終間際に人事強行

 藤原兼通は牛車から降り、両肩を子息らに支えられて円融天皇の御前に。弟の藤原兼家がちょうど拝謁しているところでした。兼家は驚き、隣室に退避します。

兼通:「最後の除目(人事異動)を行いに参内しました」

 不機嫌な顔の兼通は天皇の前にひざまずいて奏上。蔵人頭(天皇の秘書室長)を呼び、人事異動を強行します。このとき、関白を藤原頼忠に決め、大納言まで官位を進めていた弟の兼家に対しては、右近衛大将の兼任を取り上げ、治部卿に格下げします。

 兼通は退出後まもなく死去しており、死に際の執念で兼家の関白就任を阻止。頼忠の関白就任は、兼通が弟・兼家を激しく憎んだ結果だったのです。

几帳面すぎる 朝のルーティーンで灯油回収

 関白として権力の頂点に立った藤原頼忠ですが、独裁者として振る舞った形跡はなく、常に礼儀正しく、穏やかで人とは争わず、物分かりのよい人物でした。野心満々で政治に臨んだ藤原兼通、兼家ら九条流の面々とは随分性格が違うようです。

油瓶持った家来が部屋を回る

 藤原頼忠は万事に細かい性格で、過度に几帳面でもありました。

 夜使った灯りの油の残りを毎朝回収しました。油瓶を持った家来が女房らの部屋も回り、残った油を瓶に回収。晩に使う油と混ぜ、また火をともします。

 リサイクルの実践、資源の有効活用であり、本来賞賛されてもいいことですが、『大鏡』では関白に似合わぬ頼忠のけち臭さが非難されています。

直衣では参内せず きちんと正装

 また、藤原頼忠は直衣(のうし)で参内することはなく、天皇に奏上する場合は布袴(ほうこ)の装束で参内しました。

 直衣は平服、布袴は正装に近い装束。上位の者が軽装で、下位の者が正装ということはあっても、その逆はあり得ませんが、頼忠は最上位の関白の地位でも礼儀正しく、きちんとした身なりで通しました。つまり、偉そうな態度は取らなかったのです。

 そして、参内すると、殿上の間に腰を据え、秘書役の蔵人を通じて天皇に奏上し、勅命を受けていました。天皇と直接やり取りできる立場にもかかわらず、相手の立場を尊重する人柄が出ていますが、天皇との距離の遠さ、親密でない関係性も見えてしまいます。

検非違使随行、関白の行列に威厳

 賀茂神社の葵祭り前後に参詣する摂政関白には多くの貴族が従い、華やかなものですが、藤原頼忠は検非違使を随行させ、騎馬の随身(ずいじん、警護役)を4人にするなど武装させた武官の随行を増やし、摂政関白の行列に多少威厳を持たせました。

「昔は行列が寂しくて、摂政関白のお出ましだと見物の者に分からなかった。その点、頼忠公が定めたのは素晴らしい慣例で、こうでなくてはなりませんよ」

 『大鏡』はこの点、頼忠を評価しています。

「よそ人の関白」天皇との外戚関係築けず

 藤原頼忠は円融天皇、花山天皇の時代に関白を務めますが、いずれも天皇の外戚関係はありません。『大鏡』は天皇との血縁関係がないことを「よそ人(びと)」「関白とはいえ、よその人」と表現しました。ただ、頼忠も手をこまねいていたわけではありません。

娘・遵子入内も皇子は生まれず

 藤原頼忠は貞元3年(978)10月、太政大臣に就いていますが、この年の4月には、次女・遵子(のぶこ)を入内させています。

 遵子は22歳、円融天皇は20歳。頼忠は既に55歳で、もう少し早く手を打っても良さそうなものですが、天皇には12歳上の中宮として兼通長女・媓子(てるこ)がいました。兼通存命中は気を遣い、頼忠自身が天皇の外戚になる野心を表に出さなかったのです。

 貞元3年には藤原兼家も三女・詮子(あきこ)を入内させました。円融天皇の唯一の皇子を産んだのは詮子ですが、媓子死後、次の中宮となったのは遵子でした。

 円融天皇が強引な兼家を嫌っていたのか、兼家が円融天皇に距離を置いたのか、はっきりしませんが、円融天皇は温厚な頼忠を信頼していたようです。退位間際も引き続き関白を務めるよう指示します。

花山天皇即位 実質的に蚊帳の外

 円融天皇の時代は、関白として天皇の相談も受け、全面的ではないにせよ、治世に関わっていた藤原頼忠ですが、永観2年(984)、円融天皇が退位し、冷泉天皇の第1皇子が即位します。花山天皇です。

 頼忠は関白の職に留まりますが、政務からは事実上外れてしまいます。花山天皇を支えたのは、天皇の母・懐子(ちかこ)の同母弟で権中納言の藤原義懐(よしちか)や側近の蔵人・藤原惟成(これしげ)といった中級貴族。頼忠は関白ながら蚊帳の外です。

 また、頼忠は娘・諟子(ただこ)を花山天皇に入内させますが、皇子誕生には至らず、またしても外戚関係を築くことはできませんでした。

隆家、頼忠邸前を乗馬のまま素通り

 寛和2年(986)、一条天皇が即位すると、藤原頼忠は関白を退き、藤原兼家が摂政となります。一条天皇の母・詮子は兼家の三女。外孫を即位させた兼家は実権を手に入れました。

 その兼家の孫に藤原隆家がいます。兼家の長男・道隆の子の一人で、参内する時、頼忠邸前を通ります。当時、高貴な人の邸宅門前は下馬して通るエチケットがありました。

 普通の人なら避けて別の道を行くところ、若い隆家は恐れ気もなく、乗馬したまま通過。頼忠は太政大臣であり、前任の関白。貴人中の貴人ですが、隆家は祖父・兼家の摂政就任で、誰にはばかることのない一家の栄華を誇らしく思っていたようです。

 頼忠はいまいましく思いながらも、隆家の様子を邸内からうかがうだけ。特にとがめ立てすることもありません。しかも、隆家の妻は源重信の娘で、母は頼忠の娘という関係もあります。頼忠にとってはなんとも憎々しい孫の婿でした。

おわりに

 藤原頼忠は永延3年(989)6月26日、66歳で死去。関白の地位にありながら、小さなことにこだわる一方、一歩下がって人との争いを避ける人物だったようです。従兄弟である藤原兼通、兼家ら九条流の面々とは随分違います。やはり、天皇との外戚関係がないことが引け目になっていたのでしょうか。

 藤原頼忠以降は九条流が摂政関白の地位を占めるようになり、小野宮流は完全に後塵を拝することになります。では、小野宮流は没落してしまったかというと、それなりに有能な人物を輩出しています。

 頼忠の長男・公任は、政治的には道長の配下に甘んじたものの、漢詩、和歌、管絃(音楽)の諸芸に優れた才能があり、当代一流の文化人でした。甥の実資は高い見識を持ち、権力者におもねらない態度が尊敬されました。右大臣に昇進し、「賢人右府」と呼ばれた人物です。

 権勢を振るうだけがすべてではないとすれば、頼忠も最も成功した貴族の一人と言えます。

【主な参考文献】
・保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
・神谷正昌『皇位継承と藤原氏』(吉川弘文館、2022年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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