関ヶ原合戦後、厚遇された浅野長政とその子孫
- 2023/11/22
厚遇された長政
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、東軍に与した浅野長政は厚遇された。一時は家康暗殺計画が露見して左遷されたが、見事に復活したのである。とはいえ、長政は隠退して家督を子の幸長に譲ったので、実質的に恩恵を受けたのは幸長だった。戦後、幸長は甲斐府中(山梨県甲府市)22万5千石から紀伊和歌山(和歌山市)37万6560石に移封・加増された。 まず、長政の処遇を取り上げておこう。
合戦後における、長政の動向は詳しくわかっていない。慶長6年(1601)11月、小早川秀秋の家臣・稲葉通政が逐電した際、秀秋は長政を介して、徳川家康への執り成しを依頼した(「木下家文書」)。
当時、当主と家臣が対立する御家騒動は、下手をすれば改易という処分を科されることも珍しくなかった。それゆえ秀秋は事態について釈明しようとし、家康と昵懇の長政を頼ったのである。
晩年の長政とその死
合戦後、長政は家康とすっかり親しくなり、たびたび囲碁の相手をしたという。慶長10年(1605)5月、長政は豊国社(京都市東山区)を参籠し、以後は妻子とともに江戸に住んだ(『寛政重修諸家譜』)。そして、秀忠と格別な厚誼を結ぶと、茶席や遊興をともに楽しみ、長政が秀忠の邸宅を訪ねることもあった。慶長11年(1606)、長政は隠居料として、常陸国真壁・筑波の二郡のうちに、5万石を与えられた(『寛政重修諸家譜』)。当初、長政は二郡の拝領を辞退したが、家康の説得により、最終的に受けることになった(『落穂集』)。いかに、家康が長政を信頼していたかがわかるエピソードである。
慶長16年(1611)4月7日(6日との説もある)、長政は下野塩原(栃木県那須塩原市)で湯治していたところ病死した(『当代記』など)。葬儀は幸長によって、高野山悉地院(和歌山県高野町)で執り行われた。意を尽くした葬儀だったので、幸長は「当時、無類の孝行者なり」と称えられた。なお、長政が亡くなったのは真壁で、葬られた場所は常陸伝正寺(茨城県桜川市)という説もある(『浅野考譜』)。長政の死の一報を聞いた家康は、途中で囲碁を止めたという。
長政の死後、三男の長重が長政の常陸真壁5万石の遺領を継承し、自らの下野真岡(栃木県真岡市)を返上したのである。
幸長の生涯
浅野家の家督を継いだ幸長は、先述のとおり関ヶ原か戦後、紀伊和歌山に約37万石を与えられた。これにより幸長は、外様大名のなかでも屈指の規模の大名になった。翌年には、従四位下・紀伊守に叙位任官された。慶長8年(1603)7月、豊臣秀頼が千姫(徳川秀忠の娘)を妻として迎えた際、大坂城に登城したのである。 慶長13年(1608)、幸長の娘・春姫が徳川義直(家康の九男)と婚約した。その翌年、幸長はほかの諸大名とともに、義直の居城となる名古屋城の天下普請に加わった。ところが、慶長15年(1610)に義直が病気に罹ったので、婚儀は延期になった。結局、2人が結婚したのは、元和元年(1615)のことだった。
慶長16年(1611)、緊張関係にあった徳川家康と豊臣秀頼が二条城で面会することになった。その際、加藤清正とともに警固を担当したのが幸長だった。2人の面会は秀頼が家康に先に挨拶をしたことにより、徳川家の優位が天下に知らしめられた。これにより、徳川家の権力は確固たるものになった。
幸長が亡くなったのは、慶長18年(1613)8月25日のことである。その死因については諸説ある。『当代記』は、幸長が疱瘡を長らく患っていたとする一方、遊女を買っていたので、性病が原因ではないかと記している。『時慶卿記』などによると、幸長は曲直瀬玄朔の診療を受け、医師道安から薬の処方を受けていたという。墓所は大泉寺(和歌山市)、高野山悉地院(和歌山県高野町)にある。
その後の浅野家
幸長には、あとを継ぐ男子がいなかった。そこで、備中足守(岡山市北区)に2万4千石を領する、弟の長晟が浅野家の家督を継承した。『慶長年録』には、興味深い記事がある。幸長の死後、浅野氏の家臣は長重を家督に据えようとしたが、家康の意向があったので、長晟を家督に据えたという。その理由は明確に書かれていないが、かつて長晟が秀忠の小姓を務めていたことと、決して無関係ではないだろう。
長晟は慶長19年(1614)の大坂冬の陣に出陣し、木津川の戦いで軍功を挙げた。
翌年の大坂夏の陣では、樫井の戦いで塙直之らを討ち取る戦功を挙げたが、紀伊国内で豊臣方と連携した一揆勢力が蜂起したので、その討伐に追われることもあった。元和5年(1619)、安芸広島の福島正則が無断で広島城の修築を行ったので、改易処分となった。その代わりに長晟が広島に入り、42万石を領することになったのである。
長晟が亡くなったのは、寛永9年(1632)のことである。家督を継いだのは、次男の光晟である。以降、浅野家は幕末維新まで、広島藩主として君臨した。
- 長晟(1619~32)
- 光晟(1632~72)
- 綱晟(1672~73)
- 綱長(1673~1708)
- 吉長(1708~52)
- 宗恒(1752~63)
- 重晟(1763~99)
- 斉賢(1799~1830)
- 斉粛(1831~58)
- 慶熾(1858)
- 茂長(1858~69)
- 長勲(1869~71)
長重が長政の常陸真壁5万石を継承したのは、先述したが、大坂冬の陣、夏の陣に出陣して軍功を挙げた。元和8年(1622)、長重は真壁を領有したまま、常陸笠間(茨城県笠間市)5万3500石に加増のうえ移封された。長重が亡くなったのは、長晟と同じ寛永9年(1632)である。
長重の死後、家督を継いだのは嫡男の長直である。正保2年(1645)、赤穂藩(あこうはん)主の池田輝興が正室などを斬り殺したため、改易処分となった。その後、赤穂藩主となったのが長直である。
- 長直(1645~71)
- 長友(1671~75)
- 長矩(1675~1701)
長直の孫・長矩が元禄14年(1701)に起こしたのが、有名な赤穂事件である。長矩は江戸城中で吉良上野介を斬りつけ、切腹を申し付けられた。これにより、長重の系統は藩主としての地位を失ったのである。
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