紫式部の父・藤原為時と、弟・藤原惟規はともに出世下手? 道長とのコネを生かせず不器用に……

 紫式部の父・藤原為時(ふじわらのためとき)、弟・藤原惟規(のぶのり)は蔵人、式部丞などを歴任した文官、専門知識をもった官僚でした。ともに重要な任官のときに藤原道長が関わっており、絶対権力者のコネがあったのです。しかし、その立場を利用してのし上がろうという野心は薄く、出世下手で、変わり物でもありました。

 紫式部は早くに母を失い、父のもとで育ったと思われます。今回は紫式部の父と弟をご紹介します。

父「藤原為時」 少女時代、紫式部の才能見抜く

 藤原為時は生没年不詳。安和元年(968)の任官歴など活動した年代から10世紀中ごろの生まれとみられ、寛仁2年(1018)ごろまでは生存しています。

 父(紫式部の祖父)・藤原雅正は豊前守、周防守を歴任した受領階級。祖父・藤原兼輔は中納言まで栄達しました。

※参考:紫式部ファミリーの略系図
※参考:紫式部ファミリーの略系図

花山天皇の家庭教師

 藤原為時は官僚養成機関である大学寮で学ぶ学生、文章生出身。学問の道で出世を目指し、貞元2年(977)、師貞親王(花山天皇)の御読書始めの儀で講義役を務めます。メインの講義役・菅原輔正(菅原道真の曽孫)の補佐ですが、皇太子の家庭教師です。

 花山天皇即位後、式部丞、蔵人に任官。「六位蔵人」といって、位階は六位でも、蔵人は天皇の秘書役なので上級貴族にも一目置かれる存在です。また、式部丞は文官の人事に関わる役所、式部省の3等官。紫式部の女房名の由来でもあります。

 このころの為時の和歌が『後拾遺和歌集』にあります。

〈遅れても咲くべき花は咲きにけり 身を限りとも思ひけるかな〉
(たとえ遅咲きでも咲くべき花は咲く。わが身はもうこれまでと見限っていたが、この私もついに花が咲いた)

花山天皇退位で散位10年

 ところが花山天皇は寛和2年(986)、突然出家し、退位。藤原為時は、位階はあっても職のない「散位」に。10年ほど不遇の日々を送ります。

 少年期の長男・藤原惟規に漢籍(中国の書物)を教えたのはこの前後でしょう。ところが、惟規は悪戦苦闘し、隣で聞いていた紫式部はすらすらと暗唱。覚えの悪い惟規が何度も読み直したおかげだったようです。学問熱心な為時は紫式部の才能を喜んだのでしょうか。

為時:「残念だ。お前が男でないのが私の運の悪さだよ」

 もし男なら文才を生かして出世も望めるが、女ではそれも関係ない、との自虐的な皮肉です。しかし、これは感情を素直に表現しない紫式部が書いたことですから、本当は喜んでいたのかもしれませんが。

漢詩が道長の目に留まり、越前守に任官

 藤原為時の復活は長徳2年(996)。1月25日の除目(人事異動)で淡路守に任じられ、3日後に越前守に変更されます。

 『今昔物語集』にその経緯が書かれています。任官を望む為時の申請書には得意の漢詩が添えてあり、それを見た藤原道長が既に決まっていた人事を差し替え、為時を起用します。

 その漢詩がこちら。

苦学寒夜紅涙霑襟
除目後朝蒼天在眼

(寒さ厳しい夜に学問するとき、血の涙が袖を濡らし、除目の翌朝、天を仰ぐ私の目にはただ青い空が映るだけだ)

 この話、藤原道長を感嘆させた為時の漢詩が賞賛される美談ですが、同じ話が『古事談』にあり、こちらはややニュアンスが違います。代わりに越前守を辞退させられた源国盛が病気になり、家族も落胆。半年後に播磨守に任命されたものの死んでしまうという後味の悪い悲劇に終わっています。

「お前の父親は偏屈だぞ」

 越前守任官では藤原道長の強い後押しを得た藤原為時ですが、基本的には不器用で出世下手。道長が理解しにくいタイプの人物だったようです。

 寛弘7年(1010)1月2日、酔った藤原道長が紫式部にからんできます。

道長:「帝御前の演奏会に呼んだのに、お前の父親は演奏もせずにさっさと帰ってしまった。偏屈だぞ。親の代わりに歌でも詠め」

 中宮・藤原彰子(道長の長女)に仕える紫式部としても迷惑な父の行動。彰子は寛弘6年(1009)11月に2人目の皇子・敦良親王(後朱雀天皇)を出産。その直後の正月のめでたい行事で、貴族がそろう席での出来事です。為時は人づき合いが苦手だったようです。

 その後、為時は寛弘8年(1011)に越後守に任官。任期を1年残した長和3年(1014)6月に辞任し、京に帰還します。紫式部が死去したためともされますが、紫式部は寛仁3年(1019)ごろまで宮仕えをしていたとする説もあり、確かではありません。

 長和5年(1016)4月、出家。寛仁2年(1018)以降の消息は不明です。

弟「藤原惟規」 六位蔵人から五位へ昇進

 紫式部の弟・藤原惟規は、生年は不詳ですが、970年代とみられます。没年は寛弘8年(1011)。紫式部の兄という説もあります。

 寛弘4年(1007)、兵部丞、蔵人に任官。『御堂関白記』によると、このとき「蔵人所の雑色、非蔵人(いずれも見習いの若者)を差し置いて……」という異論もあったようですが、藤原道長は「蔵人は若者ぞろいなので年齢の高い者もいた方がいい」と判断。惟規を推しました。このときは六位蔵人。父と同じ出世コースです。その後、式部丞も務めます。

紫式部が嫌っていた弟の恋人

 『今昔物語集』にちょっとした失態が記録されています。

 藤原惟規は、賀茂斎院の選子内親王(村上天皇の第10皇女)に仕える女房・中将の君と恋仲になり、夜な夜な通っていました。ある夜、斎院の警備の侍に見つかり、「どなたですか」と問われても答えることができず、”怪しい者” と疑われ、出るに出られなくなります。仕方がないので相手の中将の君が選子に事情を打ち明け、惟規は解放されます。

 そのとき詠んだ惟規の和歌。

〈神垣は木の丸殿にあらねども 名乗りをせねば人咎めけり〉

(この神垣=斎院は、あの有名な木の丸殿ではないが、名乗らなかったので咎められてしまいました)

 これは、木の丸殿で名乗りをする者を詠んだ『新古今和歌集』の天智天皇の和歌が下敷きになっていて、惟規の博識は選子を感心させました。

 なお、中将の君について『紫式部日記』は「自慢がひどすぎる」と酷評しており、紫式部は弟の恋人を相当嫌っていたようです。

「肝心な時に頼りにならない」

 藤原惟規は寛弘5年(1008)7月に泥酔事件を起こします。

 中宮・藤原彰子が出産のため内裏から実家・土御門殿に移ったとき、一条天皇から彰子への後朝の文を届ける使者となります。待ち受けていた公卿4、5人に酒を勧められ、その場で何杯も飲み干し、「酔うこと泥のごとし」。普段は相手にもされない六位ながら、天皇の使いとして藤原道長邸に堂々と上がり、接待まで受ける蔵人ならではの特権ですが、さすがに調子に乗りすぎたようです。

 また、その年の大みそかの深夜、内裏に強盗が押し入ります。叫び声を聞いて部屋を出てきた紫式部は女官に命じました。

紫式部:「殿上の間に兵部丞の蔵人(惟規)がいます。呼んできて」

 ところが、女官が探しにいくと、惟規は既に退出したとのこと。

紫式部:「肝心なときに恨めしいこと、この上ない」

 紫式部は弟のふがいなさに歯嚙みしました。それでも、寛弘8年(1011)1月に従五位下に昇進。正真正銘の貴族です。

思わぬ客死 職を辞し、老父を追った越後で

 寛弘8年(1011)、従五位下に昇進したばかりの藤原惟規は職を捨て、父・藤原為時の赴任先・越後へ向かいます。老父に代わって越後での実務を取り仕切ろうとしたのか、良い官職に就くチャンスよりも親孝行を選んだのか、五位にはなったが、実力不足を感じて父に教えを乞おうとしたのか……。京を離れた理由は不明です。

離れたとたん京を懐かしむ和歌

 越後に向かう藤原惟規は京を離れてすぐ、逢坂の関(滋賀県大津市など)で京を懐かしんでいます。

〈逢坂の関うち越ゆるほどもなく 今朝は都の人ぞ恋しき〉
(逢坂の関を越えるやいなや、もう今朝は都の人が恋しい)

 これは友人・源為善に送った和歌。為善は、藤原為時の越前守任官時の因縁の相手・源国盛の子で、親同士の関係を思うと、何とも不思議な友人関係です。ところが、この越後行きは死出の旅。何とか父のもとに着いたものの病床に伏してしまいます。恋人・中将の君にも和歌を送っています。

〈都にもこひしき人のおほかれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ〉
(都にも恋しい人がたくさんいるので、この度の旅からは生きて帰りたいと思う)

 この和歌は惟規の最期にも引用されています。

最後の文字が欠けた辞世の句

 『今昔物語集』に藤原惟規の臨終が描かれています。

 いよいよとみた父・藤原為時は徳の高い高僧を招きます。僧は死んで最初に行くのは「中有(ちゅうう)」だと説明。生まれ変わる先が決まらない間、鳥も獣もいない荒涼とした世界を旅するのだと説きます。

高僧:「何もない広野を一人とぼとぼと行く心細さ、残してきた人への恋しさはどんなにつらいか想像しなさい」

惟規:「その中有には嵐に散る紅葉や風になびくススキはありますか。その下で鳴く松虫の声は聞こえないのでしょうか」

高僧:「何のためにそんなことをお尋ねになる?」

惟規:「もしそうなら、それを見て心の慰めになります」

 僧は怒って帰ってしまいます。鳥や獣はいないと説明したのに「ならば、和歌の題材になる紅葉やススキや松虫は?」という幼稚な質問で、当時の宗教観では、悟りを開く境地とは真逆でした。

 そして、惟規は両手を上げてひらひらさせます。為時がその意味が分からずにいると、傍らの人が「もしや、何か書こうとしているのでは」と尋ね、惟規がうなずきます。筆を濡らして紙を渡しました。辞世の句です。

〈都にもわびしき人のあまたあれば なおこのたびはいかむとぞ思ふ〉
(わびしく都にいて、この私を待ってくれる多くの人もいることだから、何としても生きてこの旅を終え、もう一度都に帰りたい)

 最後の文字を書き終えず息絶え、為時が「ふ」の字を書き加えました。まだ30代半ばか40歳前だったとみられます。

おわりに

 藤原為時、惟規父子はともに式部丞、六位蔵人に就きましたが、その出世コースの経験や藤原道長とのコネを十分に生かせず、不器用な人生を送りました。父や弟を心配した紫式部も陽気な方ではなく、親子に共通した性質かもしれません。しかし、為時は漢詩、惟規は和歌に自信や生きがいがあって、中級貴族なりのプライドを持っていました。出世、保身よりも好きなこと、得意なことを重視する価値観を持っていたようです。


【主な参考文献】
  • 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫
  • 山本淳子『紫式部ひとり語り』(KADOKAWA、2020年)角川ソフィア文庫
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
  • 武石彰夫訳『今昔物語集本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社、2016年)講談社学術文庫
  • 久保田淳、平田喜信校注『後拾遺和歌集』(岩波書店、1994年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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