【福岡県】福岡城の歴史 黒田如水ゆかりの巨大城郭

福岡城址
福岡城址
 福岡市随一の繁華街として知られる博多・天神エリア。その西隣にあるのが国史跡・福岡城跡です。黒田如水・長政父子によって築かれ、江戸時代を通じて福岡藩の政庁として機能しました。

 地形をうまく利用し、強固な縄張りを持つ福岡城は、あの加藤清正をして「自分の城は3、4日で落ちるが、福岡城は30~40日掛けないと落とせないだろう」と言わしめたとか。

 また博多湾から、翼を広げた鶴のように見えたことから、「舞鶴城」と呼ばれたそうです。そんな美しさと堅固さを併せ持った福岡城の歴史を、築城以前から遡りつつ、ご紹介してみたいと思います。

福岡城築城以前の博多

 那珂川や御笠川などが博多湾に流れ込む地に、初めて津(港)が造られたのは、奴の国王が金印を授けられた1世紀半ばだったと推測されています。

 やがて遣唐使の時代に入ると、大宰府の外港として那ノ津が機能し、海外使節の接待場所と宿泊施設を兼ねた「鴻臚館(筑紫館)」という迎賓館が設置されました。発掘調査の結果、鴻臚館は現在の福岡城三の丸付近にあったと考えられています。

 しかし貿易の衰退とともに鴻臚館の役割は失われていき、11世紀後半になると歴史から姿を消しました。その後、港湾機能の中心は博多へ移り、13世紀後半の元寇を経たのちは、博多の都市化が進展していったようです。

 さらに15世紀初頭、日明貿易の拠点となったことで、博多は日本随一の国際都市へと成長していきました。

 ところが戦国時代、九州全域が戦乱に巻き込まれる中、博多も戦火に見舞われてしまいます。市街地は灰燼に帰し、すっかり荒れ果ててしまいました。

 そんな博多を救ったのが、九州を平定したばかりの豊臣秀吉です。すぐさま黒田官兵衛(如水)や石田三成らに復興を命じ、博多商人の協力も得ながら都市整備をおこないました。それは「太閤町割り」と呼ばれ、現在もその面影を見ることができます。

 その後、博多を含む筑前は小早川隆景の所領となり、博多湾へ突き出す丘陵上に名島城を築きました。文禄4年(1595)に隆景が三原城へ移ると、養子の小早川秀秋が入城しています。

黒田如水が主導した福岡城築城

 慶長5年(1600)年に関ヶ原の戦いが起こると、黒田長政は東軍主力として勝利に貢献し、父・如水もまた九州で活躍しています。ただし、徳川家康から所領加増の内示はあったものの、如水はこれを辞退して隠居を表明。

 いっぽう論功行賞の結果、長政には筑前52万石が与えられ、さっそく黒田父子は中津城から名島城へ移っていきました。

 この時、一族・家臣や家族たちを伴って移転していますが、中津城下の町人や僧侶・神官なども、黒田家に従って筑前へ移り住んだといいます。この集団移転は「筑前御討入り」と呼ばれ、領主・領民あげての大規模なものとなりました。

大河ドラマでもお馴染みの黒田官兵衛(崇福寺蔵、出典:wikipedia)
大河ドラマでもお馴染みの黒田官兵衛(崇福寺蔵、出典:wikipedia)

 さて、名島城へ入った黒田父子ですが、さっそく問題点に気付きました。たしかに天守を持つ要害堅固な城だったものの、博多湾に突き出た丘陵上にあることから、城下町を整備するには狭すぎます。また博多から外れていることで、効率的に領国統治を行うには、北へ寄り過ぎていたのです。

 そこで長政は、名島城に代わる新城の築城を決定しました。まず候補地を福崎・荒津・箱崎・住吉の4ヶ所に絞り、その中から福崎を選んでいます。ちょうど博多と隣接しているため、一から城下町を整備する必要がありません。

 また古代から中世にかけて、福崎・博多周辺の造成が行われており、新城を築くのに適していました。

福岡城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 築城は慶長6年(1601)から始まり、名島城の破却と並行して行われていきます。如水は大宰府に仮の寓居を造って移り、三の丸御殿が完成するまで、そこで暮らしたようです。

 ちょうどこの時期、長政は上洛しており、如水が主体となって築城を進めたとされています。如水は誰もが認める築城名人ですから、存分に手腕を発揮したのでしょう。

 如水は慶長9年(1604)に亡くなりますが、その後も築城は続けられました。ようやく完成を見たのは、築城開始から7年経ってからのことです。

 ちょうど加藤清正が築いた熊本城と同時期にあたり、その規模においても熊本城に匹敵する大城郭となりました。

 また城の名は、黒田家の故地である備前国邑久郡福岡にちなみ、「福岡城」と名付けられたそうです。

九州屈指の大城郭、その全貌とは?

 ここから福岡城がどのような城だったのか?詳しくご紹介していきましょう。

 福岡城は如水が縄張りした平山城で、それぞれの曲輪が2~3方向を取り囲む梯郭式の構造となっています。つまり天守台・本丸・二の丸・三の丸が、重なるように配置されていました。

 中枢部となる本丸・二の丸は、堅固な総石垣で固められ、城内には47に及ぶ櫓と、10余りの門が廃されていたようです。石材は名島城から運んだり、近隣の古墳から集めたものだったとか。

福岡城の縄張り(『日本古城絵図 西海道之部(1) 306 筑前国福岡城』より。一部追記。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
福岡城の縄張り(『日本古城絵図 西海道之部(1) 306 筑前国福岡城』より。一部追記。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 また那珂川の流れを引き込んで、東・北・南に内堀を形成し、西側には草ヶ江という入り江を取り込んで、巨大な水堀としました。城内へ通じる3つの橋を落とせば、容易に敵の侵入を許すことはありません。

 こうした水を巧みに用いた縄張りは、中津城がそうだったように、如水が得意とするところだったのでしょう。

 さらに東は那珂川、南東方向にある肥前堀と中掘を連結して外堀となし、城下町を取り込んだ惣構が造られました。それは博多の市街地を含む大規模なものだったようです。

現在の福岡城跡の周辺地図(出典:<a href="https://www.gsi.go.jp/top.html">国土地理院ウェブサイト</a>)
現在の福岡城跡の周辺地図(出典:国土地理院ウェブサイト

 福岡城では天守台こそ造られましたが、実際に天守が存在したかどうかは定かではありません。また本丸中央部には本丸御殿が置かれ、藩主の住居兼政庁としての役割を持っていました。ただし規模が小さかったことで、2代藩主・黒田忠之の頃に、その機能が三の丸御殿へ移されています。

 その他、二の丸や三の丸には、御殿や各種の櫓、重臣屋敷などが置かれ、福岡城の中心を構成していました。

 現存遺構としては、二の丸南郭にある多聞櫓が国指定重要文化財となっています。江戸時代から現在の位置を保っている唯一の櫓とされ、石落としや鉄砲狭間を備えた実戦的な造りが特徴です。

多聞櫓
多聞櫓

 また三の丸に建っていたという(伝)潮見櫓ですが、これは大正時代に、旧黒田家別邸へ移されたものが潮見櫓として伝わってきました。しかし近年の調査から、別の建物が潮見櫓であると判明したため、(伝)を付けて呼ばれるようになったとか。

 さらに城の西側には下之橋御門があり、東側の上之橋御門とともに、城内へ入るための門として使用されました。平成12年(2000)までは現存していたのですが、失火によって焼失。現在の門は平成20年(2008)に復元されたものです。

復元された下之橋御門
復元された下之橋御門

果たして天守は築かれたのか?

 実は福岡城には、大・中・小と3つの天守台があります。特に大天守台は、東西25メートル、南北22メートルの大きさを誇り、そこには五重クラスの天守が存在した可能性があるのです。

 しかしながら史料が乏しく、果たして天守があったのかどうか?長らく議論が続けられてきました。これまで唱えられてきた説を、いくつかご紹介します。

1、天守は建てられたが、何らかの理由で取り壊された
 天守台には40個に及ぶ建物礎石が確認されており、「細川家文書」によれば、元和6年(1620)に黒田長政が、幕府を憚って取り壊したという記事が見えます。
2、当初から福岡城に天守が存在しなかった
 まず「黒田家譜」など福岡藩の文書に記載がないこと。また黒田如水が、泰平の世で天守は不要と考え、あえて築かなかったという説です。
3、天守建設計画はあったが、実行されなかった
 正保3年(1646)に作成された「福博総絵図」によれば、中・小天守台については「矢倉跡」と書かれてものの、大天守台には「天守臺」としか記載されていません。もし天守があったのなら「天守跡」と書かれているはず。だから計画はあったにせよ、実行されなかったという説です。
4、建設途中で取り壊された
 これは何らかの災害や事故で、建設を断念したという説です。伊賀上野城なども建設中の天守が、暴風によって倒壊していますから、あり得ない話ではありません。
──
 おおむね4つの説が唱えられてきましたが、やはり可能性が高いのは「天守は建てられたが、何らかの理由で取り壊された」という説かも知れません。

 実は大正8年(1919)のこと、九州日報(現在の西日本新聞の前身)が、「福岡城大天守閣の模型発見」と題する記事を写真付きで報じています。それは豪壮な層塔型五重天守で、名古屋城天守を彷彿とさせるものでした。

 とはいえ、あまりに立派な天守を造ったところで、幕府から疑念を抱かれては元も子もありません。実際に福島正則は、広島城を無断修築したとして、改易の憂き目に遭っています。

 もちろん長政が危機感を持たないわけがなく、自ら進んで天守を取り壊したと考えられるのです。おそらく建設されてから早い段階で、天守は破却されてしまったのでしょう。

その後の福岡城

 江戸時代を通じて、福岡城に大規模な改変が加えられた形跡はありません。ただ水を巧みに取り入れたことで、洪水による被害が絶えませんでした。土塁や石垣が崩れるという破損も起こったようです。

 『黒田家譜』によれば、少なくとも石垣の修復回数は33回を数え、櫓や門の建て替え・修復に至っては、享保年間以降の90年で306回もあったとか。絶え間ない修復工事によって、福岡城は維持されてきたのでしょう。

 さて明治時代になると福岡城は廃城となり、明治5年(1872)から4年間は福岡県庁が置かれました。その後は軍用地として陸軍歩兵第14連隊が駐屯。その際、既存の建造物が解体・移築されたといいます。

 また城を囲む堀も、都市発展とともに埋め立てられていき、往時の面影は失われていきました。

 戦後、城跡には野球場や病院・学校などが建ち、昭和32年(1957)に国史跡として指定されてからは、舞鶴公園として市民の憩いの場となっています。

 また平成9年(1997)に平和台球場が取り壊されると、鴻臚館跡の本格的な調査が始められ、現在も発掘調査が継続しているそうです。今後、さらに福岡城跡の整備が進むのではないでしょうか。

おわりに

 もし黒田父子が新城を築かず、名島城で腰を落ち着けていたなら?おそらく現在の博多の繁栄はなかったことでしょう。しかし問題点をしっかり把握し、綿密な築城計画を練り上げた如水の着眼点はさすがです。

 古くからある博多の町を取り込み、水の流れを巧みに生かした城を築き上げたのですから、まさに天才だったと言わざるを得ません。

 現在の福岡城に、建造物はあまり残っていませんが、石垣や縄張りなど、ほぼ当時の姿を留めています。もし博多へやって来たなら、ぜひ城内を散策しつつ、福岡城の歴史を感じて頂きたいものです。

補足:福岡城の略年表

出来事
慶長5年
(1600)
黒田長政が筑前52万石を与えられて名島城へ入る。
慶長6年
(1601)
福岡城の築城が始まる。
慶長7年
(1602)
黒田長政が名島城から福岡城本丸へ移る。
慶長12年
(1607)
福岡城が完成。 
元和6年
(1620)
幕府へ忠誠を誓うため、天守が取り壊される。(諸説あり)
寛永9年
(1632)
黒田騒動が起こり、家老・栗山大膳が三の丸に立て籠もる。
寛文11年
(1671)
3代藩主・黒田光之が、三の丸に藩主御殿を移す。
文久3年
(1863)
異国船に対する警備のため、台場が福岡・博多に造られる。
明治5年
(1872)
廃城に伴い、城跡に福岡県庁が置かれる。
明治6年
(1873)
筑前竹槍一揆が発生。鎮圧のため、歩兵第11大隊が駐屯する。
明治9年
(1876)
福岡県庁が城外へ移転し、歩兵第14連隊が駐屯する。
大正6年
(1917)
花見櫓・潮見櫓・本丸表御殿は崇福寺、祈念櫓が大正寺に払い下げられる。
大正7年
(1918)
武具櫓・本丸裏御門が黒田家別邸へ払い下げられる。
昭和20年
(1945)
太平洋戦争敗戦。一時期、福岡城内へ米軍が進駐。
昭和32年
(1957)
福岡城跡が国史跡に指定され、舞鶴公園として整備が決定する。
平成18年
(2006)
日本100名城に選定される。
平成20年
(2008)
焼失していた下之橋御門が復元される。


【主な参考文献】
  • 岡寺良『九州の名城を歩く 福岡編』(吉川弘文館、2023年)
  • 福岡市博物館『黒田長政と二十四騎』(黒田長政と二十四騎展実行委員会、2000年)
  • 三浦明彦『黒田如水』(西日本新聞社、1996年)
  • 野間晴雄『47都道府県・城下町百科』(丸善出版、2023年)
  • 福岡市教育委員会『福岡城跡 潮見櫓・時櫓整備に伴う確認調査報告』(2007年)
  • 福岡市教育委員会『福岡城祈念櫓跡 第6次調査報告』(2014年)
  • 村田修三『日本名城百選』(小学館、2008年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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