【福岡県】福岡城の歴史 黒田如水ゆかりの巨大城郭
- 2024/05/01
地形をうまく利用し、強固な縄張りを持つ福岡城は、あの加藤清正をして「自分の城は3、4日で落ちるが、福岡城は30~40日掛けないと落とせないだろう」と言わしめたとか。
また博多湾から、翼を広げた鶴のように見えたことから、「舞鶴城」と呼ばれたそうです。そんな美しさと堅固さを併せ持った福岡城の歴史を、築城以前から遡りつつ、ご紹介してみたいと思います。
福岡城築城以前の博多
那珂川や御笠川などが博多湾に流れ込む地に、初めて津(港)が造られたのは、奴の国王が金印を授けられた1世紀半ばだったと推測されています。やがて遣唐使の時代に入ると、大宰府の外港として那ノ津が機能し、海外使節の接待場所と宿泊施設を兼ねた「鴻臚館(筑紫館)」という迎賓館が設置されました。発掘調査の結果、鴻臚館は現在の福岡城三の丸付近にあったと考えられています。
しかし貿易の衰退とともに鴻臚館の役割は失われていき、11世紀後半になると歴史から姿を消しました。その後、港湾機能の中心は博多へ移り、13世紀後半の元寇を経たのちは、博多の都市化が進展していったようです。
さらに15世紀初頭、日明貿易の拠点となったことで、博多は日本随一の国際都市へと成長していきました。
ところが戦国時代、九州全域が戦乱に巻き込まれる中、博多も戦火に見舞われてしまいます。市街地は灰燼に帰し、すっかり荒れ果ててしまいました。
そんな博多を救ったのが、九州を平定したばかりの豊臣秀吉です。すぐさま黒田官兵衛(如水)や石田三成らに復興を命じ、博多商人の協力も得ながら都市整備をおこないました。それは「太閤町割り」と呼ばれ、現在もその面影を見ることができます。
その後、博多を含む筑前は小早川隆景の所領となり、博多湾へ突き出す丘陵上に名島城を築きました。文禄4年(1595)に隆景が三原城へ移ると、養子の小早川秀秋が入城しています。
黒田如水が主導した福岡城築城
慶長5年(1600)年に関ヶ原の戦いが起こると、黒田長政は東軍主力として勝利に貢献し、父・如水もまた九州で活躍しています。ただし、徳川家康から所領加増の内示はあったものの、如水はこれを辞退して隠居を表明。いっぽう論功行賞の結果、長政には筑前52万石が与えられ、さっそく黒田父子は中津城から名島城へ移っていきました。
この時、一族・家臣や家族たちを伴って移転していますが、中津城下の町人や僧侶・神官なども、黒田家に従って筑前へ移り住んだといいます。この集団移転は「筑前御討入り」と呼ばれ、領主・領民あげての大規模なものとなりました。
さて、名島城へ入った黒田父子ですが、さっそく問題点に気付きました。たしかに天守を持つ要害堅固な城だったものの、博多湾に突き出た丘陵上にあることから、城下町を整備するには狭すぎます。また博多から外れていることで、効率的に領国統治を行うには、北へ寄り過ぎていたのです。
そこで長政は、名島城に代わる新城の築城を決定しました。まず候補地を福崎・荒津・箱崎・住吉の4ヶ所に絞り、その中から福崎を選んでいます。ちょうど博多と隣接しているため、一から城下町を整備する必要がありません。
また古代から中世にかけて、福崎・博多周辺の造成が行われており、新城を築くのに適していました。
築城は慶長6年(1601)から始まり、名島城の破却と並行して行われていきます。如水は大宰府に仮の寓居を造って移り、三の丸御殿が完成するまで、そこで暮らしたようです。
ちょうどこの時期、長政は上洛しており、如水が主体となって築城を進めたとされています。如水は誰もが認める築城名人ですから、存分に手腕を発揮したのでしょう。
如水は慶長9年(1604)に亡くなりますが、その後も築城は続けられました。ようやく完成を見たのは、築城開始から7年経ってからのことです。
ちょうど加藤清正が築いた熊本城と同時期にあたり、その規模においても熊本城に匹敵する大城郭となりました。
また城の名は、黒田家の故地である備前国邑久郡福岡にちなみ、「福岡城」と名付けられたそうです。
九州屈指の大城郭、その全貌とは?
ここから福岡城がどのような城だったのか?詳しくご紹介していきましょう。福岡城は如水が縄張りした平山城で、それぞれの曲輪が2~3方向を取り囲む梯郭式の構造となっています。つまり天守台・本丸・二の丸・三の丸が、重なるように配置されていました。
中枢部となる本丸・二の丸は、堅固な総石垣で固められ、城内には47に及ぶ櫓と、10余りの門が廃されていたようです。石材は名島城から運んだり、近隣の古墳から集めたものだったとか。
また那珂川の流れを引き込んで、東・北・南に内堀を形成し、西側には草ヶ江という入り江を取り込んで、巨大な水堀としました。城内へ通じる3つの橋を落とせば、容易に敵の侵入を許すことはありません。
こうした水を巧みに用いた縄張りは、中津城がそうだったように、如水が得意とするところだったのでしょう。
さらに東は那珂川、南東方向にある肥前堀と中掘を連結して外堀となし、城下町を取り込んだ惣構が造られました。それは博多の市街地を含む大規模なものだったようです。
福岡城では天守台こそ造られましたが、実際に天守が存在したかどうかは定かではありません。また本丸中央部には本丸御殿が置かれ、藩主の住居兼政庁としての役割を持っていました。ただし規模が小さかったことで、2代藩主・黒田忠之の頃に、その機能が三の丸御殿へ移されています。
その他、二の丸や三の丸には、御殿や各種の櫓、重臣屋敷などが置かれ、福岡城の中心を構成していました。
現存遺構としては、二の丸南郭にある多聞櫓が国指定重要文化財となっています。江戸時代から現在の位置を保っている唯一の櫓とされ、石落としや鉄砲狭間を備えた実戦的な造りが特徴です。
また三の丸に建っていたという(伝)潮見櫓ですが、これは大正時代に、旧黒田家別邸へ移されたものが潮見櫓として伝わってきました。しかし近年の調査から、別の建物が潮見櫓であると判明したため、(伝)を付けて呼ばれるようになったとか。
さらに城の西側には下之橋御門があり、東側の上之橋御門とともに、城内へ入るための門として使用されました。平成12年(2000)までは現存していたのですが、失火によって焼失。現在の門は平成20年(2008)に復元されたものです。
果たして天守は築かれたのか?
実は福岡城には、大・中・小と3つの天守台があります。特に大天守台は、東西25メートル、南北22メートルの大きさを誇り、そこには五重クラスの天守が存在した可能性があるのです。しかしながら史料が乏しく、果たして天守があったのかどうか?長らく議論が続けられてきました。これまで唱えられてきた説を、いくつかご紹介します。
- 1、天守は建てられたが、何らかの理由で取り壊された
- 天守台には40個に及ぶ建物礎石が確認されており、「細川家文書」によれば、元和6年(1620)に黒田長政が、幕府を憚って取り壊したという記事が見えます。
- 2、当初から福岡城に天守が存在しなかった
- まず「黒田家譜」など福岡藩の文書に記載がないこと。また黒田如水が、泰平の世で天守は不要と考え、あえて築かなかったという説です。
- 3、天守建設計画はあったが、実行されなかった
- 正保3年(1646)に作成された「福博総絵図」によれば、中・小天守台については「矢倉跡」と書かれてものの、大天守台には「天守臺」としか記載されていません。もし天守があったのなら「天守跡」と書かれているはず。だから計画はあったにせよ、実行されなかったという説です。
- 4、建設途中で取り壊された
- これは何らかの災害や事故で、建設を断念したという説です。伊賀上野城なども建設中の天守が、暴風によって倒壊していますから、あり得ない話ではありません。
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実は大正8年(1919)のこと、九州日報(現在の西日本新聞の前身)が、「福岡城大天守閣の模型発見」と題する記事を写真付きで報じています。それは豪壮な層塔型五重天守で、名古屋城天守を彷彿とさせるものでした。
とはいえ、あまりに立派な天守を造ったところで、幕府から疑念を抱かれては元も子もありません。実際に福島正則は、広島城を無断修築したとして、改易の憂き目に遭っています。
もちろん長政が危機感を持たないわけがなく、自ら進んで天守を取り壊したと考えられるのです。おそらく建設されてから早い段階で、天守は破却されてしまったのでしょう。
その後の福岡城
江戸時代を通じて、福岡城に大規模な改変が加えられた形跡はありません。ただ水を巧みに取り入れたことで、洪水による被害が絶えませんでした。土塁や石垣が崩れるという破損も起こったようです。『黒田家譜』によれば、少なくとも石垣の修復回数は33回を数え、櫓や門の建て替え・修復に至っては、享保年間以降の90年で306回もあったとか。絶え間ない修復工事によって、福岡城は維持されてきたのでしょう。
さて明治時代になると福岡城は廃城となり、明治5年(1872)から4年間は福岡県庁が置かれました。その後は軍用地として陸軍歩兵第14連隊が駐屯。その際、既存の建造物が解体・移築されたといいます。
また城を囲む堀も、都市発展とともに埋め立てられていき、往時の面影は失われていきました。
戦後、城跡には野球場や病院・学校などが建ち、昭和32年(1957)に国史跡として指定されてからは、舞鶴公園として市民の憩いの場となっています。
また平成9年(1997)に平和台球場が取り壊されると、鴻臚館跡の本格的な調査が始められ、現在も発掘調査が継続しているそうです。今後、さらに福岡城跡の整備が進むのではないでしょうか。
おわりに
もし黒田父子が新城を築かず、名島城で腰を落ち着けていたなら?おそらく現在の博多の繁栄はなかったことでしょう。しかし問題点をしっかり把握し、綿密な築城計画を練り上げた如水の着眼点はさすがです。古くからある博多の町を取り込み、水の流れを巧みに生かした城を築き上げたのですから、まさに天才だったと言わざるを得ません。
現在の福岡城に、建造物はあまり残っていませんが、石垣や縄張りなど、ほぼ当時の姿を留めています。もし博多へやって来たなら、ぜひ城内を散策しつつ、福岡城の歴史を感じて頂きたいものです。
補足:福岡城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
慶長5年 (1600) | 黒田長政が筑前52万石を与えられて名島城へ入る。 |
慶長6年 (1601) | 福岡城の築城が始まる。 |
慶長7年 (1602) | 黒田長政が名島城から福岡城本丸へ移る。 |
慶長12年 (1607) | 福岡城が完成。 |
元和6年 (1620) | 幕府へ忠誠を誓うため、天守が取り壊される。(諸説あり) |
寛永9年 (1632) | 黒田騒動が起こり、家老・栗山大膳が三の丸に立て籠もる。 |
寛文11年 (1671) | 3代藩主・黒田光之が、三の丸に藩主御殿を移す。 |
文久3年 (1863) | 異国船に対する警備のため、台場が福岡・博多に造られる。 |
明治5年 (1872) | 廃城に伴い、城跡に福岡県庁が置かれる。 |
明治6年 (1873) | 筑前竹槍一揆が発生。鎮圧のため、歩兵第11大隊が駐屯する。 |
明治9年 (1876) | 福岡県庁が城外へ移転し、歩兵第14連隊が駐屯する。 |
大正6年 (1917) | 花見櫓・潮見櫓・本丸表御殿は崇福寺、祈念櫓が大正寺に払い下げられる。 |
大正7年 (1918) | 武具櫓・本丸裏御門が黒田家別邸へ払い下げられる。 |
昭和20年 (1945) | 太平洋戦争敗戦。一時期、福岡城内へ米軍が進駐。 |
昭和32年 (1957) | 福岡城跡が国史跡に指定され、舞鶴公園として整備が決定する。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選定される。 |
平成20年 (2008) | 焼失していた下之橋御門が復元される。 |
【主な参考文献】
- 岡寺良『九州の名城を歩く 福岡編』(吉川弘文館、2023年)
- 福岡市博物館『黒田長政と二十四騎』(黒田長政と二十四騎展実行委員会、2000年)
- 三浦明彦『黒田如水』(西日本新聞社、1996年)
- 野間晴雄『47都道府県・城下町百科』(丸善出版、2023年)
- 福岡市教育委員会『福岡城跡 潮見櫓・時櫓整備に伴う確認調査報告』(2007年)
- 福岡市教育委員会『福岡城祈念櫓跡 第6次調査報告』(2014年)
- 村田修三『日本名城百選』(小学館、2008年)
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