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【史跡散策】京都 養源院…血天井だけじゃない、淀殿とお江の執念が籠る寺へ
- 2024/08/05
京都市東山区にある養源院(ようげんいん)は、三十三間堂のすぐ東側にある。京都駅からはバスで東山方面へ数分の距離だ。養源院の南側は、駅前から続く塩小路通り、太閤塀のラインまでが広大な方広寺の境内になっていた。
養源院は浄土真宗遣迎院派(じょうどしんしゅうけんごういんは)という珍しい宗派の寺院だ。山号は南叡山、本尊は阿弥陀如来。浄土真宗遣迎院派は、ネーミングからは浄土真宗になるが、もとは天台系仏教の一派で、教義的にも天台宗寄りといわれ、浄土真宗のいわゆる「真宗10派」にも入っていない。
豊臣秀吉の側室である淀殿(浅井三姉妹の長女・茶々)が、父である近江の戦国武将・浅井長政の菩提を弔うために文禄3年(1594)に創建した。寺名は長政の法名に由来しているという。
北近江の小谷城に生まれた淀殿は、父の浅井長政を自害へ追い込んだ秀吉の側室となることで、結果的に菩提寺を建て、追善供養を営んだ。
淀殿は長女であると同時に、父の記憶を三姉妹の中でもっとも鮮明に覚えていただろう。特に生まれたばかりで父の面影もぬくもりも知らない末っ子のお江には、父長政はこんなに優しく、強く、誇り高い武将だった、と話して聞かせてあげただろう。浅井長政の正室・お市の方の位牌も安置されているという。
この土地に浅井の菩提寺を造り、ここで盛大な供養を営んだ淀殿は、「私は浅井家の人間であり、しかも織田家の血を引いている」という強いこだわりがあったかもしれない。
元和元年(1615)の大阪夏の陣において、淀殿と子の豊臣秀頼が自刃。翌元和二年(1616)に、徳川秀忠正室のお江(お江与)、つまり崇源院によって、淀殿と秀頼の菩提が弔われた。その後、落雷によって焼失したが、元和7年(1621)に崇源院が伏見城の遺構を移して再建した。以降、徳川(歴代)将軍の位牌所となっている。
養源院は、本堂の襖絵「松図」や、白象、唐獅子、麒麟を描いた杉戸絵が俵屋宗達の作で重要文化財であることで知られている。
また、本堂廊下の上の天井は血天井で、関ヶ原前哨戦の伏見城の戦いでの鳥居元忠らの血痕であることもよく知られている。伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりのしみた板を使ったというものだ。さらにそれを弔うこれも俵屋宗達による杉戸絵でも知られている。
残念ながら内部撮影はできず、立ち入りができないが、お堂には淀殿が最後まで持っていたとされる「念持仏」が安置されているという。越前の北庄城落城時に母のお市の方から託された弁財天ともいわれている。
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