早くに亡くなった紫式部の母 出世下手の夫を支えた生涯だった?

 紫式部の母は藤原為信(ためのぶ)の娘で、紫式部の姉、弟を含めた1男2女の生母ですが、それ以上詳しいことは分かりません。紫式部がかなり幼い頃に死別して記憶にないのか、『紫式部日記』も、和歌集『紫式部集』も母についての具体的な記述がありません。紫式部の母の生涯は謎に包まれていますが、貴族社会での交際や出世に不器用だった夫を支え、苦労の多い生活を送ったと想像できます。

紫式部の母 1男2女をもうける

 紫式部の父・藤原為時(ためとき)は永観2年(984)、花山天皇が即位すると、式部丞、蔵人に任官します。蔵人は天皇の秘書役で、位階は低くても上級貴族に一目置かれる存在。また、式部丞は文官人事に関わる式部省の3等官で、紫式部の女房名の由来でもあります。

 為時は36歳前後。「遅咲きでもわが身に花が咲いた」と和歌を詠んでいて、出世の遅れを自覚しています。妻である紫式部の母はこのときまで生きていたかどうか不明ですが、不遇時代の為時を支え、苦労が絶えなかったはずです。

弟・惟規誕生後、ほどなく死別か

 紫式部の母は生没年も実名も不詳です。

 紫式部の生年は天延元年(973)説のほか、天禄元年(970)~天元元年(978)と幅広い説があり、同母兄弟である惟規(のぶのり)も天延2年(974)説など970年代の生まれ。惟規を兄とする説もありますが、紫式部の弟とする見方が有力です。

 紫式部の母は、惟規出産からほどなく、紫式部2~4歳の頃、死去したのではないでしょうか。

※参考:紫式部ファミリーの家系図
※参考:紫式部ファミリーの家系図

紫式部には異母弟もいた

 紫式部には、母を同じくする姉、惟規のほかに、異母弟妹がいました。

 藤原為時の次男・惟通(のぶみち)は常陸介、三男・定暹(じょうせん)は園城寺の高僧、三女は藤原信経の妻です。彼らの母は分かっていません。為時の側室というより、後妻でしょうか。

 中級貴族でも正室のほかに側室がいる例は多く、紫式部の夫・藤原宣孝(のぶたか)は4、5人ほど妻がいて、父娘ほど年齢の離れた紫式部は側室の立場でした。かなり社交的で、恋愛に積極的だった宣孝に比べ、為時は正反対の性格。長徳2年(996)、藤原道長の推挙で越前守に任官するまで10年間くらい無職の時期があり、生活にゆとりはなかったはず。

 紫式部の母は生前、為時の唯一の妻であり、その死後に後妻を迎え、紫式部の異母弟妹が生まれたと考えられます。

夫の出世を後押し? 従姉妹の閨閥

 紫式部の母は藤原為信の娘ですが、この家の祖先は藤原長良。藤原北家の名門です。

 長良は嵯峨天皇を支えた左大臣・藤原冬嗣の長男。長良の三男・基経は長良の弟で摂政だった良房の養子となり、関白に就きました。この家系が藤原北家の主流として摂政関白の地位を継いでいきます。

母は長良流、父は良門流

 紫式部の母につながるのは長良の六男・清経の家系です。

〈藤原冬嗣―長良―清経―元名―文範―為信―紫式部の母〉

 清経や元名は参議、文範は中納言まで出世し、中央政界で活躍した貴族ですが、最上級貴族とはいえません。為信は摂津守、常陸介と受領を歴任。為信の兄弟も似たような地位の中級貴族です。

 一方、紫式部の父・藤原為時は長良の弟・良門の子孫です。

〈藤原冬嗣―良門―利基―兼輔―雅正―為時―紫式部〉

 つまり紫式部の父母は、5~6代さかのぼれば祖先を同一とする藤原北家の名門なのです。

紫式部の父母の略系図
紫式部の父母の略系図

従姉妹は花山天皇外戚の妻

 藤原為時は貞元2年(977)、師貞親王(のちの花山天皇)の御読書始めの儀で講義役を務めます。メインとなる菅原輔正(菅原道真の曽孫)の補佐ですが、皇太子の家庭教師。学問の道で出世を目指す為時にとっては運の開ける大役でした。

 この為時の起用は紫式部の母の実家の後押しがあったと推測できます。

 師貞親王はこのとき10歳で、母・懐子(ちかこ)や外祖父・藤原伊尹(これまさ)は既になく、数少ない後ろ盾は懐子の弟・藤原義懐(よしちか)でした。そして、義懐の妻と紫式部の母は従姉妹(いとこ)同士。紫式部の母の父・為信と義懐の妻の父・為雅が兄弟だったのです。

紫式部の母と花山天皇の関係略系図
紫式部の母と花山天皇の関係略系図

 為時は、妻の縁から藤原義懐という有力者のコネを得て、親王の家庭教師に抜擢され、親王が即位すると、側近として登用されます。しかし、花山天皇退位後、義懐は出家し、政界を引退。為時はこの後、越前守任官まで10年ほど無職で、再び不遇の時期を迎えます。義懐の引退で有力なコネを失ったのです。

紫式部の知られざる実姉と、親友「姉君」

 紫式部の母同様、姉も史料からははっきりと確認できませんが、紫式部が若いときの親友を「姉君」と呼んでいたことが手掛かりとなります。紫式部が実の姉を亡くし、親友が妹を亡くしていたので、「姉君」「中の君」と呼び合ったのです。「中の君」は次女、妹を指しています。

 年上と思われる親友「姉君」と紫式部はいつの時点で交流があったのかはハッキリしません。ただ、長徳元年(995)、紫式部が20歳前後のときに再会し、「姉君」と呼ぶようになるので、実姉はそれ以前に亡くなっていることが分かります。親友との再会場面の和歌は「百人一首」にも選ばれています。

 実姉の死去の時期ですが、あまり記憶にないのか、紫式部による具体的な記述がないので、母同様、幼いときだったとみられます。

 しかし、『紫式部集』には、気になる和歌があります。方違えで宿泊した男性が部屋に忍び込み、翌朝、紫式部が挑発的に問いかけます。

紫式部:〈おぼつかなそれかあらぬか明けぐれの 空おぼれする朝顔の花〉
(訳:どうも気になりますわ、昨夜の方なのかどうなのか。明け方の薄暗い空のようにぼんやりと、そらとぼけた朝のお顔を拝見して)

返歌:〈いづれぞと色分く程に朝顔の あるかなきかに成るぞ侘しき〉
(訳:姉妹のどちらかから贈られた朝顔かと見定めているうちに肝心の朝顔の花があるかないかのようにしおれてしまい、何ともわびしいことです)

 男性の返歌を「姉妹のどちらか」と解釈すると、かなりの年頃まで実姉が生存していたことになります。なお、この男性は後の夫・藤原宣孝とする見方があります。

身近な人との別れが相次いだ前半生

 紫式部の親友「姉君」は再会後、間もなく筑紫へ移住しました。夫か親族の任官についていったとみられます。

 長徳2年(996)には父・藤原為時の越前守任官に伴い、紫式部も京を離れます。その後も「姉君」とは手紙のやり取りをしていましたが、しばらくして「姉君」の手紙は跡絶え、その後、筑紫で亡くなったことを知らされます。

 母、姉に続き、「姉君」と慕った親友とも死別したのです。

おわりに

 紫式部が幼いときに母と死別したというのは、あくまで説の一つ。確かな証拠はありません。少女時代を母と過ごしたものの、死別がつらい記憶となり、あえて『紫式部集』などに和歌を残していないという可能性もあります。また、実姉は「姉君」と慕った親友がいなければ、その存在が見落とされたかもしれません。

 では、紫式部が肉親についてはあまり語らなかったのかといえば、むしろ父・為時、弟・惟規については『紫式部日記』の記述から性格も垣間見えるほど書き残しています。母のことを何も書き残していないのは、やはり、母との記憶がないとみるのが自然です。


【主な参考文献】
  • 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫
  • 山本淳子『紫式部ひとり語り』(KADOKAWA、2020年)角川ソフィア文庫
  • 山本利達校注『紫式部日記 紫式部集』(新潮社、1980年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。