紫式部による辛辣な人物評 『紫式部日記』にみえる、才女たちへの辛口コメント
- 2023/12/07
紫式部が『源氏物語』を著した平安時代中期、宮中ではほかにも教養ある女性たちが活躍しました。代表的なのは天皇の妃(きさき)に仕える女房です。女房はさまざまな仕事をしますが、妃の家庭教師や話し相手となる女房は高い教養が求められ、特に和歌が得意な女房は数多くいました。
『紫式部日記』では、そうした才女たちがいろいろと批評されています。紫式部の批評眼は同時代の才女をどのように見ていたのでしょうか?
『紫式部日記』では、そうした才女たちがいろいろと批評されています。紫式部の批評眼は同時代の才女をどのように見ていたのでしょうか?
※『紫式部日記』:紫式部が記した日記。宮仕え中の寛弘5年(1008)秋から同7年(1010)正月に至る足掛け3年の見聞や感想を記したもの。
「清少納言」批判の理由は漢字が書けること?
紫式部のライバルといえば、『枕草子』の作者・清少納言です。「清少納言」は実名ではなく、女房としての呼び名。父は和歌の名手・清原元輔。女房名は、清原氏の「清」と「少納言」の組み合わせですが、父や夫ら家族、近い親族で少納言を務めた人物が誰なのかは分かっていません。
使える女性も、その実家もライバル関係
紫式部は一条天皇の中宮・藤原彰子(藤原道長の長女)の女房で、清少納言は一条天皇の皇后・藤原定子(藤原道隆の長女)の女房。藤原道隆と藤原道長は兄弟で、それぞれ娘を天皇の中宮にしました。 先に中宮になったのは藤原道隆の長女・定子で、道隆死後、弟・道長は実権を握り、彰子を一条天皇の中宮にします。
中宮と皇后は本来同じ意味で、多くの妃の中で中宮は1人だけ。ほかは女御、更衣などの側室です。しかし、道長はそれまで中宮だった定子の呼び方を皇后と変え、「一帝二后」(1人の天皇に2人の皇后)の裏技で自分の娘の彰子を中宮とします。
道長と道隆の子息は政治的ライバルで、彰子と定子は一条天皇の寵愛を競うライバル、それぞれの女房である紫式部と清少納言もライバル関係となります。
「風流を気取って中身なし」と手厳しく
『紫式部日記』は、清少納言を「利口ぶって漢字を書き散らしているけど、よく見れば、その才能はまだまだ足りないようです」
と辛辣に批判します。さらに
「風流を気取った人は風流にほど遠いことにもいちいち感動しますが、自然と的外れで中身のないものとなります」
とも。ここまでくると、批評を通り越し、ただの悪口です。紫式部は、漢字が書ける女性が嫌いなのでしょうか。
まず、紫式部自身も漢詩の才能がありました。それに『源氏物語』の中にも、夫に学問的知識を教え、手紙も漢字だけで書く賢い妻の話が出てきて、漢字を書く女性を否定しているわけではありません。ただ、それを自慢しない謙虚さが必要と言いたいようです。
「和泉式部」和歌を評価も恋愛遍歴にダメ出し
和泉式部は中宮・藤原彰子の女房で、紫式部の同僚です。歌人としても『後拾遺集』に多くの和歌が掲載され、『和泉式部集』、『和泉式部日記』を残しています。父は越前守・大江雅致。雅致は式部丞も務めていたとする説があります。最初の夫は和泉守・橘道貞。和泉式部の女房名は父と夫の官職によるようです。
天才型歌人と認めつつも「けしからん」
『紫式部日記』は「和泉式部は素敵な手紙を書き交わしたようですね。即興の文才がある人で、何気ない言葉にも香気を放つようにみえます。和歌は本当にお見事」
とほめます。さらに
「和歌の知識や理論は本格派の風格ではないが、出てくる言葉は必ずはっと目に留まる一言があります」
とも。天才肌の歌人だと認めているのです。
一方で「けしからぬ点がある」とチクリ。
和泉式部は奔放な恋愛関係が広く知られていて、紫式部はこれに感心できなかったようです。和泉式部は長保3年(1001)ころ、為尊親王(冷泉天皇の第3皇子)と恋愛し、親から勘当され、翌年に26歳の若さで為尊親王が薨去(死去)した後、長保5年(1003)からは敦道親王(冷泉天皇の第4皇子)と不倫。そのため、敦道親王は正妃との関係を破綻させます。そして、敦道親王も寛弘4年(1007)、27歳の若さで薨去しました。
その後、和泉式部は藤原保昌と再婚。藤原保昌は武勇も和歌も優れた貴族で、藤原道長に仕えていました。この結婚は道長が関与したようです。
和泉式部への批判から紫式部は恋多き女性を嫌ったようにみえますが、『源氏物語』は必ずしもそうではありません。光源氏と頭中将に愛された夕顔はかわいらしく、恋多き女官・大輔命婦は生き生きと描かれています。和泉式部への批判は、同僚ゆえの気安い皮肉、愛あるいじりだったのかもしれません。
「赤染衛門」夫婦仲の良い本格歌人
赤染衛門は中宮・藤原彰子の女房で紫式部の同僚です。父は大隅守・赤染時用。夫は大江匡衡で、『紫式部日記』には「匡衡衛門」というあだ名があると書かれています。夫婦仲の良さがからかわれているのです。そして、紫式部は
「本格派の歌人。人にひけらかすようなことはありませんが、ちょっとした機会に詠んだ和歌でも、それこそ頭の下がる詠みぶりです」
と高く評価。この赤染衛門に比べてうまくもない歌を詠んで「自分は偉い」などと思っている人はかわいそうなくらいだと切り捨てて、赤染衛門をぐっと持ち上げます。
私生活も派手ではなく、才能を自慢することもない点が紫式部の高評価につながっているようです。
紫式部の自己批評
紫式部自身も相当な才女です。父・藤原為時が「残念だな。お前が男でないのが私の運の悪さだ」と嘆くほど漢詩の才能もありました。ただ、藤原彰子の女房として仕えていたときの紫式部はそれをおくびにも出さず、清少納言を批判したように「女性は漢字を書かない奥ゆかしさが必要」と主張しました。父に教わった漢籍(中国の書物)に目もくれないのはいいとして、
紫式部:「私は一という字の横棒を引いたことすらない」
とは、かなりおおげさなこだわりを持っていたようです。
さらに『紫式部日記』には、左衛門の内侍という女房が紫式部を目の敵にして不愉快な悪口を言っていることが書かれていますが、その中身は「紫式部はたいそう漢文の素養があるそうよ」と噂しているというもの。
悪口への文句なのか、自慢なのか、よく分からないのですが、おかげで「日本紀の御局」というあだ名を付けられ、不快だというのです。「日本書紀を講釈する女房」という意味で、清少納言を批判した手前、教養自慢とみられるのは都合が悪かったようです。
しかし、紫式部は学才を見込まれて女房に採用されたのです。清少納言への批判も含め、ちょっと意地になったようです。
おわりに
清少納言や和泉式部は平安時代中期の女流文学を代表し、後世に残した作品も評価されていますが、そうした才女にも遠慮がないのが紫式部。特に紫式部の清少納言評はライバル関係にあったためか、かなり辛辣でした。私生活も含め控えめなのが紫式部の好みのようです。一方、『源氏物語』での描写は才女や恋愛に奔放な女性を心底嫌っているわけでもないと思えます。紫式部の本音、人の見方は思いのほか複眼的。ときどき、真逆のことを言っているのかなと思えるほどです。
【主な参考文献】
- 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA)角川ソフィア文庫
- 今泉忠義『新装版源氏物語 全現代語訳』(講談社)講談社学術文庫
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