篠村八幡宮の旗揚げ 鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏の決断とは
- 2024/08/02
元弘3年(1333)、鎌倉幕府の有力御家人だった足利尊氏は反幕府勢力鎮圧のための遠征中、突如として鎌倉幕府に反旗を翻し、幕府の出先機関・六波羅探題を攻め滅ぼしました。
尊氏旗揚げの地は丹波国の篠村八幡宮(京都府亀岡市)。「源氏再興、北条氏打倒」を掲げ、ここから歴史が大きく動きます。ただ、尊氏はもっと早い時期に討幕を決意しています。
決断の時はいつか? 経緯や背景を探ります。
尊氏旗揚げの地は丹波国の篠村八幡宮(京都府亀岡市)。「源氏再興、北条氏打倒」を掲げ、ここから歴史が大きく動きます。ただ、尊氏はもっと早い時期に討幕を決意しています。
決断の時はいつか? 経緯や背景を探ります。
丹波・篠村 尊氏の討幕挙兵を彩った名場面
元弘3年(1333)4月、足利尊氏(このときは高氏)は鎌倉幕府の命令で反幕府勢力鎮圧のため鎌倉を出発し、京に入ります。六波羅探題での軍議を経て出陣。しかし、その道中の丹波・篠村に陣を敷き、ここで後醍醐天皇に味方する態度を鮮明にしました。吉例、久下の「一番」の旗印
『太平記』では、まず、地元の武士、久下時重の140~150騎が駆け付けます。その軍勢の旗や兵の笠標(かさじるし、兜や鎧に付ける目印、小旗)には「一番」と書かれていました。足利尊氏が家臣・高師直に聞きます。尊氏:「久下の者が笠識に一番という字を書いているのは家紋か。ここへ一番に参陣したという証しか」
師直:「これは由緒ある家紋です。彼らの祖先である武蔵の住人・久下重光が源頼朝殿から一番の文字を賜り、家紋としたのです」
久下重光は治承4年(1180)、平家打倒を掲げて挙兵した源頼朝のもとに真っ先に駆け付けました。頼朝は「もし、われらが天下を取ったときは一番に恩賞を取らす」と約束。その証拠に「一番」と書いて与えたといいます。これに尊氏は歓喜。
尊氏:「これは当家の吉例だ」
尊氏は頼朝の子孫ではありませんが、足利氏は頼朝と近い血縁。頼朝の子孫は絶え、足利氏こそ源氏嫡流という意識があります。久下氏参陣は頼朝挙兵につながる縁起の良さがあります。
久下氏発祥の地は武蔵・久下郷(埼玉県熊谷市)。子孫は西国に移っても、本拠地の地名「久下」を名乗り続けていたのです。
矢塚、白旗に舞う鳩のつがい
『太平記』の名場面が続きます。元弘3年(1333)5月7日午前4時頃、足利勢は篠村の宿を出発。近国の兵が次々と参陣したので2万5000騎の大軍になっています。篠村の宿を出ると、厳かな神社がありました。
足利尊氏は馬を降りて兜を脱ぎ、祠の前にひざまずきます。聞けば、石清水八幡宮から勧請した社(やしろ)。源氏の氏神だったのです。願文を奉納し、尊氏が鏑矢を供えると、ほかの者も続いて矢を奉納。矢は社殿にあふれ、塚のように積み上がります。篠村八幡宮に残る矢塚の伝説です。
尊氏が大江山の峠を越えるとき、進軍する足利軍の白旗の上に山鳩のつがいが舞います。鳩は石清水八幡宮の使い。
「これは八幡大菩薩がわれらをお守りくださるしるし。鳩の飛ぶ方向に進むべし」
吉兆に全軍の士気が高まります。敵が5騎、10騎と旗を巻き、兜を脱いで降参し、合流。尊氏の兵は5万騎に膨れ上がり、六波羅探題を攻撃します。
鎌倉出陣時の決意 鎌倉幕府との決別を胸に?
足利尊氏はどの時点で鎌倉幕府討幕を決意したのでしょうか?『太平記』では鎌倉を出るとき既に心は決まっていました。一方、『難太平記』では京へ向かう道中の三河で決心したとあります。
妻子人質、起請文を出し鎌倉出陣
『太平記』では、足利尊氏は再三の出兵催促に憤慨します。尊氏:「父の喪に服して3カ月も経っていないし、病も癒えていないのに、またも遠征を催促されるのは腹立たしい。北条高時は(源頼朝に従った)北条時政の子孫だし、自分は清和源氏の一族。こうなったら、一家を上げて上洛し、先帝(後醍醐天皇)の味方になって六波羅を攻め滅ぼしてやろう」
こう決心すると、北条高時の使いとして日に2度も「ご上洛が遅れているのは理解しがたい」と催促する工藤高景に対して「ただちに上洛します」と返答。出発準備を始めます。ただ、女性や幼い子供も連れていくというので、さすがに長崎円喜が怪しく思い、北条高時に忠告します。
円喜:「こういう非常時はご一門の方でも用心されるべきで、まして足利殿は源氏。何としても足利殿の妻子を鎌倉に留めおかれ、起請文の一枚でも書いていただくのがよろしいと存じます」
妻子は人質ということです。尊氏は弟・直義に相談。
尊氏:「このこと、どうしたらよいか」
直義:「幕府への反逆はご自身のためではありません。天に代わって悪逆非道の者を攻め滅ぼすのです。たとえ偽った言葉での誓紙でも、神仏が兄上の熱烈な忠誠心をお守りくださるでしょう。妻子人質の件は大事の前の小事。とにかく、相模入道(北条高時)の言う通りにして納得させ、上洛してから計略をめぐらすべきです」
元弘3年(1333)3月7日、尊氏は鎌倉を出発します。
三河・八橋 白い被衣の女のお告げ
『難太平記』では足利尊氏が幕府への謀反を考えるきっかけとして次のエピソードが登場します。鎌倉から京へ向かう道中、宿営した三河・八橋(愛知県豊田市)で、たまたま側近たちが出払って尊氏一人になった夕暮れ、白い被衣(かづき)で顔を隠した女性が現れます。
女性:「ご子孫に悪事がなければ、7代にわたる繁栄をお守りしましょう。その証拠として、これから合戦にお出かけになるたびに風雨をお見舞いすることにしましょう」
このことを告げると女性は夢のように姿を消します。不思議な出来事に遭遇した尊氏は討幕挙兵を考えるようになったといいます。
母方の伯父・上杉憲房の勧め?
足利尊氏は使者・上杉憲房を介して一族の長老、吉良貞義に意見を聞きます。貞義:「今まで遅い遅いとやきもきしながらご決心をお待ちしていました。何ともめでたいことです」
尊氏は貞義の言葉に勇気づけられ、重臣たちの合意形成を進めました。側近、重臣らの中で尊氏の本心を最初に知ったのは、吉良貞義へ使いをした上杉憲房ということになります。『難太平記』の著者で尊氏側近でもある今川了俊(今川貞世)は、上杉憲房こそが尊氏に謀反を勧めた張本人と推測しています。
上杉憲房は尊氏の母・清子の兄。上杉氏はもともと藤原北家の流れをくむ京の貴族。鎌倉幕府将軍に親王が迎えられるようになり、ともに京から鎌倉に移ってきた経緯があります。上杉憲房は京の事情に精通し、反幕府派貴族たちと関係があった可能性もあります。
三河・矢作で綸旨受け取る
元弘3年(1333)閏2月、配流先の隠岐を脱出し、伯耆・船上山(鳥取県琴浦町)で挙兵した後醍醐天皇は各地の有力武将に綸旨(天皇の命令書)を発し、鎌倉幕府討幕を呼びかけます。『太平記』では、足利尊氏は京に到着した翌日の4月17日、船上山に使者を送り、後醍醐天皇の綸旨を受けることになりますが、実際には4月10日、三河・矢作宿(愛知県岡崎市)で受けていたようです。
そして、4月22日、尊氏から岩松経家へ北条高時討伐に関する書状が発せられます。岩松氏は新田氏の一門ですが、父系は足利、母系は新田で、足利氏とも関係が深い一族。尊氏は岩松経家を通じて新田義貞と連携し、当初から京・六波羅探題と鎌倉を同時に攻める計画だったと推測できます。
京・六波羅で軍議 その裏で後醍醐天皇と連携
元弘3年(1333)4月、足利尊氏、北条一門の名越高家が京に到着。六波羅探題で南探題・北条時益、北探題・北条仲時を交え、軍議が開かれます。尊氏は、『太平記』ではこのタイミングで後醍醐天皇に使者を送り、『難太平記』では既に後醍醐天皇の綸旨を手にしています。いずれにしても、尊氏は本心を隠して六波羅の軍議に参加していました。船上山攻め、尊氏は山陰道から
六波羅探題での軍議では、足利尊氏は山陰道、名越高家が山陽道を進み、船上山を攻める方針が決まります。その途上、播磨の武将・赤松円心(赤松則村)が布陣する八幡(京都府八幡市)を正面から名越軍7600騎、背後から足利軍5000騎で攻めることになります。4月27日、「足利軍は未明のうちに出発」と聞いた名越高家は「さては足利殿、抜け駆けか」と血気にはやって出陣。兜や鎧をきらびやかに飾った名越高家の軍は赤松勢を圧倒していましたが、敵の矢が名越高家の眉間に命中。ただ一矢で形勢が逆転します。名越高家の格好が目立ち過ぎ、敵が狙いやすかったのです。
一方、足利軍は友軍の敗戦にも素知らぬ顔で丹波方面へ進軍。足利軍を抜け出した2人の武士の報告で尊氏の離反を知った六波羅探題はパニックに陥ります。
反転して六波羅攻め 1日で決着
5月7日、鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏が反転して六波羅探題を攻めます。尊氏のほか、赤松円心父子、結城親光、後醍醐天皇側近・千種忠顕の部隊がその主力。6万余騎の六波羅勢は「尊氏離反」の情報が決定的なダメージとなって戦意は低く、南探題・北条時益と北探題・北条仲時は関東への撤退を決めます。しかし、北条時益は京・東山で野伏に襲われ討ち死に。北条仲時は近江・番場峠(滋賀県米原市)で自刃。432人が後を追いました。六波羅探題は1日で全滅。京は北条氏の支配から解放されたのです。
おわりに
足利尊氏の討幕挙兵の準備は用意周到に進められており、丹波・篠村八幡宮での旗揚げは兵の士気を高めるパフォーマンス。鎌倉出陣前に討幕を決断し、その戦略も練っていたはずです。六波羅と鎌倉の同時攻撃、新田義貞との連携もその前提だったのです。虚実取り交ぜたドラマチックなエピソードに隠れた尊氏の大きな決断と現実的な戦略がありました。
【主な参考文献】
- 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
- 峰岸純夫、江田郁夫編『足利尊氏 激動の生涯とゆかりの人々』(戎光祥出版、2016年)
- 峰岸純夫、江田郁夫編『足利尊氏再発見』(吉川弘文館、2011年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄