足利尊氏に鎌倉幕府倒幕を決意させた?「家時の置文」とは何か
- 2024/05/08
「わが命を縮めて3代のうちに天下を取らせたまえ」
鎌倉幕府有力御家人・足利家時(いえとき、1260~1284)の遺書、「家時の置文(おきぶみ)」です。これについては『難太平記』に書かれています。家時は「家名を守るために自害するが、3代後の子孫に天下を取らせよ」と祈願し、その祖父の激しい遺志を受けて孫・足利尊氏が倒幕を決断したといいます。
はたして真実か創作か。ドラマチックな伝承「家時の置文」を検証します。
鎌倉幕府有力御家人・足利家時(いえとき、1260~1284)の遺書、「家時の置文(おきぶみ)」です。これについては『難太平記』に書かれています。家時は「家名を守るために自害するが、3代後の子孫に天下を取らせよ」と祈願し、その祖父の激しい遺志を受けて孫・足利尊氏が倒幕を決断したといいます。
はたして真実か創作か。ドラマチックな伝承「家時の置文」を検証します。
尊氏の祖父・足利家時 25歳で自害
足利尊氏の祖父・足利家時は足利頼氏の嫡男で、足利氏6代目当主です。母は上杉重房の娘。上杉重房はもともと藤原氏出身の貴族で、鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王とともに京から鎌倉に移り、足利氏に仕え、武士になりました。
足利氏の家督は北条氏出身の母を持つ者が継いできましたが、家時の母は北条氏出身ではありません。父・足利頼氏は正室との間に子がなく、側室の子である家時が家督を継ぎました。家時自身は北条時茂(北条義時の孫)の娘を正室に迎えています。
足利義康(足利宗家 初代)
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(略)
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家時(6代)
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貞氏(7代)
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直義 尊氏 高義
父祖以来、北条氏との関係に苦慮
下野・足利荘(栃木県足利市)を拠点とする足利氏は、源頼朝と同じ源義家の子孫。有力御家人のうち、常陸・佐竹氏や甲斐・武田氏は義家の弟・源義光の子孫ですが、足利氏は頼朝の家系に近く、頼朝の血統が絶えた後は「足利氏が源氏嫡流」との見方もできるわけです。一方で足利氏は北条氏とも密接な関係を築いてきました。
2代目・足利義兼は正室に北条政子の妹・時子を迎え、3代目・足利義氏は義兼の三男ながら、時子の子であることから嫡男となり、自身も北条氏から正室を迎えます。4代目・足利泰氏、5代目・足利頼氏は母も正室も北条氏出身です。
ただ、足利義兼は晩年、変人を装い、足利義氏は50代で出家。足利泰氏は建長3年(1251)に突然の無断出家で新領を没収されます。足利氏は源氏の名門だけに北条氏の対抗馬として担ぎ出される危険性があり、時には早目の出家で野心のないことをアピールする必要があったのです。
時宗に殉死? 霜月騒動前哨戦?
足利家時は弘安7年(1284)6月25日、25歳の若さで自害します。時期や年齢は諸説ありますが、弘安7年は4月4日に8代執権・北条時宗が病没しており、家時の自害はその直後です。モンゴル軍襲来・元寇という未曽有の危機の後、お飾りの「親王将軍」ではなく、「源氏将軍」への期待が高まり、足利氏はかえって北条氏との関係に気を遣います。家時の自害は北条時宗に殉死し、北条氏への忠誠を示したという見方もあります。しかし、それならば出家で十分。具体的に謀反を疑われ、身の潔白を示す必要に迫られた可能性があります。
時期的に関係がありそうなのは、弘安8年(1285)11月の霜月騒動。内管領・平頼綱の攻撃で有力御家人・安達泰盛の一族が滅んだ事件です。足利一族の吉良満氏も安達泰盛に味方し、戦死しました。霜月騒動の前哨戦に足利家時が巻き込まれたのでしょうか。
弘安7年6月、北条一門の佐介時国が六波羅探題を罷免され、流罪の後、10月ごろ、誅殺されます。佐介時国は足利家時の義理の大叔父であり、安達泰盛とも関係があり、こうした事件も霜月騒動の前哨戦と捉えることができます。
ただ、家時自害と時期は重なりますが、直接的な関係は不明です。
「わが命を縮めて3代のうちに天下を」
家時の置文は『難太平記』に登場します。〈源義家の置文に「自分は7代の子孫に生まれ変わり、天下を取るだろう」とあり、足利家時はその7代目になるが、なおも天下を取る時節は到来していない。家時は源氏の氏神・八幡大菩薩に「わが命を縮めて3代のうち天下を取らせたまえ」と祈念して腹を切った。その家時自筆の置文を足利尊氏、直義兄弟の前で父・今川範国とわれら(今川了俊)は拝見した。尊氏兄弟は「今、天下を取るのは(祖父・家時の)発願なのだ」と言った〉
これが『難太平記』に書かれた家時の置文に関する大まかな内容です。
家時の置文は矛盾だらけ
足利家時は源義家から、まさに7代目の子孫です。〈源義家―義国―足利義康―義兼―義氏―泰氏―頼氏―家時〉
しかし、源義家の嫡流は源頼朝の流れ。傍系の足利氏にこのような置文が伝承されるのは不自然です。しかも、源義家の子孫では頼朝が征夷大将軍に就いています。義家の宿願「天下取り」を足利家時が切腹までして子孫に伝えるというのは理屈に合いません。
置文は存在した 直義の感激
ただ、足利家時の置文は確かに存在しました。足利直義が書状に記しています。足利家時が執事・高師氏に遣わし、高一族が保管していた書状があり、それを見た足利直義は感動し、自ら写しを取ります。もともと保管していた高師秋(高師直の従兄弟)に写しを渡し、実物は直義自身が保管しました。
足利直義書状は観応元年(1350)ごろ、倒幕からは15年以上後に書かれたもの。当然、挙兵の動機になったものではありません。
足利一門・今川了俊の『難太平記』
結局、足利家時の置文は『難太平記』に書かれた創作の可能性が高いのです。『難太平記』の著者・今川了俊は出家前の実名は今川貞世で、足利尊氏や2代将軍・足利義詮を軍政両面から支えた有力武将です。室町幕府重臣として活躍し、九州探題を任され、南朝方の有力武将を抑えて九州での幕府権力確立に貢献しました。しかし、3代将軍・足利義満のとき、九州探題を解任され、晩年は文芸方面の道に専念。『難太平記』を完成させたのは応永9年(1402)、77歳のころです。
今川氏は足利氏の分家の中でも最有力一門の一つ。戦国時代の武将・今川義元は今川了俊の兄・今川範氏の子孫です。
足利義氏(3代)
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義継 泰氏(4代) 長氏
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頼氏(5代) 今川国氏 満氏
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家時(6代) 基氏
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貞氏(7代) 範国
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尊氏 了俊 範氏
今川氏の功績をアピール
『難太平記』は足利氏と今川氏の歴史について書かれた書物で、『太平記』に批判的な内容もあるため、後世の人によってこの書名が定着しました。『太平記』に書かれていない今川氏の活躍をアピールする狙いがあったのです。今川了俊は足利尊氏、直義兄弟や父・今川範国とともに家時の置文を直接見たと書いていますが、鎌倉幕府倒幕を決意したときなら、今川了俊は8歳の少年。また、実際に存在した家時の置文は足利氏執事・高氏が保管していたので、その点も矛盾があります。
おわりに
足利家時の25歳での自害は確かに異常で、言いたくても言えないことを書き残した可能性はあり、それが足利直義を感動させた書状です。家時の置文は確かにあったのです。しかし、足利尊氏を決起に導いたとする『難太平記』のエピソードは無理があります。今川氏と足利氏当主の絆を強調するための創作とみて間違いないようです。ただ、『難太平記』で今川了俊は「確かに覚えていて証拠があることだけを記す」と書いています。創作や脚色が基だったとしても、一族の伝承としての記憶の美化があり、あるいは、一族の結束を高め、北条氏打倒を正当化するための真実として信じられ、伝えられてきた話なのかもしれません。
【主な参考文献】
- 峰岸純夫、江田郁夫編『足利尊氏再発見』(吉川弘文館、2011年)
- 千田孝明『足利尊氏と足利氏の世界』(随想舎、2012年)
- 田中大喜編『下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)
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