川中島合戦の信玄と謙信の装束 どちらも意外に地味だった?

川中島合戦の一騎討ち

 永禄4年(1561)9月10日、信濃川中島合戦で、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が一騎討ちをしたと伝わる。その実否はともかく、謙信は武田の諸隊を自軍の諸隊で拘束して、その間に武田右翼を遠回りに進んで、手薄になった信玄の旗本に自身の旗本をぶつけた。

 この戦いで信玄は負傷しており、謙信も「自身太刀打ち」したと当時の書状に認められるので、どちらも最前線で何者かと接近戦を展開したものと思われる。

 実際には、ふたりが一騎討ちしたかどうか不明であるが、歴史的な名場面として、そのシーンは日本人の記憶に強く刻み込まれている。

 さて、この時のふたりの姿格好だが、一般的に、上杉謙信は白い頭巾をかぶって馬上から太刀を振り下ろし、対する武田信玄は諏方法性の兜を着し、床几に腰掛けたままこの太刀を軍配を打ち払ったとされている。

※参考:信玄・謙信一騎討ちの像(長野県長野市小島田町)
※参考:信玄・謙信一騎討ちの像(長野県長野市小島田町)

 多くの武者絵や現地の銅像がこのインパクトを広く伝えており、映像作品でも繰り返し再現されてきた。

 しかし、この格好はどちらも事実を伝わるものではないとする指摘がある。

白い頭巾はおかしい?

 例えば、僧兵のような白い頭巾は、いわゆる「法師武者」の被り物である。ところが当年31歳の謙信は、この時まだ「上杉政虎」と名乗ったばかりの俗体であった。出家して法体となり謙信と号するのは、9年後の元亀元年(1570)からである。すると、この装束は、史実ではないのではないかというのである。

 このため、いくつかのフィクションでは、謙信に飯綱権現の前立て兜を飾った甲冑を着用させてこのシーンを活写している。

 この甲冑「本小札色々縅腹巻・兜(国宝)」(※「山形の宝 検索 navi 」より)は、米沢の上杉神社に現存しており、今も実物を確認できるから、説得力ある格好に見えた人も多いと思われる。

 ただ、問題点もある。

 甲冑が痛んだら、戦場で完全修復は無理なので、例えば籠手が破損したら、似たような別の鎧から流用するのが普通だった。大名の甲冑は量産品ではない特注品なので、緊急時に見た目の美しさにこだわってはいられない。実際、ほかの謙信の鎧にはそういう歪な部位取り替えをしたものが現存している。なのに、この甲冑は全く無傷のまま完全体の「一具」として残っている。

 この甲冑には、戦場で使われた実物にあるような痕跡がなく、

「金物等にも“手ずれ”はあまり見られず、[中略]高紐もほぼ残り、韋所なども完存している。つまり使用痕が少ない事実」
竹村雅夫『上杉謙信・景勝と家中の武装』(宮帯出版社、2010)より

が認められている。そうすると、特に激しい戦闘で使われた川中島合戦で使われた可能性は低いものと考えられる。

 ただし、川中島へ遠征する時に使われた可能性は高いものと思われる。理由は前立ての飯綱権現である。信濃北部の飯綱山があり、飯綱信仰発祥の聖地とされる。謙信は北信濃の人々に信仰される飯綱権現を崇敬しているというポーズを示すため、黒光りのする甲冑を特別に仕立てさせて、その正当性を示すのに用いたのだろう。

※参考:高尾山薬王院にある飯縄権現の銅像
※参考:高尾山薬王院にある飯縄権現の銅像

 永禄7年(1564)8月、謙信は信濃の八幡宮に捧げた願文で、武田信玄のことを、「戸隠・飯縄(飯綱)・小菅・善光寺」の神領、寺領を奪い取った「王法の怨、仏法の敵」なのに、いつまでも「天罰」が下らないのはおかしいことだと強く非難している。ここに飯綱の名を挙げているのは、自身がその救済者として敵に天罰を加えるべきものとの意気込みがあったことを示していよう。

 越後の大将謙信が、飯綱権現を頭上に掲げて最大限にリスペクトしているのは、現地の将士に取って頼もしく見えたのではなかろうか。

 ゆえにこの甲冑は、実用品ではなく儀礼用として、デモンストレーションに使ったものと思われる。

 また、謙信は若き頃、出家して「宗心」の法号を使っていた時期がある。その頃白い頭巾を使い始め、それがトレードマークとして定着したとすれば、川中島合戦時には、文字史料にある通り、白い頭巾をしていた可能性は捨てきれないだろう。何せ『無』や『毘』などの仏教由来の前立てや旗を愛用していたぐらいだから、身軽な頭巾姿を気に入っていたかもしれない。

武田信玄の諏方法性兜

 さて、武田信玄の諏方法性兜である。

 こちらは現存する兜があるものの、江戸時代の作りであって戦国時代のものではなく、しかも諏方大社に保管されていたという以外に「諏方法性」と因む要素を検出されていないデザインで、なぜこれが信玄の諏方法性兜とされているのか明確ではない。

 そもそも『甲陽軍鑑』などで信玄がどのような格好をしていたか明記されておらず、また、同書に登場する兜は、息子の武田勝頼にこれを譲ろうとする描写があるのだが、そこで

「諏方法性の御甲[前立に諏方法性上下大明神と書たまふ]」
(同品第 52)

とだけあり、ヤクの毛を飾っている、赤色であった、などとする記述はない。そのような派手な造りであれば特記するはずである。ビジュアル的には今日知られるイメージより、地味なデザインだったのではなかろうか。

ふたりとも法師武者の姿だった

 しかも信玄の本陣に乗り込んできた謙信は、そこで

「法師武者を大勢仕立をかれ候」
(同品第 32)

という様子を見て驚いた。

 さすがに謙信も太刀を振り回すだけですぐに立ち去り、あとになって

「只の侍と手を組、いけとられては如何と思ひ、馬よりおりて、信玄と手を取あはせ、組ふせざること、口惜しき
(もしこれが信玄ではない普通の侍で、彼に生け捕られてしまってはと思い、馬より降りることなく、信玄と取っ組み合いしなかったことは口惜しい)」
(同品第 32)

と後悔したと伝えられている。

 この時、ふたりが実際に「自身太刀打ち」と「軍配団扇にてうけなさる」で一騎討ちに及んだかどうかはわからない。

 なお、『甲陽軍鑑』が参考にした可能性のある上杉寄りの軍記『松隣夜話』では、謙信が「勝尾五郎丸」なる「物の達者」を連れて信玄本陣に馬を乗り入れた時、

「黒き鎧に、香染頭巾し、念珠を手に懸けたる法師武者三人、一所に立ち、侍十人計り打囲みたるあり」
(巻之中)

を見かけて、そのうち信玄らしいものに斬りつけたという。

 ここで武田本陣で守られていた法師武者たちの「香染頭巾」とは薄い褐色の頭巾のことなので、白い頭巾の謙信と、薄茶色の頭巾の信玄が交戦した可能性がある。

 ちなみに実否は不確かであるが、謙信は信玄と信濃千曲川を挟んで、「両大将御対面」を行なって、講和を語り合ったという記録がある(品第 32)。

 もしこれがただの伝承でなければ、謙信と信玄は互い顔を知らないわけではなかったかもしれない。

黒き鎧に香染頭巾だった信玄

 だが永禄4年の川中島合戦では、どちらも相手が法師武者の装束であったため、相手が何者か確証を得られないまま戦いを終えたのだろう。

 実際、謙信ではなく旗本の誰かが信玄に斬りつけたのかもしれない。謙信が斬りつけたのも山本勘助あたりだったかもしれない。

 いずれにせよ、確かなことは当事者たちにもわからなかったらしく、確信的な証言は一切残されていない。

 また、「黒き鎧」はちょうど現在に残されている「武田信玄甲冑像(模写。東京大学史料編纂所データベースより)」(伝吉良頼康像、浄真寺蔵)の武者姿がこれに近しい。模写よりも実物を見るとはっきりわかるが、本当に「黒き鎧」を着用している。

 この画像の信玄は中年の顔つきである。

 そして兜を着用しておらず、その頭部はまだ丸めていない。髷姿である。出家姿でないので、永禄2年(1559)2月以前の「武田晴信」時代をモデルとしていることは明白だ。それも30後半以降であるとすれば、ちょうど川中島合戦の時期に近いものとなる。

 謙信の殺意みなぎる太刀筋を軍配で打ち払った時、この甲冑に薄茶色の頭巾を着けていた可能性があるだろう。

 この伝説的な一場面も、現存する文字史料と絵画史料から、より史実に近づけて想像できるのではなかろうか。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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