いまも昔もカカア天下!? 大奥の権威とその存在意義
- 2023/11/08
大奥といえば、そこに暮らす女性たちは、わらわこそが将軍様のお手つきとなり、お胤をいただき、いずれ世継ぎとなる男児出産を夢みてせめぎ合い、陰湿な嫉妬にかられたイジメや陰謀が渦巻く世界だと思っていませんか?!
今回は、そんな誤解やカン違いを解きほぐすべく、大奥の奥の奥までご案内いたします。
今回は、そんな誤解やカン違いを解きほぐすべく、大奥の奥の奥までご案内いたします。
”急ぐべからず” 家康の腹の内
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
物心ついたころには今川義元の人質という不遇から身を起こし、ついに関ヶ原の合戦(1600)を制したときには59歳となっていた徳川家康は、その3年後の1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開闢し、わずか2年後には嫡子・秀忠に将軍職を譲っています。
同年には、大阪城に起居することだけは許した豊臣秀頼に対し、第2代将軍となった秀忠への臣下の礼をつくすよう遣いを出しましたが、秀頼の生母である淀は、いまだ豊臣の家格にこだわっていて問答無用の拒絶しきりでした。
先ほどお伝えした言葉は、このときにこそ家康が自身に言い聞かせたものでは?!
(大坂は、ワシの寿命が尽きるまでに差し違えてでも潰せばよいことじゃ)
家康の脳裏と腹の内を、このように私は推察しているワケです。
その根拠の1つには、すかさず往年の秀吉がらみで悲喜こもごもに懐かしき居城・駿府城のリフォームではなく、《リホーム》を命じたことです。
もう1つには、関ヶ原ののちの論功行賞にて整えた幕藩体制を確固たるものとするための幕府内の組織作りや武家諸法度の制定よりも先んじて、すなわち江戸城の拡張にともなう大奥という場所の設置と、のちの万世にも通ずるべく、大奥運営法の制定を成したことです。
265年も続いた天下太平の秘訣とは?!
まず、大奥を総括して一切を取り仕切るのは御台所(当代将軍の正室)としましたから、この当時なら江(織田信長の妹・お市の娘、すなわち淀の妹)ですね。さらに、自身の子を産んだ側室たちのなかから最も忠誠心に富んで聡明な女性1人を選び、江の直属として上臈御年寄(じょうろうおとしより)という要職を与え、江の相談役としました。
そして、残る側室のうちから上臈御年寄の直属として4人を選んで ”御年寄” とし、上臈御年寄の代行として大奥の実務万事を取り仕切ることとしたのです。
この6名の女性たちの御前に、秀忠をはじめ、名だたる重臣らを呼び寄せました。
家康が開闢した江戸幕府や幕藩体制を《百姓仕立て》と表現なさった学者さん方がおられますが、言い得て妙だ!と、私も思っているのです。
このときまでの家康の半生をながめれば、たとえば信長のような独断専行や秀吉みたいな上意下達といったスタイルではなく、膝つき合わせての合議という生臭さを感じています。
「いまから申し伝えることはワシの厳命・遺言かつ徳川将軍家末代までの家訓とも思い定めて肝に銘じよ」
と前置きした上で、大奥とは家康直系血統の世継ぎを産みつづける場所であること、すなわち当代将軍以外は男子禁制であること、大奥には当代将軍であっても一切の口出しを許さず、上臈御年寄の決定と指示に服従しきることを宣言したワケです。
ようするに、日本全国という天下を仕切る徳川将軍であっても、ことに江戸城内・大奥に限っては、絶対に我が儘も不平不満も厳禁のカカア天下である!ということなんです。じつは、これこそが後々265年もの天下太平を実現させた秘訣ともなったワケです。
家康の遺言で整えられていった大奥
ここまで明かしたなら、もう充分にお分かりいただけたのでは?!と思いますが、大奥の法度とも言っていい家康の厳命・遺言は代々将軍家にも厳守されています。しかし、そうは言っても3代・4代となるうちには、大奥での権力争いなども勃発しまして、よりいっそう微に入り細に入り、抜け目なく整えられてゆき、改善もすすみました。
そうしてようやく6代将軍・家宣の代で完全無欠の体制が整い、当代の御台所こそが、名実ともに大奥の最高権力者としての地位を盤石として、いずれ幕末まで続くのです。
家宣のころには江戸城内の増築工事も一頻りついていて、本丸・二ノ丸はもとより西ノ丸も完成しており、家康の遺言どおり、それぞれに大奥が設けられています。広大な江戸城内でも、大奥と呼ばれる場所が将軍ご家族の生活エリア、つまり自宅なのです。
本丸の大奥は当代将軍一家の自邸、二ノ丸なら当代将軍の母上様と先代将軍に仕えた側室たちが住まい、西ノ丸の大奥には世継ぎ夫妻一家が住み暮らしていて、これも家康の遺言にしたがって整えられたことでした。
この大奥3つを統括差配しているのが当代の御台所であり、その相談役である上臈御年寄ということです。
ちなみに、家庭内での家事一切は奥さんの仕切り!などと言えば、現在なら差別だの何だのと怒られるかも知れませんが、当時に御台所とは読んで文字どおり、たちまち食事のことにも目を光らせていますから、したがって上臈御年寄の管轄内でした。
大奥での伽の実態
いよいよ肝心要であります大奥での子孫繁栄ですが、こちらも完全予約制なんです。先にお伝えしておきますと、将軍の夫婦生活も上臈御年寄の管轄ですので、夫妻の寝所は別々となっており、したいなら上臈御年寄に申請して許可を得なければなりません。
じつは徳川将軍家には、いくら妊活に励めと言われても、たとえばご先祖様方々のご命日や盆・元旦は禁止日、さらに24節気に重ねて慎むべき日などが定められていました。
また、大奥にて伽をつとめる女性たちは、いわゆる側室候補生でして《御中臈》と呼ばれていますが、御中臈1人1人の心身健康状態管理も、上臈御年寄と御年寄の管轄です。
将軍から御中臈の指名もできますが、女性には月のものがあって心身ともデリケートですから必ずOKとはいかず、上臈御年寄の許可が下りなければ諦めるほかないのです。
めでたく将軍の希望が叶えば、上臈御年寄から伽を命ぜられた御中臈は、御年寄の監視付きで風呂場女中4~5名とともに風呂に入ります。
髪、上半身、腰まわり、脚といった部位ごとに洗う女中が決まっていて、ようは凶器になるような物を隠していないか、徹底的な身体検査を兼ねての入浴でして、寝間着を着ても髪は結いません。結えば簪や櫛などが必要ですから、それが凶器ともなるためです。
伽をつとめる閨までの廊下には、鉢巻と襷掛けして薙刀を携えた女中たちが並んでおり、閨には御年寄とともに、御坊主と呼ばれる連絡係の女性1人も一緒に入ります。
御坊主は頭を剃って尼僧のようになっていますし、入る前には肛門にいたるまでボディーチェックされています。
そこへ将軍が入ってきますと、まずは茶飲み話が始まります。ここで御年寄は、御中臈の様子と会話の受け答えなどをチェックし、もし気になるような言動を感じたなら伽は中止でお開きとなります。
たとえば御中臈の身の上話や両親や実家のあれこれとか自身の思いなどをチラッと匂わせるような言動で将軍の情にすがるような仕草は、のちのち揉め事のタネとなるからです。ついに床入りとなっても御年寄と御坊主は退座せず、その一部始終をながめるのです。
まとめ
家康は、日常生活において異常なほどの質素倹約と健康オタクと思えるほどの自己管理を徹底した人でもありましたから、その逸話の数々も大奥には言い伝えられています。したがって将軍の食事は、現在の飲食チェーン店のメニューにも載ってないほど慎ましい粗食でしたし、当時には数少ない楽しみの1つでもあった性行為も、このような実態ですから、いかがでしょう?!皆さんなら、1日徳川将軍になってみたいと思われますか?!
ともあれ、日本においての平和と発展は、いまも昔もカカア天下から始まるようですよ。
【主な参考文献】
- 深井雅海『江戸城ー本丸御殿と幕府政治』(中央公論新社、2008年)
- 高柳金芳『史料 徳川夫人伝』(新人物往来社、1995年)
- 中江克己『「大奥」の謎を解く』(PHP研究所、2006年)
- 吉田和輝『徳川将軍家と「大奥」の真実』(ダイアプレス、2022年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄