「絵島生島事件」大奥御年寄・絵島ははめられたのか?

「生島新五郎之話」(『新選東錦絵』)に描かれた生島新五郎(左)と江島(右)(月岡芳年 画、出典:wikipedia)
「生島新五郎之話」(『新選東錦絵』)に描かれた生島新五郎(左)と江島(右)(月岡芳年 画、出典:wikipedia)
正徳4年(1714)が始まって間もない頃、大奥で起こったスキャンダラスな事件に、世間は大騒ぎとなる。いわゆる絵島生島事件(えじま いくしま じけん)である。

この事件は、江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』にも記されているところから、本当にあったことではあるが、詳細は大きく異なっているようだ。今回は、事件の張本人である絵島や周囲の人々に注目しながら、この事件の真相を探ってみたいと思う。

絵島生島事件とは?

絵島生島事件については、多くの小説、ドラマや映画等に描かれていて既にご存じの方もいらっしゃるだろうが、まずは世間でよく知られている、事件の概要をお話ししておこう。

名代・絵島

事件は、大奥御年寄・絵島は、徳川家の菩提寺・芝の増上寺へ参拝したことから始まる。

絵島は、第6代将軍・徳川家宣の正室であり、第7代将軍・家継の実母である月光院の代わり(名代)として、前将軍・家宣の墓参に向かったのだ。総勢約130名にも及ぶ絵島たち一行は、無事に参拝を終えた後、芝居小屋へ出向く。

本来なら真っすぐに城へ戻らなくてはならないのだが、日ごろ大奥という閉ざされた空間で生活をしている大奥の女中たちの数少ない外出の際には、多少の羽目は外しても良いという暗黙の了承があったらしい。

大騒ぎの芝居見物

この日、彼女たちは江戸木挽町にある芝居小屋「山村座」へ出向いた。今人気の歌舞伎役者・生島新五郎が出演するということもあり、奥女中たちは大盛り上がり。貸し切った2回桟敷席では、豪華な仕出し弁当や酒がふるまわれ、まさしくどんちゃん騒ぎであったという。出番を終えた生島新五郎が、その桟敷にやってくると、絵島もご機嫌で酒の相手をさせ、しばらくすると2人で姿を消したとも。

あまりの楽しさに浮かれ過ぎたのか、絵島一行は城の門限に遅れてしまう。城は明け六つ(夜明け)の太鼓を合図として開門され、暮れ六つ(日暮れ)の太鼓で閉門となるのだが、彼女らが帰ってきたのは、夜の五つ頃(午後8時ごろ)だった。しかしそこは大奥で権勢をふるっている絵島である。多少のもめごとはあったかもしれないが、彼女らは無事に城の中へ戻ることができた。

これだけなら、「大奥女中の門限破り」という他愛のない事件で終わったはずだ。ところが…。

思いもかけない容疑

この出来事からしばらくたったある日、突然絵島が吟味(取り調べ)を受ける。ほかの奥女中や代参に従った武士たち、山村座の座元、生島新五郎たちにも捜査の手が伸びる。表向きは、門限を破ったこと、代参後に芝居小屋へ行ったこと、絵島が歌舞伎役者と情を通じていた、ということが大奥の風紀を乱したというのである。

石抱きという厳しい拷問を受けた生島新五郎は、絵島との密通を認める。しかし、三日三晩眠らせずに責め立てる「うつつ責め」という拷問を受けた絵島は、生島との密通を決して認めなかった。絵島は、月光院と間部詮房の関係についても問われた(後ほど説明)が、きっぱりと否定している。

絵島への裁き

絵島は遠島のところ、月光院の嘆願により罪一等を減じられて高遠藩への配流、生島新五郎・山村座の座元らは遠島、絵島の義兄は死罪などの厳しい処分が科せられた。

高遠藩での絵島は、はめ殺し(開けることができない)の格子戸と出入り口に見張りが建てられた八畳間に幽閉される。手紙のやりとりも不可、外部と接することも外出も完全に禁止されるという状態であった。朝夕一汁一菜、着るものは木綿のみ、書き物も読み物も許されず、話し相手は侍女のみという厳しい中で20数年間暮らした絵島だが、その間一切、大奥のことは口に出さなかったという。配流から28年たった寛保元年(1741)、絵島は61歳で亡くなった。

生島新五郎は、絵島が亡くなった翌年に遠島を許され、江戸へ戻った翌年に亡くなったとも、遠島先で亡くなったとも言われている。

絵島と月光院

この事件には、いろいろと不自然な点がある。例えば絵島一行が帰ってきた時刻だが、『徳川実紀』では、絵島たちが帰ってきたのは「薄暮」の頃とある。薄暮とは薄暗くなり始める日暮れ頃ではないだろうか。となると絵島たちは、門限ぎりぎりには帰ってきていたはずである。

ほんの少し遅れただけの彼女がなぜこんなにも重い罪になったのか。この事件の裏側を探る前に、まずは絵島とその主人である月光院について知ってほしい。

絵島の生い立ち

絵島は、天和元年(1681年)三河の国で生まれ、江戸で育っている。本名を "みき" といい、実父の甲府藩士・疋田彦四郎が亡くなった後、母の再婚相手・旗本の白井平右衛門の養女となる。

元禄16年(1703)に紀伊徳川の鶴姫に仕えたが、鶴姫が亡くなったため、甲州藩主・徳川綱豊の側室・お喜世の方に仕える。綱豊が6代将軍・家宣になると、お喜世の方とともに みき も大奥入りをする。

お喜世の方

お喜世の方は、江戸浅草の生まれで、父は元加賀藩士の住職・勝田玄哲である。浅草でも評判の美貌だったお喜世は、20歳の時に徳川綱豊の桜田御門屋敷へ奉公する。浅草育ちらしく明るくてハキハキとしていたお喜世は、後ろ盾がほとんどないながら、その才気で次第に綱豊の寵愛を受けるようになった。

大奥に入ってからも、学問好きの家宣(綱豊)に合わせて和漢の学問を習うなど、才色兼備だったお喜世は、ますますの寵愛を受け、無事男児(のちの家継)を生む。

月光院の右腕となる絵島

大奥に入り、"絵島"と名乗るようになった みき は、お喜世の方を支え、だんだんと出世していく。家宣が亡くなると、お喜世が産んだ男児が将軍・家継となり、その母である月光院の権勢は、いっそう盛んとなる。京の公家出身だった家宣の正室・天英院の存在は薄くなるばかりだった。

天英院の人となり

天英院という人は、温厚で思慮深い人物だったらしい。家宣とはいわゆる政略結婚だったにもかかわらず、夫婦仲は良く、早世したものの子を2人もうけている。かといって側室に嫉妬をすることはなく、正室らしく毅然とした、それでいて温厚な性格だったとされている。

事件の裏にあった誰かの思惑

さて、絵島生島事件の真相だが、ドラマや小説などでは、事件の原因として月光院を疎ましく思っていた天英院の策略だったとされていることが多い。

大奥の対立

「女の壮絶バトル!!」的な関係性は、確かに刺激的で世間の注目も集まるだろう。しかし、これはまずないと考えられる。第一の理由は、思慮深く、穏やかだと言われた天英院の性格である。もちろん、天英院に仕える奥女中は月光院に対して面白く思っていなかっただろうが、奥女中が企むにはことが大きすぎる。

また、絵島が厳しく処せられるということは、奥女中にとって唯一ともいえる外出時の息抜き(芝居見物)が厳しく取り締まられることにもつながる。もしも大奥がこの事件に深くかかわっているとすれば、自らの首を絞めることにもなりかねないのだ。

こうした点からも、「月光院 vs 天英院」が絵島事件の原因だとは考えられない。となると、誰が仕掛けたのか?

幕府中枢の仕掛けた罠

7代将軍・家継から遡ること2代前は「生類憐みの令」で有名な綱吉である。綱吉の兄・甲府藩主綱重の子が6代将軍・家宣であり、その血を受け継ぐ家継が7代となる。つまり、綱吉から3代続けて甲府系が幕閣の中枢を担っていた。

それを面白く思わなかった重臣はいなかっただろうか。家継を補佐する甲府系の間部詮房を追い落としたいと考える幕閣、彼らこそが絵島生島事件のシナリオを描いたのではないか。

間部は、幼い将軍家継の補佐をするために、大奥への出入りも頻繁だったらしい。正室も側室も持たない男盛りの間部と、髪をおろしたとはいえ、まだ30歳にもならない若さと美貌の月光院。そんな2人が頻繁に顔を合わせていれば、もしや…。間部と月光院の密通が暴露されれば、間部の、ひいては甲府勢力を一掃できるのではないか。なにもなければでっちあげればよい。どうすれば追い詰められるか… などと策略を練っていた幕臣の黒い罠にかかったのが絵島だった。

月光院にとって最も信頼する御年寄である絵島が、間部と月光院の密通を証言すれば、見事に彼らを葬れるではないか。ついでに、年々豪奢になる大奥の引き締めもできる。まさに一石二鳥! 絵島は、間部たち甲府系勢力を追い詰めるためのスケープゴート=いけにえにされたのだ。

この事件は、江戸町衆の耳目を集めるには十分すぎるほどのネタである。大奥の御年寄と今を時めく役者の情事、そしてその哀れな行く末。こうして絵島生島事件は、前代未聞のスキャンダル事件として歴史に残った。

あとがき

絵島・生島ほか多くの人々を巻き込んで間部の失墜を仕掛けた幕閣だったが、その2年後、家継が8歳で亡くなり、紀伊藩主の徳川吉宗が8代将軍となる。

吉宗は間部詮房だけでなく、絵島事件を画策したであろう旧幕府勢力も一掃し、新たな政治を始めた。結局彼らの策略は無駄骨となり、絵島や奥女中、人気絶頂だった歌舞伎役者・生島新五郎やそのほか大勢の人々が、醜い政争に巻き込まれ、人生を狂わされただけであった。

泣くのはいつもお偉い方々とは離れたところにいる普通の人々である。そんな醜く、哀しい争いがいまだに世界中で続いていると思うと、人として情けないと感じるのは、私だけだろうか。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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