縄文時代の暮らし 謎多き縄文人…実はクリエイティブで豊かな生活を送っていた!?

 縄文時代は、今から約1万3000年前から少なくとも1万年以上続いた時代です。みなさんは、縄文時代についてどんなイメージを持っているでしょうか?野山を駆け巡り獣を獲り、川に入っては魚を捕まえ、食料がなくなると木の実や貝を食していた、という野性的な姿を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。

 近年、様々な研究によって縄文時代のイメージは大きく変わってきました。人々は、定住をし、宗教を持ち、独自の感性でクリエイティブに物を生み出していたのです。今回は、そんな縄文時代のお話をしたいと思います。

縄文人の一日

 縄文人の朝は、おそらく日の出とともに始まったことでしょう。世界の食料を採集している民族を参考に考えると、1日の平均労働時間は4時間と考えられています。現代の日本人と比較するとどうでしょうか。生きるための労働時間は、かなり短いですよね。

 縄文人が一日何回食事をしていたかは不明ですが、日本では鎌倉時代のはじめ頃に、貴族らの間で3食が普及するまで2食だったことを考えると、縄文人も1日2食の生活だったのかもしれません。多く食べ物を得ることができた日や最低限の食事のみ得た日など、その日の狩猟によって食事の量や回数は左右されていたのではないかと思います。

 午前中にその日の狩猟を終えると、午後は日没まで自由時間です。家族と会話をしたり、水くみや山菜取り、土器や衣服を作ったり、中には病人を看病したり、死者を弔う者もいたようです。そう考えると、縄文人は現代人とさほど変わらない生活を送っていたのではないかとさえ思います。現代人以上に、各々の自由時間を楽しんでいたのではないでしょうか。

 夕食を終えると、あとは家族で炉を囲み語らい、果実酒で乾杯し、日没とともに乾草や編み物で作った手作りの布団で就寝します。自然の時間の流れのままに生活をし、一日は暮れていきました。

縄文人の集落と住居

 縄文人の集落は、遺跡の発掘から環状になっていたことが分かっています。

 環状になっていることが、縄文時代に身分の差がなかったと言われる理由のひとつです。集落のリーダーは存在したでしょうが、大きな身分の差はなかったと考えられています。立地的には、日当たりが良く、平面またはなだらかな斜面で、尚且つ食物を得やすい場所が選ばれました。

埼玉県富士見市にある水子貝塚は、縄文前期の環状集落として知られる
埼玉県富士見市にある水子貝塚は、縄文前期の環状集落として知られる

 縄文人の集落では、生きている人々が暮らす場所、死者の墓、ゴミを捨てる場所、貯蔵庫等正確に場所が分かれていました。私たちの想像よりも、しっかりとルール分けをし、暮らしやすい環境を形成していたようです。

 縄文人は、竪穴住居に住んでいました。とても有名な名前ですよね。竪穴住居とは、深さ50cm程度の穴から4本から7本の柱を立て、その上に屋根をかけた半地下式住居のことを言います。大体3人から5人程度が10畳ほどの家に暮らしていました。現在の研究では、男性、女性、独り立ちしていない若者の区分によって、暮らしていたのではないかと考えられています。

 現代では、父母と子供で「家族」を形成するのが一般的ですが、当時の「家族」に関する考え方は、異なっていたのかもしれません。集落の皆で家事を担い、協力して生活をしていたのではないでしょうか。住居の真ん中には炉があり、防虫・防腐対策のため、絶えず火が灯されていました。

身なりに気を使う縄文人

 縄文人は、自分の身なりにも気を使っていました。近年の調査では遺跡や土偶などの考古学資料から、植物の繊維を編んだ服を着用していたことが分かっています。基本的には、貫頭衣という一枚の布の真ん中に穴を開けて、頭から被るというスタイルでした。

 貫頭衣のみでは、風などで飛ばされることもあったでしょう。もしかしたら腰あたりを紐で結んで固定させていたのかもしれません。また、縄文人はこの普段着とは別に、特別な日に着る服も持っていたのではないかと言われています。これまで無地の布のみを着用していたと考えられていましたが、発掘された土偶が渦巻き状や山形の模様を施した服を着ていたことから、装飾を施した服も所持していたのではないかと考えられるようになりました。現代人と同じく、特別な日には一張羅を着てお祝いしていたのかもしれません。

 また、縄文人は、アクセサリーを身につけていたことも分かっています。縄文時代の遺跡から、耳飾りや腕輪をはじめとする多くの装飾品が出土しています。アクセサリーの他にも、独特な入れ墨や鉄や水銀で作った塗料で化粧を施していました。入れ墨を何故入れていたのか、今となっては不明ですが、魔除けや自分の属性を示すためなど、現在も研究は続いています。

 このように、縄文人は生きるために必死に食べ物を探す毎日だったのかと言うと、そうではなかったようです。特別な日には、素敵な服を着て、アクセサリーをつけてお洒落をしていました。それだけでも縄文時代のイメージが大きく変わったのではないでしょうか。

クリエイティブな縄文人!

 縄文人は、何でも手作りをしていました。前述した服やアクセサリーをはじめ、土器などの生活必需品、漆工芸品や丸木舟など、その技術は現在では再現できないほど、クリエイティブに富んでいました。

 なお、縄文時代の北海道や東北、また新潟の遺跡からは、アスファルトを精製していたことも分かっています。縄文時代からアスファルトが使用されていたことに驚きですよね。現代では道路のイメージが強いアスファルトですが、縄文時代では様々な道具のほか、アクセサリーにも付着の痕跡が見受けられます。アスファルトは物同士をくっつける接着剤の役割を果たしていたようです。

 他にも縄文時代には、塩作りも始まっています。干した海藻を専用の土器でじっくり煮詰めることによって、塩の結晶を得ていました。かなりの労力と時間が必要ですが、縄文人はモノ作りに多くの工程を踏み、長い時間を費やしていたようです。こういった難易度の高いモノを作ることも、縄文人にとっては、趣味の一環だったのではないかと考えられます。

 午前中に狩猟を終えると、午後は何らかの創作活動に励み、一日が終わったのではないでしょうか。毎日を忙しく生きる現代人と比較すると、時間はゆったり流れ、のんびりと暮らしていたのではないかと思います。そしてその中で、モノ作りの腕は脈々と磨かれ、現代人が驚くような技術を生み出していったのだと考えられます。

まとめ

 稲作が広まり、貧富の差ができる前、私達が思う以上に縄文人は豊かに活き活きと暮らしていたようです。

 北海道の入江・高砂貝塚では、骨に先天的異常のある10代後半の少女の人骨が見つかっています。おそらく幼少期から立つことができず、食事すら自分ではできなかったと言われています。しかし、その少女が縄文時代という生存すら難しい時代で、10代後半まで生きたということは、人々の献身的な手厚い介護があったのでしょう。縄文時代において、すでに助け合いの精神が築かれていたのだと思います。

 いかがだったでしょうか。現代よりも不自由ではありますが、時に休み、時に創作活動に励み、人々は生活に工夫を凝らして生きていました。縄文時代には、私たちが今をより良く生きるためのヒントが隠されているのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 能登健『列島の考古学 縄文時代』(河出書房新社、2011年)
  • 岡村道雄『縄文人からの伝言』(集英社、2014年)

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  この記事を書いた人
mashiro さん
もともと歴史好きでしたが、高橋克彦さんの「火怨」を読んでから東北史にどハマり。大学では日本史を学び東北史を研究しました。 現在は自宅保育の傍ら、自宅で仕事してます。

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