和歌から読み取る奈良時代の親子の姿

 奈良時代というと、どんな時代を連想しますか?有名な人物ですと、奈良に大仏を建立した聖武天皇、日本に仏教を伝えようとして盲目になった鑑真等が挙げられます。奈良時代は、平城京に都が移されてから京都の平安京に遷都されるまでの74年間を言います。

 盛んに遣唐使を送り、当時進んでいた唐の文化を取り入れ、律令国家が完成した時代です。誰しもが聞いたことのある出来事が多く起きた時代ですが、その時代を生きていた人々は、どのような生活を送っていたのでしょうか。

 今回は『万葉集』から親子にまつわる和歌を取り上げてみました。

万葉集とは

 『万葉集』は奈良時代末期、7世紀後半から8世紀後半あたりに作成された、日本に現存する最古の和歌集です。

 今から1200年くらい前に編まれた和歌集を今も読むことができるなんて、すごいことですよね。歌い手に関しては、多くが宮廷に属する貴族達ですが、一部に農民や一般市民の歌も収められています。

 旅や四季の移ろいにまつわる歌など、奈良時代の人々の生活を感じることができます。その中でも、圧倒的に多いのは恋愛の歌です。現在でも恋愛ソングが多いように、奈良時代の人々も日々恋愛について悩むことが多かったのではないでしょうか。

 万葉集が作成された意図や経緯に関しては、詳しく分かっていません。奈良時代を生きる人々の思いが万世まで伝わるようにと、祝いの気持ちを込めて作られたと考えられています。

【山上憶良】(巻三・三三七)

憶良らは今は罷らむ 子泣くらむ そのかの母も吾を待つらむそ

 最初に紹介するのは、奈良時代初期に活躍した歌人山上憶良です。教科書にも出てくる有名な人物ですよね。山上憶良は、防人や庶民の姿など一般社会に目を向けて和歌を詠んでいました。

 この歌は、「憶良はもう(宴から)退出しましょう。(家で)私の子が泣いているでしょうし、(私の妻であり、子の)母も私を待っているでしょう」という内容です。

 山上憶良がこの歌を詠んだのは、おおよそ60代後半の頃と考えられています。彼は、若い頃に遣唐使として唐に渡っていたため、晩年になってから妻を娶り、子供を授かりました。そのため、子供に対する愛情も強かったのかもしれません。

 現在でいうと、職場の飲み会から帰ろうとするお父さんと、その帰りを待つ子供とお母さんといったところでしょうか。帰ろうとする憶良を引き留めようとした他の同僚たちも、この歌を聞いて場が和んだことでしょう。奈良時代も現代も変わらない姿がこの歌から読み取ることができます。

【山上憶良】(巻五・八〇二)

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ 目交に もとなかかりて 安眠しなさぬ

 こちらも山上憶良の歌になります。この歌は「瓜を食べると、いつも子供のことが思い出される。栗を食べると、なおさら子供のことが偲ばれる。さて、子供というものはどこからきたのか。やたら眼先に面影がちらついて、ゆっくり寝させてはくれない」という内容です。

 山上憶良は万葉集に78首の歌が載っていますが、その中でも「子等を思ふ歌」と題された有名な歌です。瓜や栗など子供が好きなものを見ると、喜んで食べている姿を思い出すのでしょう。子供への愛情を強く感じる作品です。

 憶良自身、仏教の思想に影響を受けた歌が多く、この「子等を思ふ歌」でもその思想が表現されています。序文では、釈迦でさえ子供を愛するという煩悩があると歌い、まして自分のような一般の人間は、その煩悩を超えることはできないと、記しています。そして「子等を思ふ歌」の反歌で、銀も金も宝石も子供という宝に及ぶことはない、と歌っているのです。

 子供を宝と表現することで、憶良にとってどれほど子供が尊いものだったのか想像ができます。また、奈良時代は今の時代よりも健康に生きていくことが難しい時代です。年老いた憶良にとって、子供が元気でいることは、人生の希望だったに違いありません。

【防人の歌】(巻二十・四四〇一)

韓衣裾に取り付き、泣く子らを置きてそ来ぬや 母なしにして

 次に紹介するのは、防人の歌です。この歌は「(防人の)衣に取り付いて、泣いている子どもたちを置いてきてしまった。あの子たちにはすでに母もいないのに」という内容です。

 防人として、家を出てきた男の子供を思う切ない心情が歌われています。

 防人とは、対馬や壱岐など九州の防備のために東国諸国から徴発された人々のことです。任期は3年でしたが、延期されることもあり一度命じられるといつ帰ってこれるか分からない、というのが実情でした。また、東国から九州に行く際の交通費や食費は、自分で負担しないといけないため、残される家族にとっても負担が大きかったようです。

 防人には、一般の農民だけでなく、地方豪族層も任じられることがあり、人々にとっては逃げ出したいくらい嫌な制度だったことでしょう。上記の防人の歌から、母がいないことといった家庭環境に関する事情は関係なく任命されていたようです。

 子どもたちにとって、唯一頼れる存在であった父親が防人に出て行ってしまうことは、当時死活問題だったのではないでしょうか。そして、任じられた以上何もできずに家を出る無力な父の思いを考えると、いたたまれない気持ちになりますよね。

遣唐使として派遣される子に送った母の歌(巻九・一七九一)

旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 吾が子羽ぐくめ 天の鶴群

 上記の歌は、子供が遣唐使に選ばれ派遣される際に、その母親が子供に送った歌になります。この歌は「旅の途中で息子が野宿をして霜が降ることがあったら、どうか空を飛ぶ鶴の群れよ、私の息子をその羽で包んでやっておくれ」という内容になります。

 遣唐使になるには、五位以上の貴族の中でも高い教養や語学力が必要でした。また、堂々としている人物が選ばれるなど人柄も重視されていたようです。そのため遣唐使に選ばれるということは、本来誇らしいことでした。

 しかし、この時代に唐の都に行くことは、命懸けの旅路だったのです。

 日本に帰国できるかどうかは、運任せであり、確実に再開できるという保証はありません。自慢の我が子を送り出す母は、不安だったことでしょう。それでも我が子の夢のために送り出す決心をして、この歌を詠んだのではないでしょうか。我が子の夢を応援するとともに、無事を祈る母の姿が目に浮かびます。

 現代では、親元を離れて一人暮らしをはじめたり、社会に出たり、親離れをする機会がたくさんあります。親にとっては、成長は嬉しいと同時に、我が子が傷つくことがないよう祈るしかありません。奈良時代の人々も、同じように我が子の幸せを願っていたことでしょう。

おわりに

 今回は、万葉集から親子にまつわる和歌を取り上げました。

 奈良時代というと、遥か遠い昔のことのように思えますが、和歌を読み進めると当時の人々の思いや生活を鮮明に描くことができます。そして、時代背景は違えど現代とも変わらぬ親から子へ、子から親への愛情を読み取ることができるかと思います。

 そういった人々の思いを後世に伝え、出来事を風化させないために万葉集があるのかもしれません。万葉集には、他にも多くの和歌が収録されています。これを機に他の和歌についても、ぜひ読んでみてくださいね。


【主な参考文献】
  • 東 茂美『古代の暦で楽しむ万葉集の春夏秋冬』(笠間書院、2013年)
  • 多田一臣『万葉樵話 教科書が教えない 万葉集 の世界』(筑摩書房、2020年)
  • 電子書籍 万葉集解説サイト

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  この記事を書いた人
mashiro さん
もともと歴史好きでしたが、高橋克彦さんの「火怨」を読んでから東北史にどハマり。大学では日本史を学び東北史を研究しました。 現在は自宅保育の傍ら、自宅で仕事してます。

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