武者言葉の歴史 〜敵と味方で言葉を使い分けた理由とは

人間将棋(出典:AC写真)
人間将棋(出典:AC写真)
 戦国時代、おもに武士社会で使用されたという「武者言葉」。それはどのような言葉で、どのように使われていたのでしょうか。

 現代では、山形県天童市で春に催される「人間将棋」において、甲冑姿の人間が将棋駒となり、対局を行う棋士が「~でござる」といった武士語を使うということで、たびたび話題にのぼりますね。今回の記事では、「ござる」や「かたじけない」といった日常でも使う武士語ではなく、「戦場で使われた武者言葉」について紹介します。

 武士たちは、軍勢や船、馬や冑(かぶと)といった戦に関わるものを数える時、敵と味方とで使う言葉を分けていたといいます。その理由と武者言葉の歴史について、辿っていきましょう。

武者言葉とは?

 武者言葉とは、中世の武士社会において、戦場で使われていた話し言葉のことをさします。

 当時は、武者言葉を積極的に文書へ記すことは行われていませんでした。しかし、戦が終わって平和になった近世において、武者言葉が廃れていくことを懸念した兵学者などが、文書に書き起こすようになったと考えられています。

 これらの文書には、武士が戦場で使う言葉について「武者言葉」と記されているため、今日でも同じように呼ばれることとなりました。

 現存している武者言葉についての書物は、リアルタイムで武士が記したものではありません。研究者によると、こうした書物に記された言葉すべてが実際に使われていたのかは疑問が残るところだといいます。

 また、全国で同じ武者言葉が使われていたわけでもなく、所属する国や主君によっても違いがあったようです。

 武者言葉がいつから始まったのかということも、明確にはわかっていません。しかし、鎌倉時代に書かれた『平家物語』などでは、すでにその片鱗が見られるということです。

 たとえば、「一番乗り」という言葉。これは、最初に敵の城や本陣へ到達した武士のことをさし、勇気ある誉れとされました。

 このように、武者言葉には、味方をことさらに強く見せるような言い方をするという特徴があります。現代の私たちも「一番乗り!」と言うことがありますが、かつては戦場で使われていたと考えると、なんだか恐ろしいような気がしてきますね。

武者言葉の種類・使用方法

 ここからは、武者言葉の種類や使用方法について見ていきましょう。

 前項で、武者言葉の特徴は「味方を強く見せる言い方」をすることだと書きましたが、これと同時に「敵を弱く見せる言い方」も存在しました。

軍の部隊の数え方

 たとえば、敵・味方の軍の部隊については、以下(※「武者言葉と助数詞」より引用)のように数えていたようです。

  • 味方の部隊:一備(ひとそなへ)、一手(ひとて)、幾段(いくだん)、一首(ひとかしら)
  • 敵の部隊:一切(ひときれ)、一流(ひとながれ)

 なぜ、このような数え方をしたのでしょうか。それは、「切」「流」という言葉が不吉なイメージを伴うと考えられていたからです。不吉な言葉はできるだけ敵方に使い、縁起の良い言葉を味方に使っていたのですね。

具足(ぐそく/甲冑)の数え方

次に見ていきたいのが、戦には欠かせない甲冑類、具足(ぐそく)。武者言葉では、どのように数えていたのでしょうか。

  • 味方の兜:一枚(いちまい)、一頭(ひとかしら)、一鉢(ひとはち)、一羽(ひとはね)、一刎(ひとはね)
  • 敵の兜:一刎(ひとはね)

 味方の兜には、多くの数え方がありますね。それに対して、敵の兜は「一刎(ひとはね)」のみ。「刎ねる」という言葉には「刀で首を切り落とす」という意味があり、元々は味方も敵も区別なく「刎」を用いていたものの、後にこの字は縁起が悪いとされ、敵の兜を数える場合のみ「一刎」としたようです。

 なぜ、兜を「はね」と数えるのでしょうか?それは舞楽(ぶがく)での衣装である、鳳凰の頭をもとに作られたという鳥冑(とりかぶと)から来ている、という説があります。

 また、かなり時代が遡りますが、古墳時代に作られていた兜に「眉庇付冑(まびさしつきかぶと)」と呼ばれるものがあります。

 これは庇(ひさし)のついた兜の頭頂に、小さな受け鉢があるものですが、ここに鳥の尾羽根などがつけられていたのではないかと考えられています。

福井県永平寺町 二本松山古墳出土の金銅装眉庇付冑。古墳時代のもの(出典:ColBase)
福井県永平寺町 二本松山古墳出土の金銅装眉庇付冑。古墳時代のもの(出典:ColBase)

 西洋の甲冑でも羽根兜というものがあるそうですが、兜と羽根とは昔から結びついていたのかもしれません。

馬の数え方

 武者言葉に戻って、馬の数え方についても見てみましょう。

  • 味方の馬:一騎(ひとのり)
  • 敵の馬:一疋、一匹(いっぴき)

 当時、武士ではない人々が日常で使う馬の数え方としては、「一疋(匹)」が一般的でした。しかし、「疋(ひき)」という言葉は「引く=敗退する」につながるため、武士の間では、この言葉を避けようとしたと考えられています。

 また、戦国時代では、敵の首をとることを「首級をあげる」と言いましたが、これ以外にも敵の首の数え方があったようです。

敵の首の数え方

  • 敵の首二つ:一荷(いっか/一人が肩にかつげる荷物の量)
  • 敵の首八つ:一駄(いちだ/馬一頭に負わせる荷物の量)
  • 敵の首五十:一車(いっしゃ/一両の荷車に積める荷物の量)

 「一車」については、荷車(大八車)が一般的になったのは江戸時代以降とされているため、ちょっと眉唾という気がしますね。とはいえ、この数え方からは、敵の首を荷物と同じものだと考えていたことがうかがえます。

 ここにも、敵を弱く見せ、味方を強く見せるという武者言葉の特徴があらわれているように思えます。

太平の世をむかえた武者言葉

 このように、戦場において使われていた武者言葉は、徳川家康が戦国の世を終わらせ、太平の世をむかえたことで、急速に衰退していきます。

 言葉は、使う機会がなければ忘れ去られてしまうもの。それを危惧した兵学者などが、『武家節用集(ぶけせつようしゅう)』や『武家重宝記』、『軍語摘要』といった書物を記しました。

 これらの本が書かれたのは、江戸幕府の元禄時代(1688~1704)の頃か、それ以降です。すると、慶長20年(1615)に終わった大坂夏の陣から、70年以上が経過していることになります。

 本を書いた兵学者たちは、最後の戦に加わった武士たちが次々と寿命をむかえる中、失われつつある彼らの言葉を、何とか書き留めておきたいと思ったのでしょうか。

 江戸時代の始まりは、数えきれないほど多くの犠牲の上に成り立っているとはいえ、平和をもたらしたということは素晴らしいものです。ただ、その中には、武者言葉のように人知れず消えていった文化もあったのだなと考えると、感慨深くなりますね。

おわりに

 なんとしても敵に勝ちたい。敵よりも有利になりたい…。武者言葉を調べていると、武士たちのそうした意志の強さが、より身近に思える気がします。

 当時の武士たちには、敵方に不吉な言葉をあえて使い、縁起の悪さを押しつけることで、言葉のもつマイナスの力を発揮させる狙いがあったのでしょう。武者言葉はある意味、ジンクスや呪いの一種ともいえるかもしれません。

 そうしたジンクスに頼ったとしても、生き残れなかった時代。武者言葉からは、そんな時代に生きた武士たちの息遣いを感じられるように思います。


【主な参考文献】
  • 室伏信助、他『日本古典風俗辞典』(KADOKAWA、2022年)
  • 太田臨一郎「武者詞大概」『風俗 : 日本風俗史学会会誌 4(4)(16)』(日本風俗史学会、1964年)
  • 中田祝夫「武者言葉集の諸本とその研究」『東京教育大学文学部紀要 (87)』(東京教育大学文学部、1972年)
  • 三保忠夫 「武者言葉と助数詞」『島根大学教育学部紀要 41』(島根大学教育学部、2007年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。