【愛知県】名古屋城の歴史 圧倒的な防御力を持つ天下普請の城
- 2023/11/21
さて、名古屋城の前身は那古野城とされ、読みは同じでも、様相といい規模といい、まったく異なる城でした。那古野城は少年期の織田信長が過ごした中世城郭として知られますが、かたや名古屋城のほうは天下普請によって築かれた近世城郭です。
それにしても徳川家康はなぜ、那古野廃城後の跡地に壮麗な大城郭を築こうとしたのでしょう?今回は名古屋城の歴史とともに、家康が思い描いた壮大な戦略についてご紹介したいと思います。
織田信秀によって奪われた那古野城
近世以前の名古屋城周辺は「那古野(なごの)」と呼ばれていました。平安時代に各地で荘園が誕生したことから、当地でも那古野荘・山田荘・富田荘といった荘園群が確認できます。中でも那古野荘は、高倉天皇の生母だった建春門院に寄進された皇室領荘園だったようです。さて、室町時代になると、足利一門の有力氏族だった斯波氏が越前・尾張・遠江の守護となり、尾張では織田氏が守護代に任じられました。ただし那古野の地は、鎌倉時代以降から那古野今川氏が領有しており、ちょうど駿河の今川氏が領する飛び地となっていたようです。
永正14年(1517)、駿河守護・今川氏親が遠江で斯波氏と戦って勝利を挙げると、尾張東部における拠点強化のため築城に踏み切りました。これが大永年間(1521~1524)に完成した那古野城です。氏親は五男・氏豊を那古野今川氏へ養子として送り込み、那古野城の城主に据えたといいます。
当時の城は「柳の丸」と呼ばれていたらしく、現在の名古屋城二の丸付近にあったと比定されています。その規模や様相は明らかではありませんが、街道が交差する結節点にあたり、交通の要衝だったことがうかがえるのです。
那古野城が完成したのち、尾張では守護家・守護代家の不和が表面化する中、メキメキと実力を付けてきたのが勝幡城主・織田信秀でした。伊勢湾交通の要地・津島を支配したことで大きな経済力を身に付け、尾張東部への侵攻を担ったのです。
天文7年(1538)、那古野城を奪って今川氏豊を追放した信秀は、勝幡城から移って本拠としました。なぜなら那古野城の南には熱田神宮があり、その門前町・熱田は交通・物流の拠点となっていたからです。ここを抑えることで、さらなる経済力強化を図ろうとしたのでしょう。
天文15年(1546)頃になると、信秀は熱田神宮へ近い場所に古渡城を築き、さらなる支配強化に乗り出しています。そして空き城となった那古野城には嫡男・信長を入れました。
その役割を終えた那古野城
まるで蓋をするかのように名古屋城が築城されたことから、近世以前の那古野城に関することは、断片的にしかわかっていません。ただし江戸時代後期に描かれた『御城取大体之図』や、『尾州名護屋慶長以前之古図』などの近世絵図には、今川氏豊の居館や、天神・若宮といった神社、そして軒を連ねる民家などが描かれています。また名古屋城三の丸遺跡の発掘調査では、15~16世紀頃に造られた巨大な土塁や堀、溝、屋敷地などの遺構が次々に見つかりました。併せて戦国期の土師器や陶磁器類も出土しており、那古野城が地域支配の拠点だったことが想起できるのです。
家督を継いだ信長は、弘治元年(1555)に一族の織田信友を滅ぼすと、尾張守護所があり、中心地として栄えていた清須へ移りました。その後、那古野城は叔父・織田信光、次いで宿老の林秀貞が城主を務めますが、天正10年(1582)頃には廃城になったといいます。
それでも廃城へ至るまでの間、なお兵站・物流基地として機能していたことが指摘されています。しかし織田氏の勢力拡大に伴い、尾張周辺における戦乱が終息したことで、ついに那古野城はその役割を終えたと考えられます。城跡は原野同然となり、荒れるに任せるままだったとか。
天下普請によって名古屋城が築城される
那古野城の廃城から四半世紀、江戸幕府を創設した徳川家康は、新たな城郭をこの地に築こうとしました。それが名古屋城です。ちなみに尾張は日本の中原に位置し、東西交通が交わる要衝の地でした。家康は関ヶ原合戦後の論功行賞で、それまでの領主だった福島正則を安芸・備後へ移すと、自らの四男・松平忠吉を尾張へ入封させています。やはり外様でも譜代でもなく、自分の血を分けた徳川一門が治めるべきと考えたのでしょう。
ところが将来を期待した忠吉が、慶長12年(1607)に病没します。忠吉には後嗣がなかったことから、家康は九男・五郎太(のちの徳川義直)を後継者に指名。2年後に清須城へ入城させました。
ここで家康は新城の築城を思い立ちます。従来の清須城は五条川が城内を横切り、大雨になれば洪水の危険性が高まる立地にありました。また軟弱地盤のおかげで地震にめっぽう弱く、当時の液状化現象の跡が見つかっているほど。これでは徳川一門の城としてふさわしくありません。
当初、那古野・小牧山・古渡の3ヶ所が築城地の候補として挙がったのですが、最終的に那古野が絞り込まれました。ちょうど那古野は熱田台地の北西端に位置しますから、ここなら洪水の心配もなく、強固な地盤のおかげで大規模な建造物を築造することも可能でしょう。
また那古野は交通の便が良く、平坦地が広がっていたことで、城下町の発展も期待できました。
那古野が適地である点はもう一つあります。大坂城の豊臣家を意識した場合、西からの侵攻を考慮すれば、極めて守りやすい地形にあったからです。北側と西側は高さ10メートルほどの崖状地形となっており、天然の障壁となっていました。特に北側は低湿地が広がっていて大軍の展開に適さず、必然的に南側にのみ防御を集中させれば良かったのです。
こうして慶長15年(1610)から築城が始まり、加藤清正・細川忠興・黒田長政・前田利常ら豊臣恩顧の大名ら17家が助役を命じられました。のちに篠山城の天下普請が終わると、池田・福島・浅野の3家が追加されています。
同年8月には天守台が完成し、9月には本丸・二の丸・御深井丸の石垣が積み終わりました。慶長17年(1612)末頃になると豪壮な天守が姿を現わします。その延べ床面積は江戸城や駿府城をしのぎ、日本最大級の巨大さを誇りました。
本丸御殿が出来上がり、名古屋城がほぼ完成を見たのは元和元年(1615)のこと。家康は清須から名古屋へ居城を移すにあたり、まったく新しい城下町を建設しました。身分によって居住区域と敷地面積を決定しておき、そこへ清須の城下町を丸ごと移転させようとしたのです。
これは「清須越し」と呼ばれ、武士、寺社、商人、職人、一般町人に至るまで、6万人の人口がそっくり名古屋へ移されたといいます。
鉄壁の防御力を誇った名古屋城
名古屋城は、尾張の中心地であると同時に、鉄壁の守りを誇る軍事要塞でもありました。大坂城の豊臣家が健在である以上、東海地方そして江戸を防衛するための役割が期待されたのです。この時代における銃火器の進歩は目を見張るものがあります。あの巨大な伏見城や大津城でさえ、大軍の侵攻の前には無力でした。そこで家康はあらゆる銃火器の攻撃に耐えうる城を築き上げたのです。
まず名古屋城の北には広大な低湿地があることから、大軍の侵攻には向きません。そのため本丸を含む中枢部を北側に置き、南へ広がる平坦地に二の丸・三の丸を置く構造としています。特にもっとも南に位置する三の丸は、南北600メートル、東西1400メートルという規模を誇り、実に東京ドーム12個分という規格外の広さでした。これでは最新鋭の大砲を以てしても城の中枢部へ届かず、砲撃はまったく無効になることを意味します。
また曲輪の周囲は深さ10メートル、幅20メートルの堀で囲まれており、さらに内側には8メートルの高さを持つ土塁が積み上げられていました。つまり城内へ攻め入るどころか、近付くことすら困難だったのです。
もう一つ、名古屋城の強みは中枢部を構成する曲輪群にもありました。どの曲輪も直線や直角を基調としたものですが、これらを単に並べるだけでなく、微妙にずらすことで死角をなくす工夫が取られていたのです。仮に敵が三の丸を突破して西の丸へ迫った場合、側面背後にあたる二の丸から銃撃が可能でした。もちろん機を見て出撃し、後ろを衝くこともできるでしょう。
また二の丸や西の丸へ侵入を許したとしても、今度は本丸の東と南に設けられた巨大な馬出が控えています。そこを突破するには、狭い土橋を通る必要がありますが、上からは本丸二重櫓が睨みを利かし、銃弾や矢のように飛んでくるのです。
さらに多聞櫓が連結された厳重な枡形は、各所で敵の侵入を阻み、多大な損害を与える工夫が凝らされていました。つまり曲輪群の一つ一つが独立しつつも、互いに連携して機能する防御構造となっていたのです。まさに「鉄壁」とは名古屋城のためにある言葉でしょう。
実は、名古屋城の守りをさらに完璧にするため、城と城下町を丸ごと包み込む総構(そうがまえ)の計画まで練られていたようです。しかし築造工事は途中で中断となり、再開されることはありませんでした。なぜなら大坂の陣が終わり、豊臣家が滅亡したことで、その必要性がなくなったからです。
名古屋に繁栄をもたらした徳川宗春
戦乱の時代が終わると、尾張徳川家は御三家の一つとして、もっとも格式ある藩となりました。しかしお膝元である名古屋の町は政治の中心ではありつつも、東海道から外れていたために、経済都市としての繁栄を甘受できないままでいました。そして7代藩主・徳川宗春の治世を迎えます。8代将軍・徳川吉宗は、質素倹約を旨とする享保の改革を推し進めるも、宗春は反発するかのように享楽的な自由経済主義を取りました。その裏には将軍の座を吉宗と争った経緯があり、宗春は少なからず対抗心を抱いていたのでしょう。
宗春はまず、支払期間が長い藩札の発行を禁じ、すべての取引を正金で決済させました。これに商人が喜ばないはずがなく、諸国から多くの者が城下へ集まって商売したといいます。
また初代・義直以来、禁じていた遊郭を解禁し、芝居の興行も自由に行わせました。さらに武士から町人に至るまで遊芸や音曲を奨励したことで、昼夜の別なく名古屋の町は賑わったとか。
享保の改革に行き詰った江戸や京都では、火が消えたように寂れるいっぽうで、その繁栄ぶりを伝え聞いた旅人たちが、わざわざ名古屋へ立ち寄るほどの人気ぶり。「名古屋の繁華に京(興)が醒めた」と謳われるくらい活気づいたといいます。
しかし吉宗は、こうした宗春の開放主義を自分への当てつけと感じたようです。華美好きな宗治に藩内の不満が高まると、その機会を逃さず宗春に隠居・謹慎を命じました。その死後も罪が許されることはなく、宗春の墓には金網が掛けられたままだったとか。
やがて明治を迎えると、名古屋城本丸には陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、同じく二の丸・三の丸も陸軍省の所管となりました。また新たに陸軍の施設が建設されるとともに、二の丸御殿はじめ多くの建造物が撤去されたといいます。現在も残る乃木倉庫は、この時期に建てられたものでした。
ちなみに天守や本丸御殿の壮麗さは往時と変わらず、保存・修理のうえ永久に残すべきという声が高まります。そこで名古屋城本丸と西の丸の一部が宮内省へ移管され、明治26年(1893)には名古屋離宮と改称。本丸御殿は皇族の宿泊所として利用されました。
そして昭和5年(1930)、名古屋離宮が名古屋市へ下賜されたことで、再び名古屋城の呼称が復活します。太平洋戦争の戦災で、天守・本丸御殿など主要な建造物が失われますが、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造りの天守・小天守・正門が完成。
平成30年(2018)には、待望の本丸御殿が復元され、ついに往時の姿を取り戻したのです。
おわりに
続に「尾張名古屋は城で持つ」といいますが、その言葉通り、名古屋城というシンボルがあったからこそ、名古屋の町は今日までの発展を遂げてきました。それは城を築いた徳川家康の思いであり、町を繁栄に導いた徳川宗春の願いでもあったのでしょう。そして、何より名古屋市民が待ち望んでいるのが、名古屋城天守の木造による復元です。完成すれば壮麗な本丸天守とともに、名古屋を代表する観光スポットになることは間違いありません。
また日本の城郭建築におけるエポックメイキングになる可能性すら秘めているのです。おそらく全国の自治体も追随するのではないでしょうか。その日を心待ちにしたいものですね。
補足:名古屋城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
大永年間 (1521~1524) | 今川氏によって那古野城が築かれ、今川氏豊が城主となる。 |
天文7年 (1538) | 織田信秀が那古野城を奪取。 |
天文15年 (1546)頃 | 織田信秀が古渡城へ移り、嫡男・信長が城主となる。 |
天正10年 (1582)頃 | 那古野城が廃城となる。 |
天正10年 (1582) | 明智光秀が饗応役となり、徳川家康を接待する。 |
慶長12年 (1607) | 松平忠吉が亡くなり、徳川家康の九男・義直が遺領を継ぐ。 |
慶長15年 (1610) | 名古屋城の築城が始まる。 |
慶長17年 (1612) | 大天守・小天守が完成。 |
元和元年 (1615) | 本丸御殿の落成によって名古屋城が完成する。 |
宝暦2年 (1752) | 宝暦の大改修。傾いた大天守を持ち上げ、改修工事を施す。 |
明治5年 (1872) | 本丸に陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、二の丸・三の丸も陸軍省管轄となる。 |
明治26年 (1893) | 宮内省に移管され、本丸と西の丸の一部が名古屋離宮となる。 |
昭和5年 (1930) | 名古屋市へ下賜され、名古屋城と改称。翌年には一般公開される。 |
昭和20年 (1945) | 名古屋空襲によって天守・本丸御殿など主要な建造物が焼失。 |
昭和34年 (1959) | 鉄筋コンクリート造りの大天守・小天守・正門が再建される。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選出される。 |
平成30年 (2018) | 本丸御殿の復元が完了。一般公開される。 |
【主な参考文献】
- 中井均「東海の名城を歩く 愛知・三重編」(吉川弘文館 2020年)
- 城郭史料研究会「近世城郭の謎を解く」(戎光祥出版 2019年)
- 西ヶ谷恭弘「名城を歩く11 名古屋城」(PHP研究所 2010年)
- 中井均「カラー版 戦国の名城50」(宝島社 2018年)
- 加藤理文「家康と家臣団の城」(KADOKAWA 2021年)
- 名古屋市観光文化交流局「名古屋城の歴史」
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄