新選組男たちの差料…近藤勇の刀 ”虎徹”は本物だったのか?

 新選組、幕末動乱の世を武士として生き武士として死んで行った男たち。そんな男たちが己の命を預けた刀はどのようなものだったのでしょう。

近藤勇の長曽祢虎徹

「今宵の虎徹は血に飢えておる」

 愛刀を手に凄絶な笑みを浮かべる新選組隊長・近藤勇。絵になる場面ですが、当時でも家宝級の扱いを受けた名刀・長曽祢虎徹(ながそねこてつ)。値段も相当なものなら偽物も市中に溢れていました。果たして近藤の虎徹は本物だったのでしょうか?

 名刀虎徹を鍛えた刀鍛冶・長曽祢興里(おきさと)は、近江国長曽祢村現滋賀県彦根市に生まれます。虎徹の刀で銘に長曽祢興里入道虎徹とあるのは剃髪してからの号です。甲冑師の家に生まれた興里は当初、兜や鎧を作っていましたが、明暦年間50も過ぎてから江戸に出て刀鍛冶の修行を始めます。

 本所や上野の忍岡に住み、延宝6年(1678)に80余りで亡くなるまで多くの刀を鍛えましたが、寛文年間ころに円熟期を迎えています。最後の刀の年紀が延宝5年2月吉日とあるので、死の直前まで腕を振るっていたようです。

 虎徹の技量の裏には、甲冑師として多くの鎧を作る中で刀や槍からの防御を研究し尽くし、刀鍛冶となった後はその防御を破る工夫に今までの知識を生かしたところにあります。

虎徹の切れ味

 何をもって名刀と言うのか? やたらと刃こぼれがせぬこと、長時間の切りあいに堪える事、これも大事ですがまずは切れ味でしょう。虎徹はその切れ味の鋭いことで有名です。すでに江戸時代『新刀銘尽(あらみめいづくし)』や『古今鍛冶備考』などの刀を評した書物で高い評価を得ています。

 単なる名前だけでなく、実際に試し切りも行われていました。虎徹の刀の中には ”弐ツ胴” や "参ツ胴" の銘があるものが少なくありません。これを「截断銘(さいだんめい)」と言いますが、これは罪人の死体を積み重ねて一度にどれだけの胴体を切り落とせるかを数値で表したものです。

 切断する部位によって「乳割り」とか「脇毛」などの名前まで付いていました。弐ツ胴は二人重ねて、参ツ胴は三人重ねてですが本当にスパッと切断できたのでしょうか。

 近藤が所持していた虎徹には「四胴」金象嵌が施されています。また「山野加右衛門六十八歳ニテ裁断」「寛文五年二月廿五日」とも彫られており、つまりこの虎徹は罪人4人の死体を重ね切りしたものです。試し切りしたのは山野加右衛門で、時は寛文五年。この山野と言うのは幕府の刀剣御試役であり、試し切りの名人でした。

何しろ虎徹は高かった

 天保2年(1831)、幕府の試し切り役・山田朝右衛門が、所蔵する二尺三寸三分五厘の虎徹を、さる幕府の高級官僚に譲りました。その時の謝礼として、金50両・狩野探幽の描いた福禄寿の図・肴料として黄金1枚(7両2分)を贈られています。本数も限られた虎徹を手に入れるには、相応の金品を用意せねばなりませんでした。

 しかし虎徹を欲しがる者は後を絶たず、高額で売り買いされるために当然偽造品が横行、国立博物館刀剣室長だった佐藤寒山は「虎徹を見たら嘘と思え」との鑑定家の戒めを伝えています。

 こんな話も伝わっています。明治の中頃、1人の女髪結いが語ったことには

「私の父は山浦清磨の弟子でしたが、至って下手で新しく打った刀でも2両ぐらいにしかなりませんでした。ある時道具屋に頼まれ、偽銘を切れば一刀で一分になると言われ、1日に2本も切れば家計には十分なので常に偽銘を切るようになりました。刀屋が5本10本と持って来て、これは兼光これは虎徹と指図の紙札を付けていきました。虎徹が一番多かったように思いますよ」

 この話が本当だとすると、偽虎徹は量産体制をとっていたようですね。

近藤はどうやって虎徹を手に入れた?

 近藤はそんな虎徹をどこでどうやって手に入れたのでしょうか。 様々な話が伝わっています。

 幕末から明治30年ごろにかけて、湯島天神下に細田平次郎と言う男が住んでいました。刀工荘司直胤の門人でしたが、「鍛冶平」の異名をとる刀打ちの達人・・・、ではなく偽銘打ちの達人でした。

 それなりに優れた技量は持っていたのですが、なにしろ大酒飲みで素行が悪く、いつも金に困っていました。そんな時、細田の知り合いの刀屋の元へやって来たのが虎徹を求める近藤。刀屋と細田の2人は共謀して細田得意の虎徹の偽銘を打った山浦清磨作の刀を高値で近藤に売り付けました。清磨も一流の刀鍛冶でしたから、近藤は京都の実戦でこの刀を使ってその切れ味に満足し、本物の虎徹と信じ込んだとの説。

 そしてもう一つの有名な話。

 元治元年(1864)正月、近藤が副長の山南敬助と京都市中を見廻っていた時、ある家に不審な者5人が押し入るのを見かけます。近藤と山南は賊に立ち向かい、討ち取ったり追い払ったりしますが、山南は刀を折られて手傷を負いました。

 その家は大坂の豪商鴻池一族の別邸で、2人に感謝した鴻池家は金品を包んだうえ、刀を折られた山南に何本かの銘刀を示して気に入ったものを選ぶよう申し出ます。しかしその中に虎徹が混じっているのを見た近藤は自分でその刀を取り、山南には自分の佩刀を与えた、と言うものです。

近藤は虎徹を ”本物” と信じていた!?

 近藤が虎徹と言われる刀を所持していたのは確かなようで、新選組が結成されてから7ヶ月後の文久3年(1863)10月に、武蔵国の後援者宛てに次のような自筆の手紙を書いています。

「(私は)当時具足三両、大小虎徹入道、鍔信家(を所有)」

 また、翌年6月にも同じく、武蔵国の後援者宛てに池田屋事件の詳細を伝える手紙を書き、その中に記しています。

「下拙は刀は虎徹故にや無事に御座候」

 名刀虎徹を手にしていたから無事に切り抜けられたって事ですね。この2通の手紙が、近藤自身は虎徹を所持していると思っていた同時代史料となります。最初の手紙では脇差まで虎徹で揃えていると言っています。

 どこまで近藤が信じていたのか、また本当に近藤の佩刀が虎徹だったかどうか、今となってはわかりません。しかし自分の愛刀が虎徹だとのプライドが、新選組局長としての近藤の支えともなったのでしょう。

 この虎徹は残念ながら現在に伝わっていません。近藤の愛刀としては他に、陸奥大掾三善長道・阿州吉川六郎源祐芳・大和守源秀圀などが知られています。

おわりに

 先年、博物館で開かれた新選組展に行ってきました。隊士が着用した鎖帷子やこまごまと丁寧に書き込まれた帳面が展示されており、「あぁ…本当にこのような人たちがいたのだな」と実感しました。


【主な参考文献】
  • 伊東成郎『新選組と刀』河出書房新社/2016年
  • 宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店/2017年
  • 山村竜也『世界一よくわかる新選組』祥伝社/2017年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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