「近藤勇」池田屋事件では自ら刀を奮って奮戦!最後の武士集団を率いた新選組局長。

近藤勇の肖像(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
近藤勇の肖像(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
幕末は、武士の時代の終わりでもありました。精鋭の武士集団を統率し、京都に平穏を取り戻すべく活動した男がいます。新選組局長・近藤勇(こんどう いさみ)です。

勇は町人出身ながら、剣術の腕を磨いて武士に転身。国家のために働くべく、京都に上って新選組を立ち上げます。土方歳三の補佐もあり、幾多の粛清を乗り越えて隊を統一。遂にはただ一人の局長となります。池田屋事件では京都大火計画を未然に防止。朝廷や幕府も認めるほどの武士へと成長を遂げました。

国事にも関わりながら、より良い道を模索していきますが、大政奉還によって運命は暗転。追い詰められた勇は新選組の仲間を救うべく、驚きの行動に出るのです。彼は何のために戦い、どのように生きたのでしょうか。近藤勇の生涯を見ていきましょう。

試衛館で土方歳三らと出会う

天然理心流入門~土方歳三や井上源三郎との出会い

天保5(1834)年、近藤勇は武蔵国多摩郡上石原村で豪農・宮川寿次郎の三男として生を受けました。母はみよです。幼名は勝五郎、諱は昌宜と名乗りました。三国志や水滸伝などの英雄伝説を好む少年だったと伝わります。

嘉永元(1848)年、勇は江戸の市ヶ谷にある試衛館に入門。天然理心流剣術を学び始めます。勇の剣術の腕は確かなものでした。

試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)
天然理心流剣術の道場・試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)

嘉永2(1849)年には目録を獲得。道場主・近藤周助に見込まれて同家の養子となっています。十五歳のときには、生家に押し入った強盗を撃退。見事な腕と知謀を垣間見せています。

文久元(1861)年には天然理心流宗家を相続。4代目を襲名するため、府中六所宮において野試合を行なっています。天然理心流は、勇の生家をはじめ八王子千人同心に関わる家々が後援者でした。同門の土方歳三や井上源三郎、塾頭の沖田総司も千人同心と関わりの深い家に生まれています。

将軍警護のため、浪士組に応募する

勇には、武士になる目標がありました。文久3(1863)年2月、勇は浪士組の募集に応募。土方や沖田ら試衛館の門人らを伴っての参加でした。

浪士組は、上洛する将軍警護のための部隊です。しかし京都に到着後に浪士組は分裂。勇は水戸出身の芹沢鴨一派とともに壬生浪士組(新選組の前身組織)を立ち上げます。壬生浪士組は京都守護職・会津藩預かりの身分となり、京都の治安維持業務を担うこととなりました。

この壬生浪士組は、当初烏合の衆でした。勇の試衛館出身者と芹沢鴨の水戸派、殿内義雄や根岸友山らの派閥に分かれて運営されていたと伝わります。

※参考:壬生浪士組(新選組の前身)の主要メンバー
芹沢鴨一派試衛館一派
芹沢鴨(局長)近藤勇(局長)
新見錦(局長)土方歳三(副長)
田中伊織沖田総司
平山五郎山南敬助
平間重助永倉新八
野口健司原田左之助
佐伯又三郎斎藤一
etc…

勇は土方と共に武士の集団として、厳格な規律を設定しました。最初に勇は沖田総司と共に殿内義雄を粛清。根岸友山らを隊から放逐することに成功します。

新選組局長就任

新選組局長となる

当時の京都の政権は、尊王攘夷派の巨頭・長州藩が掌握していました。文久3(1863)年8月、会津藩と薩摩藩は同盟を締結。御所の警備を行う長州藩兵を駆逐することに成功しています。世にいう八月十八日の政変です。

勇も壬生浪士組と共に出動。御所の御花畑門の警備を担当しています。変後には残党狩りも出向いています。
壬生浪士組の働きは認められ、新たに「新選組」の隊名を拝領しました。

新選組のイラスト

しかし懸念もありました。芹沢鴨の一派は市中で乱暴狼藉を繰り返し、会津藩からも不安視されていたのです。

9月、勇は筆頭局長である芹沢の粛清を決意。土方や沖田らに暗殺を実行させ、芹沢一派を壊滅させています。ただ一人の局長となったことで、以降の新選組は勇が主導。土方が補佐していく体制となりました。


池田屋事件で陣頭指揮を執る

元治元(1864)年、諸侯の合議である参預会議が瓦解。京都の政局は、松平容保ら「一会桑」政権が担うこととなります。勇と新選組も政権の一角を担うこととなりました。

2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図
2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図。松平容保や新選組は徳川幕府を補佐した佐幕派(図の右上枠)に該当。

しかし尊王攘夷派は、巻き返しを諦めません。同年6月5日、新選組は尊王攘夷派・古高俊太郎を捕縛。古高は同志による京都大火計画を明かします。同日、勇らは浪士らを一網打尽とすべく出動。近藤隊10人と土方隊24人に分かれて鴨川の東西を捜索しました。やがて勇らは池田屋に到着。当時、池田屋には熊本の宮部鼎蔵や長州の吉田稔麿が20人ほどで滞在していました。

勇らは隊士数名に外を固めさせ、自らは沖田総司や永倉新八らと共に屋内に入ります。屋内では抜刀した浪士たちが勇を睨み据えていました。

池田屋事件のイラスト
新選組が 池田屋(京都府京都市中京区中島町)に潜伏していた尊王攘夷派の志士たち(長州藩・土佐藩など)を襲撃。

しかし勇は怯むことなく「御用検めである。手向かい致さば容赦なく斬り捨てる」と叫びます。戦端が開かれると、沖田が喀血し永倉も負傷。勇は多くの敵を相手に怯むずに戦います。やがて土方隊が到着して戦況は逆転。浪士たちを一網打尽にすることに成功しています。

翌7月にも新選組は禁門の変にも出動。勇も朝廷と幕府、会津藩より報奨金20両を下賜されています。勇はすでに天下が認めるほどの武士となっていました。

直参旗本・近藤勇の佩刀は長曽根虎徹?

近藤勇の佩刀は長曽根虎徹だったのか?

さて、近藤勇といえば、佩刀の「長曽根虎徹」の話が有名です。実際に数本の虎徹とされる刀を所有していました。ただ、いずれも贋作だとされ、勇の佩刀は「源清麿」とされる説が有力です。

では勇と虎徹を結びつけるものは何なのでしょうか?

池田屋事件の後、会津藩主・松平容保は勇に銘刀「初代三善長道」を下賜しています。三善長道は会津出身の刀工が製作した刀剣です。刀剣の階級においては、最上大業物に数えられたほどの逸品でした。作風は長曽根虎徹に似ており、実際に「会津虎徹」の異名で呼ばれています。

近藤勇の三善長道こと「会津虎徹」が、長曽根虎徹として伝わった可能性も指摘できます。

町人出身から幕府の旗本へ出世する

慶応元(1865)年、勇は広島へ出張。長州藩への訊問使・永井尚志に随行しています。勇は岩国藩(長州藩の支藩)に入国。交渉を要請していますが、断られて京都に帰還しています。

慶応2(1866)年にも再び広島へ向かいますが、成果を得ることはできませんでした。同年に幕府は長州征伐で大敗。将軍・家茂が死去したことで、時勢は倒幕へと傾いていきました。

幕府が傾くと、新選組も二つに割れていきます。慶応3(1867)年3月、伊東甲子太郎らが御陵衛士となって脱退。分離して6月には新選組全員が幕臣に取り立てられました。局長である近藤勇は旗本となり、300俵の禄を得る身分となります。かつては町人であった勇が、御目見が許される武士と認められました。

以降、勇は土佐藩の後藤象二郎などの要人とも会談。新選組の任務には要人警護も加わることとなります。

京都での政治活動

国事周旋活動

勇は長州征伐の建白書を朝廷の議奏に提出。国事に関して積極的に発言していることが確認されます。対して御陵衛士の伊東らも長州への寛典を建白。勇らとの対立は深まっていきました。

10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を断行。討幕派の勢いは日ましに強まっていきます。同月、勇は伊東を妾宅に呼んで帰路で暗殺。御陵衛士の残党を油小路に誘き寄せて壊滅に追い込んでいます。

12月には王政復古の大号令が発布。旧幕府勢力は京都からの撤兵を命じられています。同月、勇は伏見で元御陵衛士らに右肩へ銃撃を受けて負傷。戦列を離れて大坂で療養することとなりました。

年が明けた慶応4(1868)年1月、旧幕府軍と新政府軍が鳥羽伏見で衝突。錦の御旗が上がったことで、旧幕府は総崩れとなります。

甲陽鎮撫隊を率いて、新政府軍と戦う

戦後、新選組の面々は軍艦で江戸に帰還します。しかし勇の意気は衰えてはいません。勇や土方らはあくまで新政府との対決を主張。京都と同じように精力的に活動していきます。

2月28日、勇たち新選組は甲陽鎮撫隊と名を変えて江戸を出立。甲府城の制圧を目指して街道を進みました。しかし3月、勇たちが目にしたのは意外な光景でした。甲府城には既に新政府軍が入城し、占拠していたのです。甲陽珍部隊は土佐藩の板垣退助らと勝沼で衝突。大敗を喫して退却しています。

敗走した近藤勇たちは、江戸へと戻ります。しかし江戸で勇は永倉新八や原田左之助と衝突。暴言を吐いたことで二人は隊から離脱してしまいました。

勇の周りには、土方やわずかの兵しか残っていません。勇と土方は旧幕府の兵を加えて、隊の充実をはかることに決定。五兵衛新田で隊士を募集しています。

投降と斬首

土方歳三の説得を受け、総督府へ投降する

4月になって、新選組は下総国流山に屯集。次の目的地を会津と定めて抗戦の準備に入っていました。しかし思いもよらぬ事態が待っていました。新政府軍は流山に武装集団がいるとの知らせを聞き、突如として流山の本陣を包囲。勇たちの行手を遮ります。

勇は切腹すると告げますが、土方が説得。変名の「大久保大和」での投降を進め、思いとどまらせました。勇は変名で新政府軍に出頭。越谷の陣営から板橋の総督府に身柄を護送されていきました。その間に解兵という形で新選組を逃すことに成功しています。新選組の隊士を救うための、局長として命懸けの行動でした。

板橋で斬首され、晒し首となる

護送後、勇は総督府で尋問を受けます。連日の取り調べにおいて、勇は大久保大和を名乗り続けました。しかし総督府には、元御陵衛士の加納鷲雄がいたのです。加納は勇の正体を明かすと事態は一変。勇はたちまち捕縛されることとなりました。

4月25日、近藤勇は板橋刑場において斬首。享年三十五。戒名は貫天院殿純忠誠義大居士。墓は三鷹の龍源寺と会津若松の天寧寺にあります。

首は塩漬け(焼酎漬けとも)にして送られ、京都の三条河原、大坂の千日前で晒されています。その後、勇の首は行方不明となりました。一説によると、新選組ゆかりの人間が奪い返して埋葬したと伝わります。



【主な参考文献】
  • 菊池明ら 『土方歳三と新選組10人の組長』 新人物往来社 2012年
  • 大石学 『新選組ー「最後の武士」の実像』 中央公論新社 2004年
  • 国立国会図書館HP 近代日本人の肖像「近藤勇」

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。