新選組男たちの差料…最後まで身に帯びていた土方歳三の刀 ”和泉守兼定”
- 2023/11/30
新選組、幕末動乱の世を武士として生き、武士として死んで行った男たち。そんな男たちが己の命を預けた刀はどのようなものだったのでしょう。
今も伝わる「和泉守兼定」
土方歳三の愛刀と言えば「和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ)」が有名ですが、彼は京都では兼定を少なくとも二振り所持していました。刀工兼定は美濃国関の出身で、四代目が会津へ移り、葦名盛氏に仕官。この地で刀を打ち始め、以後会津兼定として代々名刀を作刀します。文久3年(1863)12月4日、十一代兼定が和泉守を名乗りました。
新選組の結成から半年後の文久3年(1863)10月20日、近藤勇は国許の後援者・佐藤彦五郎に宛てた手紙で
「土方氏も無事に罷りあり候。刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差一尺九寸五分堀川国広」
と書き送っていますが、このとき十一代兼定はまだ和泉守を名乗っていないので、この兼定はもう1人の和泉守二代目兼定を指している可能性があります。ただ、二代目兼定は室町時代の人と時代も古く、十一代目説も捨てられません。
土方の故郷・東京都日野市に直系ではありませんが、今も土方の子孫の方がご存命で、その手元に和泉守兼定と越前康継の二振りの土方の佩刀が現存しています。この和泉守兼定は、長さ二尺三寸一分六厘で銘が「慶応3年2月日」と、文久3年の書状の兼定とは別物のようです。土方は兼定を二振り持っていたと考えるのが自然かと思われます。
この兼定は函館戦争の激戦の中、流れ弾に当たった土方が絶命するまで身に帯びていたと伝わります。当初、この刀には刃こぼれがあり、鞘糸の摩耗も激しく、相当に厳しい戦いを何度も潜り抜けて来た痕跡が残っていました。官軍に追われて北へ向かう土方の最後の戦いを共にした刀であったことでしょう。
土方の得意技・双手突
土方は双手突が得意技で、新選組の稽古でもこれを外せるのは伊東甲子太郎と服部武雄だけだったそうです。現在伝わっている兼定は柄巻の摩耗が激しいそうです。これは刀が体にしっかり固定するよう、鍔の近くから右手左手と順繰りに握りを繰り返し、親指と人差し指に力を込めて握っていたからと言う事です。両手で柄を強く握りしめ相手の胸元へ突進する、そんな土方の得意技の痕跡が愛刀にも染みついているのは興味深い事です。
土方の名前は万延元年(1860)刊行の武州剣術家名鑑『武術英名録』にも記されており、剣術の腕も評価されています。
文久3年(1863)4月16日、発足間もない新選組総員が会津藩から声を掛けられ、松平容保が京都警備の本陣を置いている黒谷金戒光明寺へ招かれます。このとき、松平容保の要望で隊士たちの有志が日ごろ鍛えた武術を容保公の上覧稽古で披露することになっていました。
剣術では4組の稽古が組まれ、まず進み出たのが土方と藤堂平助です。会津藩の藩士たちは、新選組を百姓出身者や食い詰め浪人の寄せ集め集団と侮り「その武術などナンボのもんじゃ」と見ていましたが、新選組隊士たちの優れた技量はそんな会津側を圧倒します。
稽古が終わると会津藩士たちはそれまでの態度を引っ込め、新選組を篤くもてなしました。幕末諸隊の中でも剣技抜群と言われた新選組の面目を施しています。
佐藤家に伝わる「越前康継」
土方の義兄・佐藤彦五郎家に伝わるのが、土方のもう1本の愛刀「越前康継(えちぜんやすつぐ)」です。康継は本名を下坂市左衛門と言い、近江国坂田郡下坂村の出身で下坂氏お抱え鍛冶の家に生まれます。慶長元年に越前に移って作刀を続け、慶長8年(1603)に駿府で徳川家康に拝謁、葵の御紋を拝領し以後自作の刀に葵紋を打つようになりました。
佐藤家に伝わる康継は彦五郎の嫡子で土方の甥にあたる俊宜(としのぶ)に土方が贈ったものです。明治元年(1868)、新政府軍に一時身柄を取り押さえられた俊宜が、佩刀を取り上げられたかもしれぬと案じて彦五郎を通して贈りました。
この刀が土方の手元にやってきた経緯は不明ですが、銘には安政6年(1859)6月11日に山田佐吉が、同年11月23日には山田吉豊が伝馬町牢屋敷で試し斬りを行ったと彫られています。
近藤・土方とかかわりを持った刀「大和守秀国」
大和守秀国の刀は新選組と深いかかわりを持っています。秀国も会津藩の刀工で、三代秀国は藩主・松平容保の京都守護職拝命に従って都入り、会津藩士や新選組隊士のために作刀します。秀国の刀は『会津若松史』に「出来不出来が無く幕末における名工」と評され、新選組も買い付けています。慶応3年(1867)11月26日付の新選組出納帳に「十六両二分、大和守身三本」との記載があり、1度に複数本買っていたようです。また、近藤は自身が持つだけではなく、郷里多摩地方の関係者に数本の秀国の刀を贈っています。
秀国は土方ともかかわりを持っていました。1本の秀国の刀の表に「秋月種明懇望帯之」つまり「秋月種明が懇望して之を帯刀した」と銘文があり、裏には「幕府侍土方義豊戦刀 秋月君譲請高橋忠守帯之」つまり「幕府の侍土方義豊(歳三)の刀である 秋月君が譲り受けて高橋忠守(旧幕臣)が之を帯びた」とあります。
当初、この刀は土方の実戦刀であったが、秋月種明が懇望して譲り受け、その後旧幕臣の高橋忠守が身に帯びたようです。
秋月と言うのはもともとは会津藩田島陣屋に詰めていましたが、幕末になると江戸へ出て来て暮らし始めます。鳥羽伏見の戦いの後に大鳥圭介の脱走軍に加わり、北へ敗走する旧幕府軍に合流、日光方面へ進軍します。ここで大鳥軍に加わっていた土方以下、新選組隊士と知り合いました。
秋月は分隊して北上する先鋒隊を統率し、土方は参謀として秋月を補佐します。この道中で大和守秀国の贈答も行われたのでしょう。土方がこの刀を手に入れた経緯は、新選組として発注したものの1本と考えられます。
おわりに
刀にはその来歴が刀身に刻み込まれます。歴史の動きの中でその持ち主がどのように行動したのかが窺い知れるのは、興味深い事です。【主な参考文献】
- 伊東成郎『新選組と刀』河出書房新社/2016年
- 宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店/2017年
- 山村竜也『世界一よくわかる新選組』祥伝社/2017年
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