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素麺は交野から三輪、揖保へ

素麺(そうめん)と言えば、三輪素麺、そして揖保乃糸(いぼのいと)ですが、実は交野(かたの、大阪府交野市)が日本で最初に素麵を作っていたと思われます。交野では今では数軒になってしまっていますが、30年くらい前では素麺づくりが盛んに行われていました。

交野と枚方(ひらかた、大阪府枚方市)をあわせた丘陵地は交野ケ原と呼ばれ、その交野ケ原は古代からの歴史があります。交野の方が三輪(みわ、奈良県桜井市三輪)よりも歴史が古いと思われ、素麺は交野から三輪へ伝わったのです。

そして揖保乃糸の揖保郡(いぼぐん)は、兵庫県(播磨国)で、和銅7年(713)に編纂された『播磨国風土記』に「枚方」の地名が出てきます。

「枚方の里 土は中の上なり。枚方と名づる所以は、河内の国、茨田(マンダ)の郡の枚方の里の漢人、来たりて、初めてこの村に居りき。」
『播磨国風土記』より

このことから揖保の素麺も枚方・交野から伝わったことが想像できます。また、枚方の漢人という点も見逃せません。

日本の小麦栽培は3世紀ごろ朝鮮半島から伝わったとされ、稲の裏作用に栽培が始まったと言われています。

素麺は中国から伝わったとされる「索餅(さくへい・さくべい)」。日本では「麦縄」(むぎなわ)と呼ばれていました。様々な行事や儀式などに供物として供えられていた記録があり、その当時はたいへん貴重な食物であったと推測されます。

中国では7月7日、機織り上手の織姫にあやかり、手芸や裁縫の上達を願い、針や糸などの裁縫道具をお供えし、星に祈りをささげる「乞巧奠(きこうでん)」という行事が行われており、それが日本に伝わって日本版七夕行事の元となりました。日本では、やがて「星伝説」の物語も加わり、男女の良縁を祈り円満な結婚を祈願する日とされ、笹飾りに願い事を書き、小麦は毒を消すという言い伝えから健康を願い、糸に見立てた「そうめん」を供え行事食とし、宮中における七夕行事は、おのずと神事祭り事へと変化していったのです。

交野市には、七夕伝説発祥の地で織姫(おりひめ)様をお祀りする機物(はたもの)神社があります。天野川、牽牛石(けんぎゅうせき)、逢合橋(あいあいばし)、鵲橋(かささぎばし)これらの地名は七夕伝説にもとづいています。

現在でも枚方はうどんの町で、恩地のうどん、釜盛のうどんなどは切り口が丸いのです。これは素麺と同じで練った小麦粉をひぱって伸ばしているからです。他の地区では蕎麦と同じように包丁で切っているため切り口は四角です。

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  この記事を書いた人
トオタケヒデマル さん
遠嶽 秀丸 大阪府枚方市在住

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