日本人のソウルフード。最後の食事は、おかあさんが作ってくれた塩むすびを

 日本人のソウルフード・おむすび。人生最後の食事に「私が子供の頃かあさんが作ってくれた塩むすび」を望む人も多いとか。日本人はそんなおむすびを何時頃から食べていたのでしょうか?

米を食べ始めたのは縄文時代

 日本で稲の栽培が始まったのは、3000年から2500年前の縄文時代後期と言われています。中国の長江の流域で広く作られていた粘り気のあるジャポニカ米が伝わって来ました。

 この粘り気のあるってのが重要で、ぱさぱさしたインディカ米ではうまく握れませんからね。コシヒカリやササニシキをはじめとして、現在日本で食べられているお米の大部分がこのジャポニカ米に由来します。

 気候は比較的温暖で水資源も豊富、河川も多く流れており水田に適した土地も得やすい、日本の国土は稲作にぴったりでした。米は単位当たりの収穫量が多く連作も可能で、長期保存も出来るし腹持ちが良く何よりうまいと主食にはもってこいの作物です。そんな米本来のうまさを一番しっかり味わえるのが塩むすびです。

最初からおむすびは無理だった

 では稲作の始まりと共におむすびも誕生したかと言うと、どうもそうでもないようです。

 米の調理法もさまざまあり、現在我々が行っている水加減と火加減を調整する事で、加熱が完了した段階で丁度余計な水分も無くなりふっくらと仕上がる「炊き干し法」、まず米を茹でて茹で汁を捨ててから、更に熱を加えて焚き上げる東南アジアで行われている「湯取り焚き上げ法」、茹でた米をざるに上げて蒸し上げる「湯取り蒸し上げ法」などがあります。

 他にもお粥のようにたっぷりの水でひたすら焚き上げる方法や、パエリアやピラフを作る時の炒めてから煮る方法、赤飯・おこわを作る時なら蒸す方法などがあります。

 このなかの「炊き干し法」や蒸す方法でなければうまくおむすびは作れないのですが、縄文や弥生時代の濾し器を使った調理法・調理器具では、握ってまとめるのに必要な米の粘りがうまく出ません。

 神奈川県秦野市の弥生時代中期「砂田台遺跡」からは、炭化した米の塊が見つかっていますが、人の手によって握られたものではなく、何かの容器に入ったまま炭化したものと考えられます。

 他にも飯の塊の表面に布目が付いた物や、布そのものが付着して出土する例もありますが、これらもおむすびと言うよりはたんに布でくるんだ飯の塊と思われます。

携行食として重宝される

 奈良時代には各地で風土記が編まれました。そのひとつ『常陸国風土記』のなかに「握飯(にぎりいい)」との記述があります。おそらくこれが文献初出の本格的おむすびと思われます。

 平安時代になると、蒸した糯米を握った「屯食(とんじき)」と言う食物が食べられるようになり、おむすび調理法が広まって行きました。

 室町時代に造られた酒好きと飯好きがどちらが優れているか議論する「酒飯論絵巻(しゅはんろんえまき)」では、飯好きの男が木桶一杯の飯を前にせっせとおむすびを握り、いくつもの入れ物に山ほど盛っている図が描かれています。詞書きには「鳥の子にきり」と書かれており、卵型をしたおむすびです。

 戦国時代、おむすびは村々から駆り集められた雑兵・農民兵の食べ物として活躍します。戦があるからと言って一方的に否応なく集められるのに、大将である大名から食糧が支給されるのは招集後3日目から。それまでの食い扶持は自分で持って行かねばなりませんでした。

 「腰兵糧」と呼ばれますが、豆やみそ・干し飯など日持ちのする食べ物に加えておむすびも重宝されました。

 江戸時代になると、浮世絵にも描かれ、初代歌川広重の『東海道五十三次藤沢宿』の場面では、3人の旅人が美味しそうにおむすびをほうばっています。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、弥次さんが大きな握り飯を17~8個も食べたと大食い自慢をするなど、すっかり庶民に親しまれる食べ物になっていました。

『東海道五十三次細見図会 藤沢』(著者:歌川広重、出典:国立国会図書館デジタルコレクションより)
『東海道五十三次細見図会 藤沢』(著者:歌川広重、出典:国立国会図書館デジタルコレクションより)

 駅弁第一号が、明治18年(1885)に宇都宮駅で販売された竹の皮に包まれたおむすびと沢庵だったと言うのは有名な話ですが、最初の駅弁には諸説あります。

 宇都宮駅で販売され始めたのは明治20年(1887)になってからで、栃木県の小山駅で売り出した翁寿司が最初だとする説、食の都大阪では明治10年(1877)には早くも大坂の梅田駅で売っていた説などです。他にも北海道の銭函駅説や埼玉県の熊谷駅説など、案外ローカルな駅で売り出されています。

海苔はいつから登場した?

 現在コンビニで売られているおむすびでも、ほとんどの物が海苔付きです。海苔は何時からおむすびとセットになったのでしょう。平安中期には海苔はすでに租税の対象となっているなど、古くから食物として利用されてきましたが、現在のような板海苔が登場したのは江戸時代になってからです。

 どうも徳川家康が海苔が好物だったようで、新鮮な海苔を召し上がっていただきたいと、江戸前の海で海苔の養殖が盛んに行なわれました。

 1780年代の天明年間には海苔巻き寿司が流行りましたが、海苔はまだまだ高級品で庶民の食べ物であるおむすびまで回って来ません。おむすびに海苔を巻くようになるのは、第一次世界大戦後に海苔の生産量が激増してからのお話です。

おわりに

 現在ではおむすびはコンビニの主力商品として、中に入れる具材も様々なものが試されています。外国の方にも手軽で安価、腹持ちも良く何より美味しいとして愛されています。ただツナマヨもイクラも松坂牛のしぐれ煮も結構ですが、私は究極の逸品は塩むすびだと思うのです。


【主な参考文献】
  • 横浜市歴史博物館(監修)『おにぎりの文化史』(河出書房新社、2019年)
  • 木村茂光ほか『モノのはじまりを知る事典』(吉川弘文館、2019年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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