紫式部と藤原道長 2人の本当の関係とは?愛人説は本当か?

夜中に紫式部の局の戸をたたく藤原道長(『丹鶴叢書』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
夜中に紫式部の局の戸をたたく藤原道長(『丹鶴叢書』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 『源氏物語』の作者・紫式部は一条天皇の中宮・彰子の世話をする女房、家庭教師役を務めます。彰子は藤原道長の長女で、紫式部が仕えるようになった経緯に道長が深く関わっていると考えられます。また、中宮の父でもある道長はいち早く『源氏物語』が読める第一読者だった可能性もあります。

 紫式部と道長には愛人説もありますが、2人の真の関係はどのようなものだったのでしょうか?

父の任官に関係した道長

 紫式部の前半生は不明な部分も多いのですが、中宮・彰子に仕える以前から藤原道長と知り合っていた可能性があります。

 紫式部の父である藤原為時が式部丞だったのは、紫式部が中宮・彰子に仕える約20年前。そのころから女房として宮中か上級貴族の家に仕えていた可能性が大きいのです。

 なお、「紫式部」は女房名であり、実名ではありません。

漢詩を評価され、越前守に任官

 藤原為時の出世に道長が大きく関わっている逸話が『今昔物語集』にあります。

 長徳2年(996)、道長が右大臣だったころ、漢詩の名人だった為時は国司任官を望む一文に自作の漢詩を添えて一条天皇に上奏しますが、天皇はそれを見る前に人事を決めていました。しかし、道長が為時の申請書類を見つけ、その詩句に感心。越前守任官が決まっていた源国盛を辞退させ、為時を任命しました。

 『今昔物語集』では、為時の漢詩の才能、それを見逃さなかった道長の眼力など美談仕立てになっていますが、『古事談』の同じ話は少しおもむきが違います。辞退させられた源国盛は落ち込んで発病し、家族も落胆。半年後に播磨守に任じられたものの病は癒えず、ついには死んでしまうという悲劇です。

「好き者らしいな」露骨な和歌

 紫式部は夫と死別後の寛弘2年(1005)ごろ、中宮・彰子のもとで宮仕えを始めます。『源氏物語』はその3、4年前から書き始めたとみられ、紫式部の就職は文才が認められた結果と思われ、彰子の父・藤原道長がスカウトした可能性は大いにあります。

 彰子に皇子が生まれれば、その外祖父となりますから、彰子の教育に最も熱心なのは道長です。紫式部スカウトは『源氏物語』の制作支援につながり、第一読者となり得る立場です。『源氏物語』が大長編になったのも紙の供給があればこそ。この点も道長の財力が関係したはずです。

ユーモアで切り返す紫式部

 寛弘5年(1008)の彰子の皇子(後一条天皇)出産を中心とした出来事が書かれた『紫式部日記』に道長の行動も触れられています。その中には紫式部にちょっかいを出す場面もあります。

 藤原道長が紫式部に和歌を贈ります。

「すきものと名にし立てれば見る人の 折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」

(酸っぱくて美味の梅の枝を折らずに素通りする者はいない。ところで『源氏物語』作者のあなたは「好き者」と評判だ。口説かない男はいないだろう)
『紫式部日記』より

 紫式部の返歌はこうです。

「人にまだ折られぬものを誰かこの すきものぞとは口ならしけむ」

(梅はまだ折られておりませんのに誰が酸っぱい実を食べて口を鳴らしたのでしょうか。さて、私は男性に手折られた経験はありませんのに、どなたが「好き者」などと噂を立てていらっしゃるのでしょうか)
『紫式部日記』より

 道長の和歌は「すきもの」に「酸きもの」(酸っぱいもの)と「好き者」(好色)の意味がかかっています。しかも「さぞかし経験豊富なのだろう」という問いかけには「私とどうだ」という誘惑、挑発の含みがあって、要するに露骨なセクハラです。

 女性はこれを承知の上で返さなければなりません。紫式部は既に夫と死別していて、「男性経験がない」というのはもちろんユーモア。道長のセクハラをうまく切り返し、「好き者だなんて、心外ですわ」と強調します。

 男性は熱く迫り、女性は冷たく返すというのは和歌のパターンです。道長の紫式部に対する誘いは案外本気かもしれませんが、紫式部の方は道長を嫌っていたのかといえば、必ずしもそうでもなく、あくまでもパターンの一つとして、迫ってくる男性をいなしたという演技の部分もあります。やり取りを楽しんでいたのです。

夜半に部屋の戸をたたく道長

 『紫式部日記』はこの和歌のやり取りの続きがあります。

 その夜、紫式部の寝ている部屋の戸をたたく人がいます。明記されていませんが、藤原道長です。紫式部は恐ろしさに声も出ず、夜を明かします。朝、和歌が届きます。

「夜もすがら水鶏(くいな)よりけになくなくぞ 真木の戸口に叩きわびつる」

(戸をたたく音に似てクイナ=実際はヒクイナ=はコンコンと鳴くが、私はそれ以上に泣きながら、あなたの戸口を一晩中たたきあぐねていたのですよ)
『紫式部日記』より

 紫式部の返歌です。

「ただならじとばかり叩く水鶏ゆゑ あけてはいかにくやしからまし」

(ただ事ではないという戸のたたき方でしたが、本当はほんの「とばかり」、つかの間のでき心でしょう。そんなクイナですもの。戸を開けたらどんなに後悔したことでしょう)
『紫式部日記』より

道長をきっぱりと拒絶?

 これも道長の誘いを紫式部が拒否した、しかも、戸をたたく音に怯え、関係を持つことを心底恐れていたと解釈できます。つまり、道長と紫式部は愛人関係にはなかったとみてよいのでしょうか?

 早合点です。

 これも、熱烈なラブコールと冷たくあしらう女性を演じ、恋愛ゲームの一つのパターンを楽しみ、日記に「この日、私は殿を振ったのです」と書いているのです。戸をたたく音に声も出さず怯えたなどと書くのも、この日は「好き者」に反論した和歌で男性経験のない乙女を演じる流れだったからです。

 道長と紫式部は、かなり親密な仲だったのではないでしょうか。もちろん、解釈はいろいろありますが。

おわりに

 系図集『尊卑分脈』は紫式部について「御堂関白道長妾」との記述があります。つまり、藤原道長の愛人だったと明記されていますが、裏付ける根拠はありません。後世の人々も『紫式部日記』の記述を「仲が良さそうだ」と解釈したのかもしれません。

 道長は『源氏物語』の作者・紫式部の支援者であった可能性は大きく、現代的な解釈ならそこから恋愛関係に発展となりますが、当人たちはそれほど線引きする意識はなかったかもしれません。道長は紫式部の理解者であり、友人であり、愛人だったと想像するのが最もしっくりきます。


【主な参考文献】
  • 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA)角川ソフィア文庫
  • 山本淳子『紫式部ひとり語り』(KADOKAWA)角川ソフィア文庫
  • 武石彰夫訳『今昔物語集 本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社)講談社学術文庫
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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