いろいろ運んだ日本の鉄路 「黄金列車」も走った!?

 かつて札束列車「マニ30」は現金をギュウ詰めにして運びました。しかし鉄路はほかにもさまざまなものを運んできました。

都市部の屎尿処理問題

 現在、東京都では下水道整備率が100%に達し、水洗トイレも完備して街中でバキュームカーを見かけることは無くなりました。地方の農山村ではまだ下水道が普及していない地域もありますが、諸外国に比べて日本の整備率は高水準と言ってよいでしょう。

 しかし昭和の時代はまだまだそうは行かず、戦前はバキュームカーでさえ珍しかったのです。その頃の屎尿処理はどのように行われていたのでしょうか。

 江戸時代、都市部で排出される屎尿は下肥として、時には利権争いが発生するほどの貴重な資源でした。近郊のお百姓が野菜のおまけつきで買い取りに来たり、河川を利用した屎尿運搬専門の船も運行されます。

 江戸の終わりごろまではこの利用サークルが機能していたのですが、明治・大正・昭和と時代が進み、化学肥料の普及と共にこのサークルが崩れ始め、処理場へ持ち込まれたり海洋投棄が始まります。

 それでも大半の屎尿は下肥として利用するため、リヤカーや大八車・トラック、そして一部の鉄道で農村へ運ばれました。

鉄道が搬送の主役に

 そんな鉄道が屎尿運搬の主役になったのは、太平洋戦争の戦中戦後でした。戦況の悪化で国内のガソリンも不足し、屎尿運搬のトラックまではとても回って来なくなったのです。

 いくら戦況が悪化しようが、屎尿は毎日同じように排出されます。処理に困って、人目を盗んで近くの川へ捨てるものまで出て来ました。農村部でも頼りの肥料が届かなくなり、屎尿の取り合いが始まり、闇取引まで行なわれます。

 これではいかんと昭和18年(1943)に就任した初代東京都長官の大達茂雄(おおだちしげお)は、昭和19年2月に沿線に大きな農村地帯を抱える武蔵野鉄道、現西武鉄道の総帥・堤康次郎に鉄道による屎尿輸送を依頼しました。

 会社のイメージ低下を心配した社内からは強硬な反対論も出ましたが、堤は社会奉仕のためだとして強力なリーダーシップを発揮、反対論を抑え込みます。

西武グループの創業者、堤康次郎(出典:wikipedia)
西武グループの創業者、堤康次郎(出典:wikipedia)

引き受けた西武鉄道と東武鉄道

 西武はさっそく屎尿輸送専用のタンク車115両を造り、沿線に屎尿の貯蔵槽も数十ヶ所設置しました。そして昭和19年(1944)9月から、新宿区・杉並区・中野区の屎尿の輸送を開始します。

 この輸送には同じく大達の依頼を受けた東武鉄道も参加、各社1日あたり180万リットル、合計360万リットルの屎尿を都心から郊外に運び出す手筈を整えます。まず西武新宿線井荻駅の線路横に屎尿集溜槽を設置します。各家庭から集めた屎尿を一旦ここに運び込み溜めて置き、その後横づけにしたタンク列車の天井穴から、ホースで屎尿をタンク内に注ぎ込みます。

 通常の鉄道業務が終わった深夜から早朝にかけて運ぶこととし、輸送目標を達成するため西武では多くの職員が動員されました。それでも人手が足りず、社長の堤自らが現場を手伝だったとか。

 郊外へ到着した列車から貯蔵槽へ移し替え、沿線の農家が貯蔵槽まで取りに来る仕組みでした。貯蔵槽は蓋も覆いも無いコンクリート製でそれが線路の脇に建てられ、列車から貯蔵槽内への屎尿の放出が行われます。この方式では積み下ろしが行われる駅では周囲に耐え難い悪臭が漂いました。

 しかも農家への話が上手く伝わっておらず、屎尿の引き取り手がなかなかやって来ない貯蔵槽もありました。農家側もすでに溜められているのだからそのうち取りに行けば良いと呑気に構えていたようで、挙句に貯蔵槽では屎尿が溢れ出して大騒ぎになったとか。

 これには堤も当てが外れたようで「肥料不足から金肥は取り合いになると思っていたのにいくら声をかけてもなかなか取りに来てもらえない。せっかく汚れ仕事を引き受けたのに」とぼやいています。

沿線住民からは苦情の嵐

 もうひとつ堤をがっかりさせたのは、感謝して貰えると思った沿線住民からの苦情でした。大切な役目を背負った列車でしたが、付けられたあだ名は「黄金列車」や「汚穢電車」です。どうしても悪臭防止や衛生面の問題がクリアできなかったのです。

 運搬専用の線路が引かれたのではありませんから、時間差があるとはいえ、屎尿で満杯になった肥溜めが多数の乗客が利用する同じ線路を走るのです。沿線住民にすればいくら自分たちの困りごとを解決してくれる手段だとしても、目と鼻の先の線路を肥溜め列車が走るのは気持ちの良いものではありません。「事故でも起きたらどうするんだ」です。

 積み込まれるタンク列車にも問題がありました。最初から専用に造られたのではなく、無蓋車を改造して木製のタンクを取りつけたものだったので、使っているうちにあちこちに緩みが生じて来て、少しづつですが中身が漏れ出すようになり、沿線に撒き散らすような走行になってしまいました。

 沿線住民からは当然「臭い」「汚い」との声が出ます。

「黄金列車」の終わり

 結局屎尿列車はそれほど長くは運用されませんでした。まず1950年代に入るとガソリンの統制が緩和・廃止され、わざわざ鉄道で郊外まで運んでもらわなくとも良くなります。肥料も人糞から次第に化学肥料に置き換わり、都市部の下水道整備も進み、昭和28年(1953)ごろには屎尿列車は事実上休止になっていました。

 西武と東武両鉄道会社の他にも、名古屋鉄道や大阪電気軌道、京阪神の私鉄でも屎尿列車は走りました。いずれも地方自治体や農家の要請を受けての運搬で、社内には反対の声もあったと思われます。

おわりに

 国鉄も昭和19年(1944)4月に東京都から要請を受けましたが、これを断っています。国鉄にも屎尿輸送に関する規定はあったようですが、実際に運んだとの公式記録は残っていません。社内事情もあったようですが、トップの判断で動けた私鉄とそうでなかった国鉄でしょうか。


【主な参考文献】
  • 堤康次郎『苦闘三十年』(三康文化研究所/1962年)
  • 小川裕夫『鉄道裏歴史』(文庫ぎんが堂/2018年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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