国鉄・JR運転士の最高の栄誉。それは「お召列車」の運転士

お召列車
お召列車

初めてのお召列車

 国鉄・JR運転士の最高の栄誉、それはお召し列車の運転士に選ばれることです。

 お召列車が初めて運行されたのは明治5年(1872)10月14日で、これは日本の鉄道が開業した初日です。「まず陛下に乗っていただこう」と思ったのかもしれませんが、故障や事故の心配は無かったのでしょうか。

 このお召列車は客車9両、先頭の機関車を含め、10編成で天皇の「玉車」は3号車でした。有栖川宮熾仁親王や太政大臣の三条実美・井上鉄道頭(てつどうのかみ)・山尾工部少輔・橋本式部助・四辻正三位・侍従長2名・侍従8名・侍医2名の計18名が陪乗の栄誉にあずかりました。

 2号車には近衛兵が乗り込んで天皇の警護に務めます。4号車には西郷隆盛や大隈重信・板垣退助が、5号車には山県有朋ら新政府の要人が乗車します。

お召列車の運行は大変だった

 現在ではそんな事はありませんが、当時お召列車の運行は大変でした。まずお召列車三原則と言うものがあり、

  • 他の列車と並走してはならない
  • 他の列車はお召列車を追い抜いてはならない
  • 立体交差を通過する時、お召列車の上の線路を他の列車が走ってはならない

とされました。

 途中すれ違う列車はスピードを25km/h以下に落とし、お召列車側の窓には布を被せて天皇のお姿を直接見てはならぬと定められます。

 先頭の機関車は黒煙を吐いてはならずとされましたが、ちゃんと動いたのでしょうか?汽笛を鳴らすのも発車時と到着時のみ、SLから電車に代わると立体交差時は上の線路に電気を流すのも不敬であるとして禁止されました。

 お召列車の先頭に国旗を掲揚するのはまぁわかりますが、駅のホームに天皇から見える位置にトイレがある場合は白布で覆い隠すなど、実にこまごまとした規則が設けられました。

お召列車の運転士になるには

 こんなお召列車は運転する方も大変です。お召し列車担当の運転士に選ばれるのは運転技術が優れている事はもちろん、高血圧や心臓病などの持病は無いかなどの健康チェックに合格し、近親者に精神病者はいないかまで調べられたと言います。

 勤務態度や人間性に問題がないか、衝撃の無いスムーズな発車や停車操作ができるか、ホームに敷かれた赤絨毯に寸分の狂いもなく停車できるか、などの極めて高い運転技術が求められました。

 昭和時代に入り、天皇の神格化が進むと、運転士は前日に明治神宮に参拝し、大役成功を祈願します。当日は家に注連縄を張り、家族一同沐浴潔斎、本人は朝一番に水垢離を取って家を出ました。お召列車の運転士は新聞に名前が掲載されたので、名誉なことであると共に、大変なプレッシャーがあったと察せられます。

 明治44年(1911)旧門司駅、現在の北九州市門司港駅でお召列車を移動させる際に脱線横転する事故が起きてしまいました。陛下を始め、客車に人は乗っていなかったのですが、事故の責任を受けて鉄道院総裁の原敬は辞任に追い込まれ、門司駅の責任者は自殺しました。

段々と豪華絢爛になる御料車

 最初の頃のお召列車はさほど豪華なものではなかったようです。豪華絢爛なものになって行ったのは、明治10年(1877)、京都・神戸間の開業式に天皇が臨席されることとなり、天皇のための御料車が新たに製造された時からです。

 その車両は3室に区切られていて、中央部に天皇の御座所が設けられ、後ろの部屋にはトイレが造られました。御座所の天井は楓葉菊花の模様をちりばめた絹張り、御座所に通じる扉は刺繍が施された絹張り地と水彩画で飾られ、床にはエジプト模様の黄褐色の絨毯を敷き詰めます。

 これを皮切りに次々と天皇専用車両が作られ、国が造った車両だけでも20両に上ります。私鉄では京阪電気鉄道が明治43年(1910)に、名古屋鉄道の前身・名古屋電気鉄道が大正15年(1926)に製造しています。

御料車両は廃車にするのも一苦労

 戦後、明治前期に製造された老朽化した御料車両は廃車になりますが、それらを保管しておくだけでも大層な物入りでした。そこで昭和34年(1959)に解体されることになりますが、各所から反対の声が上がります。

 特に強く反対を主張したのは、交通博物館(現鉄道博物館)勤務の鷹司平通(たかつかさとしみち)氏でした。鷹司氏はヨーロッパの博物館には貴重な鉄道車両が保存されていると新聞に投稿し、論陣を張ります。鉄道省OBや国鉄職員も反対の声をあげ、国鉄総裁石田礼助に直訴する者まで出る始末です。

 国鉄や政府が駄目なら民間に頼ろうと、皇室と縁の深い横浜こどもの国や近鉄グループが経営する鳥羽のイルカ島海洋遊園地、西武の西武園(現西武園ゆうえんち)などが保存先の候補に上がりました。しかしこれら民間は営利会社であるとの理由で許可は降りません。

 最終的に一部の車両は愛知県犬山市の明治村や、神奈川県川崎市の読売ランド(現よみうりランド)、東京都千代田区の交通博物館などに引き取られました。しかし全ての車両が引き取られたのではなく、解体されたものもありました。

おわりに

 現在ではお召列車に合わせての鉄道ダイヤの変更など、一般への負担を嫌う天皇の御意志で、天皇の行幸でも一般の車両や旅客機・自動車を利用する事の方が多くなりました。


【主な参考文献】
  • 遠山茂樹 編「近代天皇制の展開」(岩波書店、1987年)
  • 小川裕夫「鉄道裏歴史読本」(イースト・プレス、2018年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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