那須氏滅亡の危機…伊達政宗の脅し?で小田原攻めに参陣せず 復活の秘策は那須与一
- 2023/08/22
天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼして全国を統一すると、それに伴って北条氏に従っていた多くの戦国大名や国衆(地域領主)が改易(所領没収)となります。平安、鎌倉時代から続く関東の名門武家も容赦なく取りつぶされ、那須与一以来の名家・那須氏も改易の危機に陥りました。
その事情には奥州の雄・伊達政宗が関わっていました。そして、「那須与一」の登場によって危機を切り抜けます。いったい、どういうことがあったのでしょうか。
その事情には奥州の雄・伊達政宗が関わっていました。そして、「那須与一」の登場によって危機を切り抜けます。いったい、どういうことがあったのでしょうか。
宇都宮仕置で那須氏改易
天下統一を目前にした豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、秀吉からの要請があったにもかかわらず、那須資晴(なす・すけはる、1557~1610年)は病気を理由に小田原城攻めに参陣せず、宇都宮仕置(しおき)で改易処分となりました。名門・那須氏の滅亡です。宇都宮仕置とは、北条氏滅亡で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が関東、東北の武将の存廃を決めた戦後処理です。奥州仕置ともいいます。会津への行き帰りの天正18年(1590)7月26日~8月4日と8月14~15日の計11日間、秀吉は宇都宮に滞在しました。宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)を参詣。宇都宮城に関東、東北の大名、国衆を呼びつけ、それぞれの所領を安堵、加増する一方、北条氏に味方した者、小田原城攻めに遅参した者には所領没収や減封の措置を下しました。
家臣・大田原氏、大関氏は所領安堵
那須氏は改易となりましたが、何と、那須氏の家臣の中には小田原城攻めに参加し、所領を安堵された者もいます。大田原氏、大関氏といった那須氏有力家臣や芦野氏、伊王野氏ら那須氏の分家です。これは、生き残り戦略としてあえて二手に分けたとか、本家と分家、主家と家臣がことさら対立していたとか、そういうことではありません。家臣や分家といえども、ある程度の所領や家来を持ち、その責任があり、家をつぶさないために行動します。戦国時代の関東では、有力家臣が主家の判断とは違った行動を取る場合が結構ありました。
下野国の東北部、那須郡を中心とした地域を支配した那須氏ですが、北部の上那須家、南部の下那須家に分裂した時期もありました。16世紀前半、下那須家の拠点・烏山城(栃木県那須烏山市)を中心に統一されます。ただ、統一後も本家への臣従度合いに温度差はあって、上那須衆と下那須衆に別れ、秀吉の小田原城攻めでは、上那須衆は秀吉寄り、下那須衆は北条氏寄りの傾向がありました。
「出馬は延期」伊達政宗の密書
家臣の大田原氏、大関氏が情勢を的確に判断して所領安堵となった一方、那須資晴が小田原に参陣しなかったのは豊臣秀吉を甘く見て、情勢分析を誤ったのでしょうか。実は那須資晴に宛てた伊達政宗の書状が大きく関係しているようです。那須家所蔵「那須文書」にある「伊達政宗条書」。天正18年(1590)の書状と推定され、日付は3月21日。まさに小田原城攻めが開始され、秀吉自身がまもなく小田原に到着する切羽詰まった時期のものです。
3行だけの箇条書きメモ
伊達政宗の書状にはこう書かれています。覚
一 出馬延引之事、口上条々
一 世上浮沈共ニ尽未来御入魂之事、
一 当備之事、
以上、
大意は以下のようになります。
・出馬は延期する。
・情勢に関わらず協力する。
・今後に備え軍備を整える。
出馬とは小田原への参陣。つまり「小田原へは参陣するな」という政宗の指示です。本文はこれだけ。時候の挨拶とか一切なし。箇条書きメモで、密書、命令書のたぐいです。
年齢は那須資晴が10歳上。那須氏は伊達氏の家臣ではありませんが、伊達政宗は100万石を超える実力者。関東最北端の那須氏を配下同然に見ていたのです。那須資晴としては逆らってどうなるものでもありません。政宗に従うしかないのです。また、那須氏は反北条連合の宇都宮氏や佐竹氏と対立関係にあり、近隣は敵だらけという事情もあります。
那須の使者と会っていた政宗
伊達氏の史料「伊達貞山公治家記録」(仙台藩正史。貞山公は政宗)からも、天正18年(1590)1~3月、伊達政宗が那須氏の使者とたびたび面会していたことが分かります。伊達政宗と那須資晴の密約は既に固まっており、政宗の書状は確認メモの可能性もあります。伊達政宗は徳川家康の動きに期待していたはずです。家康と北条氏が組み、そこに政宗自身が加勢すれば、豊臣秀吉にも対抗できるとの野心があったのかもしれません。しかし、家康がそういった冒険に乗っかるはずもなく、結局、政宗は遅ればせながら5月に小田原参陣。宇都宮仕置では所領半減となる大減封の憂き目を見ました。
「那須与一」名乗り、復活
改易で地方領主としての地位を剝奪された那須氏。当主・那須資晴に従った者の中には、他家に仕官するか、あるいは武士の身分を捨て、村役人のような立場になって農業に従事する「帰農」の道を選ぶ者もいました。ところが、改易直後の天正18年(1590)10月22日、那須資晴の息子・那須資景(なす・すけかげ、1586~1656年)に那須郡福原(栃木県大田原市)など5000石が与えられます。那須氏の復活です。このとき資景は5歳でした。さらに翌天正19年(1591)4月23日には5000石が加増され、計1万石となります。大名として返り咲きです。
少年当主・那須資景
那須氏復活は小田原参陣で勝ち組に残った家臣の大田原氏、大関氏の力が大きいとみられます。大田原晴清は那須資景を伴って豊臣秀吉に謁見、那須氏再興を願い出ます。ポイントは那須資景に送られた豊臣秀吉からの書状の宛名です。天正18年は「藤王丸」。これは資景の幼名です。天正19年の書状は「与一郎」。那須資景は通称として「那須与一」を名乗ったのです。これまで、那須資晴らの通称は当主にふさわしく「太郎」(分裂時は上那須家が「太郎」、下那須家が「五郎」)でした。源平合戦で扇の的を射落とした那須与一の名が400年の時を越えて突然復活したのです。これは家臣団の入れ知恵でしょう。
「那須与一が相手じゃ、取りつぶすわけにもいくまいな」
しゃれが通じたのか、名門コンプレックスを突かれたのか、秀吉は那須氏の存続を認めたのです。江戸時代を通じて那須氏の当主は通称を「与一」としますが、その始まりは改易から復活した少年当主・那須資景だったのです。
おわりに
那須氏は関ヶ原の戦い(1600)では東軍に属し、自領で上杉景勝を牽制。1万4000石の小大名として江戸時代をスタートしました。跡継ぎ不在での改易など2度廃藩しながらも、そのたびに復活し、参勤交代する旗本「交代寄合」として明治維新まで続きました。豊臣秀吉の天下統一のときに発揮したしぶとさ、悪運の強さで江戸時代を生き抜いたのです。【主な参考文献】
- 江田郁夫、山口耕一編『戦乱でみるとちぎの歴史』(下野新聞社)
- 産経新聞社宇都宮支局編『小山評定の群像 関ヶ原を戦った武将たち』(随想舎)
- 『近世大名那須氏の成立―資胤・資晴・資景・資弥の軌跡―』(栃木県大田原市那須与一伝承館企画展図録)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄