「那須与一」扇の的を射抜いた一矢必中 誰もが知る有名な武将の生涯は謎だらけ

那須与一の像(鳥取市渡辺美術館 蔵。wikipediaより)
那須与一の像(鳥取市渡辺美術館 蔵。wikipediaより)
 那須与一(なす の よいち、1166年~?)は源平合戦、屋島の戦いに登場し、扇の的を射抜いた『平家物語』の名場面で知られています。一矢必中(いっしひっちゅう)の神業。源平合戦期で最も有名な武将の一人です。しかし、その実像は全く分かっておらず、生涯のほとんどが謎。その謎の中から浮かび上がる人物像と数々の伝承。知れば知るほど面白い武将です。

十一男だから「与一」、ヒバリの蹴爪狙い猛特訓

 『平家物語』の名場面は後ほど。那須与一の実名は那須宗隆(なす・むねたか)ですが、与一の通称があまりにも浸透しています。父は那須資隆(すけたか)。資隆の十一男が与一宗隆です。十一男だから十余り一で「余一」、「与一」です。

 ちょっと細かい点に触れます。

 「なすのよいち」と「の」を入れて読みますが、那須は苗字で、源(みなもとの)、平(たいらの)のような「姓」とは違います。「の」を入れず、「なす・よいち」でもよいという理屈になります。

 なぜ、「の」を入れて読むのでしょうか。那須与一はもっぱら物語の中で登場します。物語は苗字に「の」をつけて読むことが多く、物語上の読み方が定着して「なすのよいち」と呼ばれているのではないかと考えられます。

 生まれた年は仁安元年(1166)と推定されます。『平家物語』が元暦2年(1185)の屋島の戦いのとき、20歳としているからです。『源平盛衰記』では17歳。18~19歳とする『平家物語』の異本もあり、これらに従うと、生まれた年も当然ずれます。ほかにも久寿2年(1155)生まれなどの異説もあります。

 一方、死去した年も文治5年(1189)、建久元年(1190)、貞永元年(1232)など諸説あります。

祖先は「光る君」藤原道長? 名将・秀郷?

 那須氏は下野国北部、現在の栃木県那須地方を拠点とした武家です。ルーツは名門・藤原北家ですが、藤原道長の子孫であり、また、全く違う系統の藤原秀郷の子孫でもあります。

 どういうことなのでしょうか。

 摂関政治で絶大な権力を持ち、貴族としての栄華を極めた道長は『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人ともされる「光る君」。一方、藤原秀郷は藤原北家の中では早くから地方に移った分家出身で、平将門の乱を制圧し、多くの武家の先祖となる名将です。

 藤原道長の六男に歌人として成功した長家がいて、長家の長男に下野守などを務めた道家(通家)がいます。その道家の子・藤原資家は下野国那須郡に所領を得て土着。須藤貞信と名を改めます。「那須の藤原」で「須藤」とする説もあります。

 この藤原道長の曽孫・須藤貞信が那須氏の祖。須藤貞信の後は資満、資清、資房と続きます。資房には実子がなく、秀郷流藤原氏の一門・山内首藤氏から宗資を養子として迎えます。首藤(すどう)氏から須藤(すどう)氏の養子に入るややこしさですが、ここで秀郷流藤原氏となります。血はつながっていませんが、家系としてはれっきとした藤原秀郷の子孫です。

那須与一の略系図。秀郷流の首藤宗資が須藤資房の養子に入った。
那須与一の略系図。秀郷流の首藤宗資が須藤資房の養子に入った。

 須藤宗資の子が那須資隆。与一の父です。資隆のときに苗字を「那須」としました。なお、系図によって、資房と宗資が同一人物だったり、山内首藤氏からの養子が資通だったり、微妙に違いますが、藤原道長の子孫の家系に秀郷流藤原氏である山内首藤氏の家系が合流したと大ざっぱに捉えることができます。

 この込み入った系図は、藤原道長の子孫・須藤貞信の家系と、源氏の有力家臣・山内首藤氏が那須地域領有をめぐって争った痕跡ではないでしょうか。勝者が一方の家系を乗っ取る形で統一したと推理できます。

 また、与一の遺骨が分骨された栃木県那珂川町の恩田御霊神社に江戸時代奉納の銅製香炉があり、周囲の四面に刻まれた銘文に、与一は藤原秀郷の子孫と明記されています。

「鵯越えの逆落とし」を進言?那須に残る伝説

 那須与一の時代の那須氏居城は神田城(栃木県那珂川町)や高館城(栃木県大田原市)とみられ、与一も神田城で生まれた後、高館城に移ったといわれます。また、那須城(福原城、大田原市)も那須宗隆が築城し、与一が少年時代を過ごしたという伝承があります。

 栃木県那須地方には少年時代や若いときの与一に関するエピソードが数多くあります。

 まずは「法師峠の伝説」。

 少年・与一がヒバリを射落とす練習をしていると、通りがかりの法師が「ヒバリを射殺すとは残酷だ。殺さぬようにされるがよい」と言って手本を示します。落ちてきたヒバリを法師が拾って与一に差し出すと、ヒバリは死んではおらず、再び空に舞い上がります。法師は蹴爪(けづめ)を射ていたのです。与一は猛練習したため、法師峠あたりのヒバリは蹴爪がないという言い伝えです。

 「鵜黒の駒」は与一の愛馬です。高館城近くは牧場に適した自然の要害で、那珂川の淵にはカワウの大群も棲み、鵜黒の柵と呼ばれました。そこで誕生した仔馬は漆黒の毛並みが美しく、そのスピードも飛ぶ鳥のようで「鵜黒の駒」と名付けられました。与一はこの駿馬で出陣したのです。また、与一は那須城近くの急峻な愛宕山で馬が汗をかくほど乗馬を訓練。この山を別名・汗馬山(かんばさん)と呼びました。この伝説では、義経に「鵯越えの逆落とし」を進言したのは乗馬に自信を持つ与一だとされています。

 「義経の腰懸塚」は与一兄弟と源義経が主従関係を誓った場所。治承4年(1180)、奥州から兄・頼朝の下へ駆け付ける途中の義経が白旗城の近くで那須為隆、与一の兄弟と出会いました。白旗城は前九年合戦のとき、奥州に向かう源頼義が源氏の白旗を掲げて軍勢をそろえた故事があり、義経は祖先の先例にならったのです。

 これらの伝説は『平家物語』の与一の活躍から派生した作り話かもしれませんが、ストイックに弓や乗馬を訓練した若武者・与一のイメージが浮かび上がっています。

巧みなカメラワーク、『平家物語』随一の名場面

 那須与一には兄が10人いましたが、源平合戦では兄9人が平家に従います。すぐ上の兄・十郎為隆と与一宗隆が源氏に加勢。源義経の下で戦います。

 那須与一の名場面「扇の的」をみていきましょう。

 元暦2年(1185)2月19日、源平合戦は屋島の戦いを迎えます。『吾妻鏡』だと2月19日ですが、『平家物語』は1日ずれて2月18日、『平家物語』の異本はまた違っていて、『源平盛衰記』は2月20日、長門本『平家物語』は2月21日となっています。

後藤実基の推薦「かけ鳥で三つに二つ射落とす」

 屋島の戦いは夕暮れとなって、しばし休戦。平家の船団から小舟が漕ぎ出てきました。美しい女官の横に棹が立てられ、棹の先に扇が掲げられています。「射てみよ」という挑発です。

※参考:『平家物語絵巻』巻十一より 屋島の戦い「扇の的」(出典:wikipedia)
※参考:『平家物語絵巻』巻十一より 屋島の戦い「扇の的」(出典:wikipedia)

 源義経が後藤実基に尋ねます。後藤実基は平治の乱も戦っているベテラン。自信を持って那須与一を推薦します。

義経:「射ることができる者は味方にいるか」

実基:「上手の者、いくらでもおります。中でも下野国住人、那須太郎資隆の子、与一宗隆こそ、小兵ではありますが、優れた者です」

義経:「証拠はいかに」

実基:「飛ぶ鳥を落とす〈かけ鳥〉で三つに二つは射落とします」

義経:「ならば、与一を召せ」

 百発百中ではありませんが、飛ぶ鳥を3羽中2羽射落とすというのは驚異的な高打率。ヒバリの蹴爪で訓練しただけのことはあります。

 なお、『源平盛衰記』では義経が畠山重忠を指名しますが、重忠は脚気を理由に辞退し、那須兄弟を推薦します。ところが、十郎為隆は一ノ谷の戦いの鵯越えの逆落としで負傷し、手が震えているのでできません。そこで弟の与一が登場するという込み入った筋立てです。

 義経の命令に与一は慎重でした。

与一:「確実にできるとは言えません。もし外したら源氏の恥です。ここは確かな腕を持つ方に命じられるのがよろしいかと思います」

 これに義経が激怒、すごい剣幕です。

義経:「このわしの命令に従わないのなら鎌倉に帰れ」

 与一はやるしかないと観念。外したら腹を切る覚悟で臨みます。もはや単なる余興ではありません。ことの成否は腕前や運ではなく、神仏の加護があるかないかにかかっていて、それだけに真剣です。全軍の士気を左右し、全体の勝敗さえ決めかねない状況です。それが当時の人々の感覚なのです。

視点の移動、スローモーション…感動の余韻も活写

 そしてクライマックス。ここでの『平家物語』の描写は実にドラマチックです。弓を満月のように目いっぱい引き絞る那須与一や70メートル先の海上で上下に揺れる扇の的がクローズアップされ、固唾を飲んで見守る沖の平家、陸の源氏に視点が移動します。巧みなカメラワークに引き込まれるようです。そして、与一が念じるのは日光権現、宇都宮大明神、那須温泉(ゆぜん)大明神。栃木県を代表する日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社、那須温泉神社です。

 与一が鏑矢を放つと、音を響かせて空を切り、次の瞬間に扇が空を舞い、ひともみふたもみと揺れながら着水するといった描写はスローモーションを見るような美しさ。続いて源平の武士たちが船端やえびら(矢箱)をたたく様子が描かれ、興奮とその余韻を感じさせます。映像のような臨場感は空想で書かれた非現実的な描写ではありません。

 「扇の的」は講談でも人気の演目です。扇の日の丸を射抜くと朝敵となり、外しても腕がないとされてしまうという平家の策略……と前ふりが語られますが、これは緊張感を高めるドラマ的演出。『平家物語』では源義経は「真ん中を射よ」と命じ、与一も神々に「真ん中を射させたまえ」と願っています。扇の真ん中を狙ったうえで結果的に扇の要を射切ったのです。

全国5カ所の所領、兄10人を従え那須氏当主に

 系図によりますと、源平合戦後の那須与一は荘園5カ所を拝領しました。丹波・五賀荘(京都府南丹市)、信濃・角豆(ささげ)荘(長野県松本市、塩尻市)、若狭・東宮河原荘(福井県小浜市)、武蔵・大田荘(埼玉県行田市、羽生市)、備中・荏原荘(岡山県井原市)です。10人の兄を差し置いて、勝ち組であり、功績抜群の与一が那須氏のトップに立ちます。父の実名を受け継いで宗隆から資隆に改名したとされています。

家督は兄・五郎へ、さらに短期間に当主リレー

 しかし、与一には子がなく、与一の兄・之隆(五郎、資隆の五男)が跡継ぎになり、資之と改名します。ちょっとややこしいですが、「資」の字が那須氏にとって重要なので家督継承のたびにわざわざ改名するのです。

 なお、与一には弟もいて、その弟・頼資(資隆の十二男)が資之の跡を継ぎます。頼資の後はその長男・光資が継ぎます。建久4年(1193)、那須野の巻き狩りのとき、『吾妻鏡』に名がある「那須太郎光助」は光資です。父・資隆の後継として与一(宗隆、改名し資隆)が那須氏当主となってから、兄・之隆(改名し資之)、弟・頼資、その長男・光資とリレー。文治元年(1185)~建久4年(1193)までの8年間で当主が4人交代する忙しさです。

 これは、源平合戦での活躍から那須氏当主は与一で確定と思ったら、源義経の下で活躍した与一では具合が悪いという展開となり、内部でごたごたがあったのかもしれません。なお、頼資については宇都宮氏から迎えた養子という異説もあります。

兄10人は那須地域内の小領主に

 那須与一の兄10人は那須地域内の所領を分割されて統治。子孫はそれぞれ那須氏の有力家臣となっていきます。

太郎光隆(てるたか)…森田(栃木県那須烏山市)
次郎泰隆(やすたか)…佐久山(栃木県大田原市)
三郎幹隆(もとたか)…芋淵(栃木県那須町)
四郎久隆(ひさたか)…片府田(栃木県大田原市)
五郎之隆(ゆきたか)…福原(栃木県大田原市)…後に那須氏の家督を継ぐ
六郎実隆(さねたか)…滝田(栃木県那須烏山市)
七郎満隆(みつたか)…沢村(栃木県矢板市)
八郎義隆(よしたか)…片田(栃木県大田原市)
九郎朝隆(ともたか)…稗田(栃木県矢板市)
十郎為隆(ためたか)…千本(栃木県茂木町)

このようになっています。

京・伏見で病死?早すぎる最期

 那須与一の最期はよく分かっていませんが、一説には京・伏見で病死し、即成院に埋葬されたといいます。境内には与一の墓もあります。その時期は、数種の系図にそれぞれ文治5年(1189)8月8日、建久元年(1190)10月、貞永元年(1232)9月18日と書かれ、諸説あります。扇の的の活躍から4、5年後、かなり若い年齢での病死は少々不自然です。

 地元には恩田御霊神社(栃木県那珂川町)に与一の遺骨が分骨されたという伝承があります。御霊神社というのは、深い恨みを残して死去した人物を慰め、祀る神社です。やはり、義経に従っていた与一は頼朝から冷遇された可能性があります。あるいは、義経派として追われる立場となり、非業の死を遂げたため御霊神社に祀られているのではないかという推測もできます。

おわりに

 那須与一は『吾妻鏡』に一切登場しないため、実在を疑う見方はありますが、実在の痕跡は地元・栃木県那須地方だけでなく全国各地にあります。系図や墓、那須家に伝わる遺物など具体的痕跡も『平家物語』の影響で創出された可能性があり、決定的な証拠とは言えませんが、確かに生きた足跡が感じられます。与一実在の可能性は高いのです。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 梶原正昭、山下宏明校注『平家物語』(岩波書店)岩波文庫
  • 『那須与一の軌跡―中世那須氏のあゆみ―』(大田原市那須与一伝承館)
  • 『那須与一とその時代』(栃木県立なす風土記の丘資料館)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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