【小倉百人一首】9番・小野小町「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」

小野小町(おののこまち)といえば、日本ではエジプトのクレオパトラ、中国の楊貴妃と並ぶ世界三大美人のひとりとして知られています。ほか2名に比べて世界での認知度はないに等しいですが、日本では小野小町といえば平安美人の代表です。しかし、実際の小町については生没年や生涯についてほとんど伝えられておらず、謎に包まれています。

今回紹介する和歌を含め、『古今和歌集』に入集したいくつかの和歌だけが、小町の歌人としての活躍を知る手がかりになっているのです。

原文と現代語訳

【原文】
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

【現代語訳】
桜の花の色がすっかり色あせてしまったように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。春の長雨が降り続き、私がもの思いにふけっている間に。

歌の解説

花の色は

「花」といって何を表すかは時代によって少し違います。『古今集』以前の奈良~平安時代初期のころは花といえば梅でした。元号が「令和」になったとき、『萬葉集』が典拠であることが話題になりました。「令和」をとったのは「梅花の歌」の序文。やはり「梅」ということで、万葉の時代らしいですね。

花といって桜を指すようになったのは『古今集』ごろから。その時代から現代まで、春の花といえば桜、という日本人の心は受け継がれています。

小町のこの和歌で「花」が何を指すかは明らかになっていません。梅である可能性もありますが、雨で色あせて、ちょっともの思いにふけっている短い間に散ってしまう儚さは桜を連想させます。

また、この和歌で「花の色」は女性の若さや美しさも意味します。

移りにけりな

ここでは「移る」は「褪せる」「変色する」という意味。完了の助動詞「に」と過去の助動詞「けり」、詠嘆の終助詞「な」で、「色あせてしまったなあ」となります。

いたづらに

形容動詞「いたづらなり」の連用形。「むなしい」「何の価値もない」という意味です。

わが身世にふる

「世にふる」の「ふる」は「経る」の意味で、「(雨が)降る」の掛詞になっています。「年月を経る」という意味ですが、「世」には男女の仲という意味もあり、「もの思い」=「恋に関すること」という解釈もできます。

ながめせしまに

「ながめ(眺め)」はぼんやりともの思いにふけるという意味。「長雨」の掛詞になっていて、「長雨が降る間に」という意味にもなります。

作者・小野小町

小野小町は小野氏の出身であることはわかっていますが、その生涯についてはほとんど伝えられていません。出羽国の郡司・小野良真(おののよしざね)の娘説のほか、良真の父とされる小野篁(おののたかむら。11番歌作者)の孫、藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)の娘という説もありますが、多くはのちの時代になってから出てきた説で、根拠に乏しいものです。

「小町」という名はもちろん本名ではありません。これは天皇の食事の世話などをする女官「采女(うねめ)※美人が選ばれた」の総称であるとか、宮中の局町に住む女房だったとか、複数の説がありますがこれもはっきりしません。

また仁明天皇・文徳天皇のころの更衣であったという説もあります。「更衣(こうい)」といえば『源氏物語』の桐壺更衣をイメージするとわかりやすいでしょう。もともと天皇の衣がえに奉仕する女官でしたが、平安初期ごろには天皇の后妃になっています。后妃といっても地位の低い妃です。

実際、仁明天皇の更衣に小野吉子という人がいました。小町の和歌から、彼女が活躍したのは仁明・文徳・清和・陽成朝ごろと考えられているので、時期も合います。

小町は『古今集』仮名序に取り上げられた歌人、つまり六歌仙のひとり。紀貫之は小町を「古の衣通姫(そとおりひめ)の流なり」としています。

衣通姫とは、『日本書紀』では允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の弟姫、『古事記』では同皇后の子・軽大郎女(かるのおおいらつめ)とされています。美しさが衣を通って輝いていたというのが名前の由来だとか。

貫之は続けて「あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし」と、「しみじみと身に染みる歌だが強さがない。例えるなら、病に悩む高貴な女性に似ている。強くないのは女の歌だからだろう」と評しています。

美女・小野小町のイメージ

同じ六歌仙の在原業平(ありわらのなりひら)も美男として有名で、平安時代の美男といえば業平、美女といえば小町でした。業平が『伊勢物語』で伝説化されたように、小町もまたのちの時代にさまざまな伝説が作られました。小町を題材とする能楽や浄瑠璃、歌舞伎作品は「小町物(こまちもの)」と呼ばれ、長く親しまれてきました。

ただ、小町についてはほとんど伝えられていない分、伝説がひとり歩きした感があります。小町の和歌の中には同時代の男性歌人との贈答歌も多く、その情熱的な恋のやりとりから、小町自身も恋多き色好みな女、というイメージが生まれ、いろんな伝説が作られました。

中でも有名なのが深草少将の百夜通いでしょう。自分に恋をした深草少将に、小町は「私のもとへ百夜通い続けることができたら、百夜目にお会いします」と言います。深草少将はそのとおり、雨の日も雪の日も通い続けますが、いよいよ百夜というところで思いを遂げる前に亡くなってしまいます。

この逸話はもちろん創作ですが、深草少将にはモデルがいるといわれています(六歌仙の僧正遍照や大納言義平の子・義宣)。

このように言い寄る男を袖にする小町像が作られたためか、晩年は落ちぶれて、いい死に方をしなかった、という伝承も多いのです。

たとえば、業平と小町に関するこんなエピソードがあります。

業平が東国を旅している時、野原から「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ……」という歌が聞こえてきました。何事かとよく見てみると、野原に転がっている髑髏の目のくぼみからススキが生えていて、風でススキが揺れるたびに「あなめ、あなめ(目が痛い、目が痛い)」と嘆いているのです。業平は「小野とはいはじ薄(すすき)生ひけり」と下の句をつけてやりました(『古事談』『無名草子』など)。

この逸話が紹介されている『古事談』や『無名草子』は鎌倉時代初期の書物。小町の死後300年ごろには「落ちぶれた小町像」は定着していたようです。

また、死んで朽ちていく小町を描いた「小野小町九相図(くそうず)」という作品もあり、より生々しく、むごく描写されています。九相図は僧侶の色欲を絶つための仏教絵画なので、美女とされた小町が題材になるのも当然ですが、髑髏の逸話があるせいで余計にむなしく感じられます。

おわりに

桜はすぐ散って儚いから美しい、人の若さ・美しさも永遠ではないから美しい。儚さが小野小町の美しさをより引き立てて見せてくれる、伝説の美女・小野小町らしい和歌です。人々はこの歌から容色の衰えた小町を想像し、そこから老いさらばえてむなしい最期を迎えた逸話が生まれたのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『日本国語大辞典』(小学館)
  • 『小学館 全文全訳古語辞典』(小学館)
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 吉海直人『読んで楽しむ百人一首』(角川書店、2017年)
  • 冷泉貴実子監修・(財)小倉百人一首文化財団協力『もっと知りたい 京都小倉百人一首』(京都新聞出版センター、2006年)
  • 目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫、2005年)
  • 校注・訳:樋口芳麻呂、久保木哲夫『日本古典文学全集40 松浦宮物語/無名草子』(小学館、1999年)
  • 校注・訳:小沢正夫・松田成穂『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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