【小倉百人一首解説】5番・猿丸大夫「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」
- 2022/11/10
「紅葉踏み分け鳴く鹿の……」という表現は、花札の「鹿に紅葉」を連想させ、深い山の中で雌を恋しがって鳴く雄鹿の姿が目に浮かぶようです。『小倉百人一首』で猿丸大夫(さるまるだゆう/たいふ。太夫とも)作とされるこの和歌はあまりにも有名ですが、その一方で作者・猿丸大夫に関してはほとんど伝えられておらず、現在は伝承が残るのみです。詳しく見ていきましょう。
原文と現代語訳
【原文】
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき」
【現代語訳】
「人里離れた奥深い山で、散り積もった紅葉を踏み分けながら、雌鹿を恋しがって鳴く雄鹿の声を聞く時こそ、秋は悲しい季節だととりわけ感じられることだ。」
歌の解説
奥山に
人里離れた深い山を指します。紅葉踏み分け
落葉した紅葉が敷きつめられたところを踏み分けていく。この部分は古くから「踏み分けたのは人か鹿か」という議論があります。和歌を詠んだ人が深い山に入った先で雄鹿の声を聞いたのか、奥山にいる雄鹿の鳴く声だけを遠くの里から聞いたのか。現在は鹿であると考えられています。鳴く鹿の
秋と鹿といえば、古くからセットで取り上げられます。鹿が鳴くのは必ずしも秋というわけではなく朝夕に鳴くものですが、秋は特別雄鹿が雌鹿を呼ぶ高い鳴き声をよく発します。これは秋に発情期を迎える雄鹿の求愛の声(あるいは別の雄に対して縄張りを主張する声)です。この和歌が詠まれたころにはこの鳴き声が雌を求める声だと理解されていて、それが離れたところにいる恋しい人を思う気持ちに重ねられました。
声聞く時ぞ
「ぞ」は強意の係助詞。続く文末の「悲しき」が連体形で、係り結びになっています。秋は悲しき
「は」も係助詞で、「ほかに比べてとりわけ」という強調の意味になります。作者・猿丸大夫
冒頭でも紹介したとおり、猿丸大夫がどのような人物であったか伝えるものはほとんど残っていません。生没年未詳で、何をしていた人なのかすらわかっていない、伝説的な歌人です。平安時代前期、延喜5(905)年に成立した最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の紀淑望(きのよしもち)による真名序(漢文で書かれた序文)に猿丸大夫の名が登場するので、それ以前の歌人であったと想像されます。
平安中期の歌人・藤原公任(ふじわらのきんとう)の集撰歌『三十六人撰』により、三十六歌仙のひとりに数えられています。
詠み人知らずの和歌がなぜ猿丸大夫の和歌に?
実は「奥山に……」のこの和歌、猿丸大夫が詠んだものではありません。『小倉百人一首』にとられた和歌のうちいくつか同様のものがありますね。この和歌の初出は『寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおおんとききさいのみやうたあわせ)』といって、宇多天皇(うだてんのう)の母后・班子女王(はんし)が主催した歌合です(主催は宇多天皇とする説もある)。歌合は寛平5(893)年9月以前の成立なので、和歌の成立も同じころとみていいでしょう。では猿丸大夫もその時代の人なのでは、と思うかもしれませんが、そうとも言い切れません。『寛平御時后宮歌合』の記録を見るとこの和歌の作者は記されていない、つまり作者不明の歌なのです。
これは『古今集』でも同様です。秋歌上の中にあるこの和歌も、題は「是貞の親王の家の歌合の歌」となっており、「読人しらず」です。
『古今集』真名序には「大友黒主が歌は、古の猿丸大夫が次なり(大友黒主の歌は昔の猿丸大夫の系列に属する)」とあり、真名序執筆の時点ですでに「古(いにしえ)」の人と捉えられていたことがわかります。もし『寛平御時后宮歌合』の歌が本当に猿丸大夫のものだったとしても『古今集』成立時点ではまあ過去の人、と考えられなくもありませんが、「古(いにしえ)」と表現するほど昔ではなく、ほんの十数年にすぎません。猿丸大夫が本当にそのころの人であったなら、『古今集』でも同時代の歌人として捉えられていたはずです。
では、いつからこの歌の作者が猿丸大夫になったのかというと、上でも紹介した平安中期の歌人・藤原公任です。公任は『三十六人撰』に猿丸大夫の和歌として3首採用しています。ほかの2首も「奥山に……」と同様に山中の隠遁生活から詠まれたらしい和歌で、どちらも『古今集』で詠み人知らずとされているものです。
公任が本来誰のものかもわからないこれらの和歌を猿丸大夫作としたのは、このころにはすでに『猿丸大夫集』という古歌集が成立していたからでしょう。『猿丸大夫集』といっても一般的な私家集と違い、後世の人が好き勝手に編集したらしい歌集で、詠み人知らずの和歌や『萬葉集』の和歌などが含まれます。もちろん、『猿丸大夫集』含め猿丸大夫の和歌と断定できる作品はひとつもありません。
『小倉百人一首』の撰者・藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)が公任よりも後の歌人だからといって、この和歌がもともと猿丸大夫の作でもなんでもないことは知っていたはずです。定家は『古今和歌集』や『寛平御時后宮歌合』を書写しているので、詠み人知らずの和歌であることは認識していたと思われます。
それでもあえて百人一首に採用したのは、採用したいくらいこの和歌自体が魅力的だったからなのではないでしょうか。公任も猿丸大夫作と言っているし、なんなら定家の父・藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい/としなり)も『古三十六人歌合』で秀歌だと言っている。先人が猿丸大夫作としているのをいいことに入集させたのでしょう。
おわりに
こうして、詠み人知らずの和歌が定家や公任によって猿丸大夫の和歌になってしまいました。撰者の意図によって変えられたのは、実は作者だけではありません。もともと「奥山に……」の和歌は『古今集』の部立が「秋上」であるように、秋といっても早い時季を詠んだ和歌であったと思われます。また、同じ和歌が菅原道真撰『新撰万葉集』に採られていますが、その中では「紅葉」が「黄葉」と表記されていました。これは道真が漢籍の影響を受けていたためとも考えられますが、『古今集』の和歌の並びを見るとこの和歌の後に「萩」の和歌が続くため、ここでは「紅葉(かえで)」ではなく「萩」である、とする見方もあります(江戸時代の国学者・契沖/けいちゅう)。ただ、続く和歌は萩の花を詠んだもの。萩は秋のはじめに花をつける植物なので、それを詠んだ和歌の直前に黄葉した萩を持ってくるのは不自然です。
真相はわかりませんが、定家は『古今集』を書写する際もあえて「紅葉」表記にしています。「もみじといえば紅葉だ」と思ったのか、「紅葉のほうがふさわしい」と思ったのかはわかりませんが、この改変によって私たちはこの和歌に触れれば真っ赤に染まった山中で鳴く鹿を思い浮かべるようになったのかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 『日本国語大辞典』(小学館)
- 『小学館 全文全訳古語辞典』(小学館)
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 吉海直人『読んで楽しむ百人一首』(角川書店、2017年)
- 冷泉貴実子監修・(財)小倉百人一首文化財団協力『もっと知りたい 京都小倉百人一首』(京都新聞出版センター、2006年)
- 目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫、2005年)
- 校注・訳:小沢正夫・松田成穂『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』(小学館、1994年)
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