【小倉百人一首解説】2番・持統天皇「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」

小倉百人一首2番・持統天皇のイラスト
小倉百人一首2番・持統天皇のイラスト
『小倉百人一首』2番は、持統天皇(じとうてんのう)の和歌です。『小倉百人一首』は男性の和歌に比べて女性の和歌が少なく、全部で21首。そのうち女性天皇は持統天皇ただひとりです。それでは、持統天皇の和歌を詳しく見ていきましょう。

原文と現代語訳

【原文】
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」

【現代語訳】
「春が過ぎて夏が来たらしい。道理で、夏になると白い衣を干すといわれている天の香具山に、真っ白な衣が干してあることよ」

歌の解説

夏来にけらし

「来(き)にけらし」の「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けらし」は「けるらし」が短くなった形で、過去を回想する「ける」と推定の助動詞「らし」で構成されていて、現代語訳すると「~らしい」となります。この和歌はここで一度文が区切られる二句切れです。

白妙の

「白妙/白栲(しろたへ)」は梶の木の皮の繊維で織られた白い布のことで、その白さから雲や雪、霞などを例えるのに用いられたりします。「白妙の」で「衣」「袖」「たもと」「たすき」「帯」「天羽衣」などに掛かる枕詞になります。

衣ほすてふ

「てふ」は「といふ」が短くなった形で、「てふ」で「ちょう」と読みます。「夏に衣を干すという」という意味になります。

天の香具山

「天(あま)の香具山(かぐやま)」は奈良県橿原(かしはら)市にある山のこと。高天原(たかまがはら)の山という意味もあります。つまり日本神話に登場する天照大神をはじめとする多くの神々が住んでいたという天上の世界にあった山ということです。実際、橿原市の天の香具山には岩戸伝説などの言い伝えがあるようで、神話と無関係でもないようです。
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春から夏に移り変わる季節、山の鮮やかな緑と、真っ白な衣のコントラストが目に浮かぶようなすがすがしい和歌です。和歌の中にはありませんが、きっとよく晴れた日の空なんだろう、と想像を膨らませてしまいます。

ところで、上では「白妙の」を枕詞であると紹介しました。枕詞は通常訳さないことが多いものですが、この和歌の解釈では「白い衣」と表現しています。単純に「衣」を導くための枕詞であれば「白い」と訳す必要はありませんが、この和歌では夏の緑と衣の白、鮮やかな色彩描写が重要なので、単純に枕詞と捉えないほうがいいかもしれません。

作者・持統天皇

持統天皇は天智天皇(てんぢ/てんちてんのう)と蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の娘の遠智娘 (おちのいらつめ)との間に、ちょうど大化の改新(乙巳の変)の始まりの大化元(645)年に誕生しました。

最初は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいました。『小倉百人一首』に撰ばれた和歌のさわやかさとは異なり、持統天皇の生涯はかなり波乱に満ちていました。

幼少期には母方の祖父・蘇我倉山田石川麻呂が讒言によって自害に追い込まれました。13歳の時に叔父の大海人皇子(おおあまのおうじ/みこ)の后になった後は、弟の大友皇子(おおとものおうじ/みこ)と夫・大海人皇子が皇位をめぐって争い、夫が弟を討つのを間近で見ていました。

大海人皇子が天武天皇(てんむてんのう)になると、持統天皇は夫を助けて政治を補佐しました。天武天皇は律令制度を取り入れて中央集権化を進め、妻の持統天皇もそれに関わって功績が大きかったといわれています。

天武天皇が朱鳥元(686)年に亡くなると、持統天皇は子で皇太子の草壁皇子(くさかべのおうじ/みこ)を補佐する立場になります。本来は草壁皇子が即位するところですが、まだ幼かったこともあり、持統天皇が即位することになりました。この皇位継承に関連して、草壁皇子の異母弟の大津皇子(おおつのみこ)が謀反の罪で殺されたとされています。大津皇子を殺させたのは持統天皇であったとか。

大津皇子の母・大田皇女(おおたのおうじょ)は持統天皇の同母姉にあたるので、持統天皇にとっても近しい存在なのですが、大田皇女が早死にしなければ彼女が皇后になっていたかもしれないことを考えると、大津皇子の存在に不安を感じたのかもしれません。

『万葉集』とどっちが好み?

この和歌は、『新古今和歌集』から撰ばれたと思われますが、実は『万葉集』にもあります。

「春過ぎて夏来(きた)るらし白たへの衣干したり天(あめ)の香具山」
(『萬葉集』巻第一・雑歌)

ちがうのは、「来るらし」と「衣干したり」と「天」(読み方)です。和歌の意味はほとんど同じですが、「来にけらし」と「来るらし」では、「来たらしい」と「来るらしい」になり、ちょっと意味が変わります。そして「ほすてふ」と「干したり」、『小倉百人一首』では伝聞になっていますが、『萬葉集』では「干している」つまり現在進行形で干されているのが確認できる、という違いがあります。

きっとこの歌が詠まれた時代にはそういう風習があったのでしょうが、時代が変わっていくにつれて「昔は干したらしい」という認識に変わっていったのでしょう。

本当は『万葉集』が正しい、『小倉百人一首』の方は改悪だ、といわれることもありますが、こういう違いがあると和歌が伝えられていった時間の流れをも感じられていいのではないでしょうか。

おわりに

『小倉百人一首』の和歌は、だいたい歌人が時代順に並んでいます。

そう考えると持統天皇の和歌が天智天皇の次にくるのは当然のように感じられますが、それ以前に、撰んだ藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)には「天智天皇の次なら持統天皇の歌」という風に、時代順のほかにこだわりがあったのではないか、と考えられます。

定家は『小倉百人一首』とよく似た『百人秀歌』という歌集を編集しています。これはほとんどの歌が『小倉百人一首』と同じで、少し違うのは歌の順番。『百人秀歌』は歌合(うたあわせ。歌人を左右2組に分けて優劣を争う)と同じように二首が対になっているのです。天智天皇と持統天皇の組み合わせはどちらも同じ。天智天皇と持統天皇は親子であり、どちらも天皇。そして男女の違い、秋の和歌と夏の和歌、暗い和歌・明るい和歌という対になる要素がいくつもあります。

『小倉百人一首』すべての和歌が前後ペアになっているかというと、『百人秀歌』とは違って時代順に並べることを重視されているようなのでそういうわけでもなさそうですが、よく観察してみるとこれはペアなのでは、と気付くものがあるはずです。

ちなみに、最後を締めくくる99番・100番の後鳥羽院と順徳天皇も親子です。なぜこういう並びなのかを考えてみるのも面白い鑑賞方法かもしれません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 吉海直人『読んで楽しむ百人一首』(角川書店、2017年)
  • 冷泉貴実子監修・(財)小倉百人一首文化財団協力『もっと知りたい 京都小倉百人一首』(京都新聞出版センター、2006年)
  • 目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫、2005年)
  • 校注・訳:小嶋憲之、木下正俊、東野治之『新編日本古典文学全集6 萬葉集(1)』(小学館、1994年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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