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高杉晋作の「功山寺決起」が起死回生の逆転劇と言われる理由は
- 2023/04/24
幕末動乱期の元治元年(1864)12月、下関市長府にある功山寺で、高杉晋作は約80人の同志たちとともに決起しました。当面の戦う相手は長州藩の保守派(俗論派)ですが、その先に幕府という巨大な存在を見据えていたのです。
後の世に、起死回生の逆転劇とまで言われた「功山寺決起」とは、どんな戦いだったのでしょうか。
後の世に、起死回生の逆転劇とまで言われた「功山寺決起」とは、どんな戦いだったのでしょうか。
内憂外患に苦しむ長州藩
尊王攘夷派の中心的存在だった長州藩は文久3年(1863)、攘夷実行に踏み切り、関門海峡を通過する外国船に対して砲撃を行います。当時、京都の治安維持を担っていた会津藩は、長州藩の突出ぶりに危機感を持ちました。会津藩は薩摩藩と手を組んで、長州藩を京から締め出すことを策し、八月十八日の政変を起こします。政変により、攘夷派の公家と長州藩士は京を追われ、長州藩内に会津、薩摩への憎しみだけでなく、幕府を倒そうという機運が培われていきました。
翌文久4年(1864)、覇権奪還を目論む過激な藩士たちが、京への進軍を開始します。その勢力は、藩の家老まで巻き込み、京を守る会津、薩摩などとの軍事衝突(禁門の変)へとエスカレート。長州藩は多くの戦死者を出す大打撃を受け、敗北したのです。
同じころ、砲撃された外国船の報復のため、諸外国の連合艦隊が関門海峡にやってきて、長州藩の砲台を徹底的に破壊します。内憂外患によって四面楚歌の状態となった長州藩は、幕府に恭順の姿勢を示す保守派が権力を握るようになっていきます。
高杉晋作とは何者か
ここで、高杉晋作について触れておきましょう。晋作は天保10年(1839)に長州藩家臣でも名門と呼ばれる家に生まれました。藩校の明倫館で学びますが、それに飽き足らず、吉田松陰が主宰する松下村塾の門をたたきました。松下村塾には下級武士や農民出身者が多く、晋作は「人間の力量は身分で区別するものではない」ことを学び取っていたのでしょう。そのことが、やがて「奇兵隊」という身分を超えた戦闘集団を生み出す発想の元になったと思われます。
奇兵隊の初代総督から藩の要職に就いていた晋作は、京への進軍を目論む過激な藩士たちの説得にあたりますが、進軍を止められませんでした。説得のためとはいえ、脱藩の罪を犯した晋作は捕らえられ、野山獄に入れられてしまいます。
やがて罪を許された晋作は、外国との和平交渉役に抜擢され、停戦合意にこぎつけます。しかし藩内では、保守派による対抗勢力(正義派)への苛烈な弾圧が行われるようになり、晋作も身の危険を感じ、九州へと逃れたのです。
たった80人での功山寺決起
保守派が実権を握った長州藩は、禁門の変の責任者だった家老を処刑するだけにとどまらず、正義派の藩士たちを次々と捕らえ処断していきます。さらに、幕府の顔色をうかがうかのように、奇兵隊など諸隊に対して解散命令を下しました。「このままでは、いずれ長州藩は幕府によって滅ぼされる」と思った晋作は、密かに九州から戻り、下関で諸隊に決起を促します。しかし、ほとんどの指揮官たちは「無謀な戦いには加われない」と、晋作の呼びかけに応じようとはしません。
攘夷派の公家が滞在する功山寺で待つ晋作のもとに、伊藤博文や石川小五郎が率いる隊士たちが集まりますが、その数はわずか80人ほどだったと言われています。それでも晋作は「長州男児の腕前お目にかけ申すべし」と宣言し、挙兵に踏み切るのです。
藩の奉行所攻撃を皮切りに、決起軍は次々と軍事拠点を制圧していきます。その勢いに、諸隊も続々と参戦を決め、小さな決起はいつの間にか大きなクーデターへと発展。そして、約2カ月の内戦の末、ついに保守派を打ち破り、正義派が政権を奪還したのでした。
おわりに
クーデターにより長州藩の藩論は「倒幕」へと一本化され、幕府との戦いに向けて軍事力を強化していきます。第2次長州征伐では四方から攻め入る幕府軍をことごとく打ち破り、やがて倒幕という最終目的を果たすことになります。もしも、功山寺決起という起死回生の逆転劇がなかったのなら、長州藩の運命だけではなく、幕末の歴史そのものが違っていたかもしれません。だからこそ高杉晋作をはじめ、80人の隊士たちの決死の覚悟は、いつまでも語り継がれているのです。
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