【茨城県】水戸城の歴史 まったく石垣が存在しない徳川御三家の城
- 2023/11/01
水戸城といえば、徳川御三家のひとつ「水戸徳川家」の城として知られています。初代・徳川頼房以来、光圀や斉昭といった君主を輩出し、およそ260年にわたって徳川将軍家を支え続けてきました。
しかし水戸徳川家の居城となる以前、水戸城は400年もの長い歴史を紡いできたことを御存知でしょうか?鎌倉御家人の館としてスタートし、やがて戦乱の時代を経て近世城郭へ変貌を遂げた水戸城の歴史を、わかりやすくご紹介したいと思います。
しかし水戸徳川家の居城となる以前、水戸城は400年もの長い歴史を紡いできたことを御存知でしょうか?鎌倉御家人の館としてスタートし、やがて戦乱の時代を経て近世城郭へ変貌を遂げた水戸城の歴史を、わかりやすくご紹介したいと思います。
馬場(大掾)氏の居館としてスタートする
水戸城は、那珂川と桜川に挟まれた洪積台地の突端に築かれた城ですが、この地は常陸国の中原に位置し、古くから奥州へ向かう陸上交通の要衝になっていました。また、那珂川から那珂湊を結ぶ水運の要地でもあり、海や川の出入口を「みなと」「みと」と呼ぶことから、水戸と呼ばれるようになったようです。
さて、鎌倉時代初期のこと、常陸平氏の流れを汲む馬場資幹がこの地に初めて城を築きました。現在の本丸(水戸一高付近)があった場所に館を構えたとされ、やがて源頼朝の信任を得た資幹は、常陸大掾職(※大掾は国司の官名のひとつ)を継承して常陸平氏の惣領となっています。
その後、馬場大掾氏(常陸大掾職に任ぜられたときから称されたとされる)は200年にわたって水戸一帯を支配下に収めました。ただし水戸城の呼称はまだ用いられず、便宜的に馬場館と呼ばれています。
平成18年(2006)に水戸市教育委員会が実施した発掘調査によると、13世紀頃の青磁器が出土していることから、そこに恒常的な居住空間があったと想像できるのです。
江戸氏による水戸支配
南北朝期になると全国的な争乱の時代を迎えますが、もちろん水戸周辺地域にも戦乱は波及してきました。馬場大掾氏が南朝方として活動するいっぽう、佐竹氏は北朝方として所領を拡大。14世紀中頃には佐竹の勢力によって、水戸一帯は南北から圧迫を受けるようになります。ちょうどこの頃、下江戸(現在の那珂市周辺)の土豪だった那珂通泰の子・通高が江戸氏を称し、佐竹氏の配下となっていました。
通高は南朝方の難台山城を攻めるも戦死しますが、子の通景が水戸に近い河和田一帯に所領を与えられています。ここから江戸氏は水戸周辺への進出を目指していくのですが、こうした動きに警戒感を抱いた大掾満幹は、応永7年(1400)に馬場館の修築を行い、さらなる防備を固めています。
応永23年(1416)、上杉禅秀の乱で佐竹氏に敗れた馬場大掾氏は、ますます衰退の一途を辿りますが、ついに命運の尽きる時がやって来ました。
応永33年(1426)、大掾満幹が本家の府中城へ向かった隙を突き、江戸通房が馬場館へ奇襲を掛けてきたのです。城を乗っ取られたことで、水戸の支配権は大掾氏から江戸氏へ移りました。
その後、馬場館は水戸城と改称され、江戸氏が160年にわたって水戸一帯を支配するのですが、やはり城の乗っ取り事件は大きな禍根を残したようです。
府中へ追いやられた大掾氏とは険悪な関係となり、さらに大勢力となった佐竹氏がいたことで、江戸氏は独立した戦国大名にはなり得ませんでした。
さて、江戸氏が水戸を支配した時代、水戸城は大規模な改修を受けています。『新編常陸国誌』によれば、本丸を「内城」とするいっぽう、新たに二の丸を設けて「宿城」と呼び、内城は江戸氏の居城として、宿城には一門・重臣の屋敷が立ち並び、市も立ったといいます。
水戸市教育委員会による発掘調査では、江戸氏時代の大規模な遺構や遺物などが見つかったとか。
佐竹氏の居城となる
戦国期における江戸氏の動向は活発だったようです。時に主家である佐竹氏と領有権をめぐって争い、常陸南部では大掾氏や小田氏らと抗争を繰り広げました。ところが豊臣秀吉による小田原攻めは、常陸の情勢に大きな影響を及ぼすのです。天正18年(1590)、佐竹義宣は秀吉のもとへ参陣。臣従の態度を示したことで常陸・下野の所領21万石を安堵されました。いっぽう江戸氏や大掾氏、小田氏らは参陣を怠ったことで、本領安堵の許しは得られなかったようです。
秀吉から常陸支配のお墨付きを得た義宣は、さっそく江戸重通に水戸城引き渡しを要求しました。ところが重通がこれを拒否したことで、交渉は無理と見た義宣は太田城から出陣。水戸城へ三方向から急襲を仕掛けます。
支えきれなくなった重通は脱出を図り、結城を目指して敗走していきました。水戸城はたった一日で落城し、ここに江戸氏の水戸支配は終焉を迎えたのです。
天正19年(1591)年、それまで本拠としていた太田城が北へ寄り過ぎていたことから、義宣は居城を水戸城へ移しました。そして文禄2年(1593)には、城下町の整備を含む大規模な普請を実施しています。
まず江戸氏時代の内城を修築して本丸と定め、宿城に居館を構えて二の丸としました。さらに三の丸や浄光寺曲輪を整備させ、城下には家臣団屋敷や町人町を設けています。こうした普請によって、水戸城は近世城郭として生まれ変わりました。
また、水戸城を特徴づける3本の豪壮な堀切は佐竹氏時代に構築され、それぞれの堀幅は30~40メートルの広さを誇ります。現在の堀底には県道232号線とJR水郡線が走っており、その巨大さをうかがい知ることができるでしょう。
ちなみに本丸には薬医門が現存していますが、これは水戸城に唯一残された佐竹氏時代の建造物となっています。
水戸徳川家の居城として面目を一新
慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いが勃発した際、義宣は東軍に属しながら、積極的な協力をしませんでした。やがて諸大名への賞罰が一段落し、佐竹氏に対する処遇も変わらないと思った矢先、突如として秋田への転封を命じられたのです。佐竹氏に代わって水戸へ移ったのは徳川家康の五男・武田信吉ですが、慶長8年(1603)に21歳で死去しました。さらに十男・頼宣が水戸城主となるも、城へ入ることなく駿府で育てられ、慶長14年(1609)には駿河・遠江・三河の太守として移封となっています。
そして同年、新たに水戸へ入ったのが十一男の頼房でした。この頼房が初代となり、水戸徳川家は11代にわたって続くことになります。
ちなみに「徳川御三家」と称されるのは、5代将軍・徳川綱吉の頃です。もし将軍に後嗣が絶えた場合、尾張家もしくは紀州家から養子を出すことになっており、水戸家は除外とされていました。なぜなら水戸は江戸に近いことから、歴代当主は将軍を補佐するべく、江戸定府が定められていたからです。水戸黄門こと徳川光圀が、天下の副将軍として世間から認知されたのも、そんな事情が背景にあったのでしょう。
そして水戸城は頼房によって大改修が加えられます。寛永2年(1625)から足掛け13年にわたって行われ、この時に城の中枢部が西側へ移されています。それまでの二の丸が本丸とされ、三の丸を二の丸、旧本丸が東二の丸といったふうに造り替えられました。また惣堀で城下町を包括したことで、巨大な総構(そうがまえ)が生まれています。その規模は東西3.5キロ、南北1.2キロに及んだほど。
ただし徳川御三家の城にしては、石垣が一切用いられていません。なぜなら城の中枢部は台地、つまり断崖上にあるため、石垣を築く必要がなかったのでしょう。また藩主が江戸に在府していることから、あえて築かなかったという説もあります。そういった意味では、水戸城は戦国時代の気風を残しつつ、国内最大規模を誇る土造りの城だといえるでしょう。
ちなみに水戸城には、近世城郭に見られるような豪壮な天守は建てられず、櫓の数も少なく、奥御殿を除けば建物もかなり質素だったとか。
ただし、二の丸にあった御三階櫓(三階物見)が天守の代用を果たしたようで、かなり特異な構造だったといいます。まず一重部分の下半分は海鼠壁で覆われており、これは石垣を築かないことによる風雨除けのためでした。
また一重部分の内部は三階構造になっており、全国でも水戸城にしかない造りだったようです。さらに四階・五階には外開きの扉が備えられていて、その特徴から天守の格式を持つ建築様式だと判明しています。
正式な天守は築かれなかったものの、やはり御三家という特別の配慮があったのでしょう。この御三階櫓は廃城後も現存していたのですが、昭和20年(1945)の水戸空襲で惜しくも焼失してしまいました。
また水戸城にあった建造物も、明治5年(1872)に何者かが放火したことで、ほとんどが失われてしまったのです。しかし昨今、歴史景観整備事業に伴い、大手門や二の丸角櫓・土塀などが復元されています。もし近い将来、御三階櫓がされたなら、きっと水戸城は往時の威容を取り戻すことでしょう。
おわりに
「城」という字を分解すれば、「土で成る」と書きますが、水戸城はそれを具現化した城郭でした。ダイナミックな堀切が幾重にも走り、巨大な土塁が土木量の大きさをうかがわせます。その姿はまるで戦国城郭のようで、きっと見る者を圧倒することでしょう。もちろん古い遺構ばかりではありません。三の丸にある旧県庁の隣には、烈公こと徳川斉昭が創始した藩校・弘道館の現存建造物があり、多くの藩士たちの学び舎となっていました。
長い歴史を培ってきた水戸城だからこそ、それぞれの時代を感じることができるのです。
補足:水戸城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
12世紀末~ 13世紀初め頃 | 馬場資幹によって馬場館が築かれる。 |
応永7年 (1400) | 大掾満幹によって改修され、防備が強化される。 |
応永23年 (1416) | 上杉禅秀の乱において、大掾満幹が佐竹氏に敗れる。 |
応永33年 (1426) | 佐竹氏配下の江戸通房による奇襲。馬場館が攻め落とされ、水戸城に改称される。 |
天正18年 (1590) | 江戸重通が小田原参陣を怠ったため、改易される。 |
同年 | 佐竹義宣による水戸城攻撃。佐竹氏が水戸周辺を掌握。 |
天正19年 (1591) | 佐竹義宣、本拠を太田城から水戸城へ移す。 |
文禄2年 (1593) | 水戸城及び城下の大規模普請が行われる。 |
慶長7年 (1602) | 佐竹氏が秋田へ転封。代わって武田信吉が城主となる。 |
慶長8年 (1603) | 武田信吉が急死。代わって徳川頼宣が城主となる。 |
慶長14年 (1609) | 徳川頼宣の転封に伴い、徳川頼房が入封。以後、幕末まで11代続く。 |
寛永2年 (1625) | 徳川頼房、水戸城の大規模改修に取り掛かる。 |
天保12年 (1841) | 9代藩主・徳川斉昭によって弘道館が開設される。 |
明治元年 (1868) | 藩内意見の不一致から弘道館戦争が起こる。 |
明治5年 (1872) | 放火事件によって、建造物のほとんどが焼失。 |
昭和20年 (1945) | 水戸空襲によって御三階櫓が焼失。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選出される。 |
令和2年 (2020) | 大手門が復元される。 |
令和3年 (2021) | 二の丸角櫓及び土塀が復元される。 |
【主な参考文献】
- 峰岸純夫・齋藤慎一「関東の名城を歩く 北関東編」(吉川弘文館 2011年)
- 加藤理文「家康と家臣団の城」(KADOKAWA 2021年)
- 茨城城郭研究会「図説 茨城の城郭」(国書刊行会 2006年)
- 木村礎・藤野保ほか「藩史大事典 関東編(新装版)」(雄山閣 2015年)
- 中井均「新編 日本の城」(山川出版社 2021年)
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