「承久の乱」朝廷 VS 幕府!それまでの公武関係を変えた軍事衝突
- 2024/04/17
乱後の公武関係に大きな影響を与えたこの乱が、どのようなものだったのか、詳しく見ていきましょう。
乱に至るまで
当時の公武関係
旧来、鎌倉幕府(武士)と朝廷(天皇・貴族)は、対立するものとして捉えられてきました。中世のはじまりが「堕落した古い貴族政治を新興勢力である武士が打ち倒し、新しい時代を切り開いた」と理解されていたからです。そのため、両者の対立は必然であるかのように思われていました。
しかし今日では上記の考え方は見直されており、鎌倉時代の公武関係は、「協調」が基本路線であったことが明らかになっています。
後鳥羽上皇と三代将軍・実朝
建久9年(1198)、土御門(つちみかど)天皇に譲位した後鳥羽上皇は院政を開始します。院政は当時の基本的な政治形態で、院政を行う上皇(法皇)のことを「治天の君」と呼び、治天の君は圧倒的な政治力で政務を主導しました。 一方、鎌倉幕府3代将軍の源実朝は、成長するにつれて政務に意欲的になり、和歌や蹴鞠などの芸能にも積極的に取り組みました。後鳥羽の従兄妹を妻に迎えており、また互いに和歌を通じた交流もあったため、適度な信頼関係を築いていたようです。
後鳥羽上皇は多芸多才で、諸芸能に加えて武芸も堪能でした。彼は京周辺で活動する武士たちを編成し、自らの武力に組み込んでいきました。その手は徐々に御家人たちにも及び、幕府に仕える在京御家人が、後鳥羽の武力にもなるという複雑な状況も生じていました。
ただ、これは討幕を意図してのものではありません。御家人の後鳥羽への奉仕は実朝も認めていたことでした。上皇と幕府、両方への出仕は、当時の武士にとって決しておかしなことではなかったのです。
このような複雑な状況でも、後鳥羽と実朝間の信頼関係もあって、平穏な公武関係が維持され続けました。
実朝の暗殺
建保7年(1219)、雪の降りしきる鶴岡八幡宮で、実朝が甥の公暁(くぎょう、こうぎょう)によって殺害されます。この事件は幕府の内外に大きな影響を与えました。 幕府内では、子のない実朝の後継者問題が以前から議論されていました。実朝存命時には、後鳥羽の皇子を鎌倉に下向させて次の鎌倉殿とする計画がありましたが、彼の暗殺を知った後鳥羽が、この計画に難色を示したのです。
そもそも後鳥羽が皇子の下向を認めたのは、信頼の置ける実朝がいるからこそでした。その実朝があっさり殺されるような場所に、皇子を送ることなどできなかったのでしょう。信頼し、いろいろと目をかけていた実朝の死によって、後鳥羽は徐々に幕府への不信感を抱くようになります。
後鳥羽上皇の挙兵
次第に悪化する公武関係
後鳥羽皇子の下向が叶わなくなり、代わりに下向したのが摂関家の九条道家の子・三寅(みとら)でした。三寅は一応、頼朝の縁者にあたるので、幕府と全くの無縁ではありませんが、下向当時はわずか2歳でした。政務を行えない三寅に替わり、実質的な鎌倉殿として政務を主導したのが、頼朝の後家・北条政子です。
幕府は将軍不在という非常事態に対し、政子の弟で執権の北条義時が政務の補佐をする体制をとることでどうにか切り抜けようとします。しかし、頻発するトラブルへの幕府の対応に、後鳥羽はますます不満を募らせ、これまで協調を続けてきた公武関係には大きな綻びが出ていました。そしてついに、後鳥羽はある決断を下すのです。
北条義時追討命令
承久3年(1221)5月、後鳥羽は全国に執権・北条義時の追討命令を発して挙兵します。先に述べたように、後鳥羽には京を中心とした独自の武力があったので、日ごろから後鳥羽と関係のあった武士たち(一部の在京御家人も含む)はその招集に応じました。後鳥羽の狙いは畿内近国の武士を集めて京都を制圧した後、東国御家人の蜂起を促すことだったようです。
意外なようですが、後鳥羽の最終目的が何であったかは明らかになっていません。命令書では追討の対象を北条義時としているため、研究者の間では、後鳥羽の本当の狙いが幕府打倒だったのか、それとも幕政を仕切る義時のみの排除だったのか、意見が分かれています。後鳥羽の目的を明らかにすることは、乱の性格を考えるうえで非常に重要なポイントなので、今後の研究の進展に期待が集まっています。
いずれにせよ、朝廷と幕府による武力衝突は、もはや避けられない事態となってしまいました。
政子の演説
後鳥羽の挙兵を聞き、政子が御家人らに演説を行ったことは有名です。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば、後鳥羽挙兵の報が鎌倉に届いた5月19日、政子は御家人らを簾下に集め、檄を飛ばしたといいます。 「頼朝の恩は、山より高く、海より深い」という政子の言葉に、御家人らは涙を流し、命がけで戦う覚悟を決めたのだとか。
上述のように後鳥羽挙兵の最終目的は不明ですが、幕府側(少なくとも政子や義時ら首脳陣)はこれを「幕府全体」への挑戦と受け止めたようです。19日の夕方には、北条時房・大江広元・三浦義村・安達景盛らが義時邸宅に集まり、後鳥羽の軍勢への対策を練りました。
この場では足柄と箱根の防御を固めて迎撃する案と、軍勢を上洛させてこちらから攻撃する案の2つが上がり、最終的には政子の判断により、後者が採択されます。官軍相手の無策な上洛は危険だという声も上がりましたが、大江広元や三善康信らの主張もあり、早々の軍勢派遣が決定されました。
乱の経過と決着
幕府軍西へ
軍勢派遣が決定した21日の晩、義時の子・泰時は、1人早々に出陣していきました。相手は治天の君、つまり事実上の最高権力者の命で集まった官軍です。時間が経てば心変わりする者が増えてくる恐れもあります。幕府首脳陣は、御家人らが去就に悩む前に、早々に決着をつける算段だったのかもしれません。先行した泰時に続き、御家人たちは続々と京都に向かって進軍していきました。軍勢は東海道・東山道・北陸道の三手に別れて進み、その軍勢は十数万騎になったといいます。
進む幕府軍と迎え撃つ官軍
後鳥羽は、河内国の武士で近臣の藤原秀康を総大将として、幕府軍を迎え撃つ体制を整えていました。両軍は6月5日と6日に尾張で激突しますが、幕府軍の攻勢の前に官軍は大敗を喫してしまいます。その後、官軍は宇治・勢田で京の防衛を図り、6月13日・14日に激戦が繰り広げられますが、あえなく敗れ、翌15日には京都を制圧されてしまいました。後鳥羽の挙兵から鎌倉方による京都制圧まで、わずか1ヶ月ほど。朝廷と幕府による前代未聞の戦いは、幕府方の圧勝と呼べる結果で決着したのです。
後鳥羽は自身の影響力を過信していたのかもしれません。もちろん「治天の君である自らの命に、諸国の武士が従うはずだ!」と考えるのは、至極当然のことです。しかし、幕府の求心力は、後鳥羽の予想を上回るものだったようです。
激闘のあと
鎌倉方が京都を制圧すると、北条泰時は六波羅に入ります。六波羅はもともと平氏の本拠地で、平氏滅亡後は鎌倉幕府の京の拠点になっていました。泰時は、ここで時房とともに、乱の戦後処理にあたります。まず、乱の首謀者である後鳥羽をはじめ、関与した土御門・順徳の3上皇が配流となり、即位して間もない懐成親王(かねなり、仲恭天皇)も廃位されました。そして配流となった後鳥羽の代わりに、その兄・守貞親王(後高倉上皇)が治天の君に擁立され、その皇子・後堀川が天皇の位につきました。
院政期以来、天皇をはじめとした王家の人事権は、治天の君が全てを握っていました。そのため、全くの部外者である幕府が皇位継承に関与し、さらにその意向が通るなどということは、前代未聞の出来事だったのです。
また、幕府は後鳥羽についた貴族や武士のことごとくを処罰し、彼らの所領をことごとく没収しました。この所領は義時と政子によって御家人らに分配され、その地には新たな地頭(新補地頭)も置かれました。これにより西国へ進出する東国御家人も増え、幕府の西国への影響力は大きく高まりました。
強まる幕府の影響力と公武関係
戦闘自体は短期間で終結しましたが、承久の乱はその後の公武関係に大きな影響をもたらしました。特に、最高権力者である治天の君が「謀反人」として罰されたことは、当時の人々に大きな衝撃を与えたことでしょう。戦後処理により、新たな上皇と天皇を擁立した幕府は、これを皮切りに皇位継承へ関与するようになり、乱以降の朝廷は適宜、幕府の意向をうかがう羽目となったのです。
また、後鳥羽の有した莫大な所領も幕府によって没収されました。一応これらの所領は、後に後高倉に寄進されるのですが、最終的な所有権は幕府が握っていたようです。承久の乱の勝利によって、天皇の人事権と王家の経済基盤が幕府の手中となったと言っても過言ではないでしょう。
圧倒的に有利な立場となった幕府でしたが、以降の公武関係で朝廷を圧したわけではありませんでした。幕府は朝廷の政務に関しては過干渉を避け、承久の乱で破綻した公武協調関係の再構築しようとしたのです。
承久の乱は公武関係を大きく変えましたが、それは「武士政権が貴族政権を倒した」という単純な構図ではなかったようです。
【主な参考文献】
- 岩田慎平『北条義時』(中公新書、2021年)
- 坂井孝一『承久の乱』(中公新書、2018年)
- 高橋典幸編『中世史講義 戦乱篇』(ちくま新書、2020年)
- 田中大喜編著『図説 鎌倉幕府』(戎光祥出版、2021年)
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