「後鳥羽上皇」神器なき天皇のコンプレックス。北条義時追討の兵を挙げた承久の乱で敗れた帝王の生涯

治承・寿永の内乱、いわゆる源平の争乱が起こった時代に、後鳥羽天皇(ごとば てんのう)は即位しました。平家が安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちしたため、天皇不在となった都では安徳天皇にかわる新しい天皇の即位が急がれ、後鳥羽天皇は神器を持たないまま践祚。そのコンプレックスによるのか、多芸多才・文武両道の帝王として君臨しました。

しかし、鎌倉幕府の将軍・源実朝の死をきっかけに幕府との関係が悪化。執権・北条義時追討宣旨・院宣をもって始まった承久の乱で上皇方はあっけなく敗れてしまいます。後鳥羽上皇は隠岐に流され、その後帰京が叶うことはありませんでした。

源平の争乱の中、神器のない践祚

以仁王の令旨を受けて源頼朝が挙兵したのと同じ年の治承4(1180)年7月14日、後鳥羽天皇は高倉天皇(この時点では上皇)の第四皇子として誕生しました。母は高倉天皇の中宮である平徳子に仕えていた坊門信隆女(殖子。のちの七条院)です。

平維盛を大将とした平家軍が木曾義仲に敗れると、寿永2(1183)年7月25日に平家は清盛の孫である安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちしました。この時、都落ちの情報を直前に掴んでいた後白河院は院御所の法住寺殿をひそかに抜け出して比叡山に入り、難を逃れていました。

朝廷では天皇不在という異常事態に対応すべく、8月に後白河院が「安徳天皇の帰還を待つべきか」「神器がないまま新主を立てるべきか」を卜占(占い)で決めようとします。最初は安徳天皇を待つべきという答えがでましたが、自分の中で答えは決まっていた後白河院はさらに神祇官と陰陽寮に卜占させると、今度の答えは後者でした。

後白河院は分かれてしまった卜占の結果をどうするべきか九条兼実に勅問すると、兼実は天子の位は一日たりとも書くことはできないので、立王を急ぐべきだと答えました。践祚するとなると問題は剣璽(三種の神器のうち、宝剣(天叢雲剣)と神璽(八尺瓊勾玉)。また神器の総称)がないことです。兼実は、継体天皇が即位以前に天皇と称し、その後剣璽をもって即位したという先例があると答えました。

「践祚(せんそ)」とは、天皇の位につくこと。元々は「即位」との区別はなかったが、このころは三種の神器を継承して天皇の位につくことを「践祚」、皇位につくことを公式に宣言することを「即位」、というように区別された。


ただ剣璽のない践祚を合理化させた根拠はこれではなく、藤原俊経の勘文(かんもん。学者や神祇官らが先例、故実などを調べて報告した文書)でした。これは平安末期の古辞書『伊呂波字類抄』の「璽」の項目に用例として載っています。それによると、神器は天が天皇に授けたものであるから、人が奪ったり盗んだりすることはできない。現在は散失しているけれども、神器は神であるため帰らないわけがない、と。つまり神器は必ず帰ってくるという論理で神器のない践祚が行われたのです。

次の天皇の候補となったのは、高倉天皇の第三皇子(惟明)と第四皇子(尊成)。さらに木曾義仲が以仁王の遺児・北陸宮を立てるべきと主張したため、後白河院はまた卜占で決めるという形をとって4歳の第四皇子・尊成に定めました。後白河院は当初惟明に決めていましたが、後白河院の寵妃であった丹後局の意見により尊成に決まったといわれています(『愚管抄』)。

神器のない天皇となったことは、後鳥羽天皇にとって大きなコンプレックスとなったと考えられています。それも無理はありません。神器は践祚の儀、即位式にだけ必要なものではなく、天皇が行幸する際は侍従が神器のうち剣璽(宝剣と神璽の剣璽)を携えて随行しました。

その際、宝剣を持つ侍従が前、神璽を持つ侍従が後ろという決まりでした。しかし結局平家滅亡後も宝剣だけは海に沈んだまま見つからなかったため、何も持たない侍従が前というわけにもいきません。そのため順序を逆にすることになったのです。

のちに宝剣の代用として「宝剣代」「准宝剣」が用いられるようになり、准宝剣からは行幸時の順序も元に戻されました。しかし宝剣代までは神璽が先を行く様子、つまり宝剣がない事実を衆人の目に晒していたわけで、後鳥羽天皇は行幸の度に屈辱を受けたのではないでしょうか。

朝廷が神器の政治的機能を重視したことは、神器還京から数年の間宝剣の捜索を行ったことからも明らかです。神器は天皇の正統性を示す証しです。後鳥羽天皇は、朝廷が捜索を打ち切ったのちの建暦2(1212)年(宝剣が失われてから28年後)にもまだ宝剣を捜索させていたことがわかっています。

マルチな後鳥羽上皇

天皇の正統性の証しである神器を持たなかった後鳥羽天皇は、何をもって正統性を示そうとしたのか。それは、あらゆる芸能、武芸などでした。特に土御門天皇に譲位して上皇となってからは自由を謳歌し、さまざまなことに熱中しました。

和歌

中でも、和歌への情熱は特別でした。後鳥羽上皇はさすが今様を愛した後白河院の孫というべきか、文化面で大いに才能を発揮し、和歌にのめり込みます。後鳥羽上皇を和歌の道に導いたのは、土御門天皇の生母・在子(承明門院)の養父として朝廷で影響力を持っていた源(土御門)通親であったと考えられます。

後鳥羽上皇が高く評価した歌人には寂蓮、藤原俊成(としなり/しゅんぜい)、西行らがいますが、中でも通親を通じて早い時期に知り合ったと思われる寂蓮とその養父である俊成は、後鳥羽上皇にとって和歌の師匠のような存在でした。

後鳥羽上皇は歌会や歌合(うたあわせ。歌人が左右に分かれて優劣を競う)を多数開催して和歌界を盛り上げ、建仁元(1201)年には和歌所を設けています。

和歌所とは勅撰和歌集編纂のために設けられた役所で、設置は2つめの勅撰集『後撰和歌集』以来のことでした。後鳥羽上皇が設けた和歌集は、勅撰集編纂だけでなく歌会や歌合を開く場としても機能しました。

その和歌所で編纂されたのが、『新古今和歌集』です。

撰者には源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮(寂蓮は途中で没した)が選ばれ、そして勅撰集編纂を下命した後鳥羽上皇自身も加わりました。命じた者が撰者として直接編纂にまで関わるというのは異例のことです。

『新古今集』が完成した元久2(1205)年は最初の勅撰集『古今和歌集』が完成した延喜5(905)年からちょうど300年のアニバーサリーイヤーにあたります。延喜といえば、聖代(理想の時代)といわれた醍醐天皇の時代です。後鳥羽上皇が、摂政・関白を置かずに親政を行った醍醐天皇の治世を意識していたことがよくわかります。

後鳥羽上皇は『新古今集』に並々ならぬ情熱を注ぎました。およそ2000首もの入集歌(にしゅうか)すべてを諳んじたことからもうかがえます。また、完成後も歌の切り継ぎを続け、のちに隠岐に流されてからも続けました。その時400首ほどを切り出したものを後鳥羽上皇は正当な『新古今集』と主張しています(隠岐本という)。

このように上皇自身がかなり口も手も出して編纂されたため、撰者の藤原定家(さだいえ/ていか)は日記『明月記』の中で愚痴をこぼしています。

蹴鞠

歌人として優れていた一方で、後鳥羽上皇はスポーツセンスも抜群でした。特に力を入れたのが蹴鞠です。

後鳥羽上皇は飛鳥井流蹴鞠の祖である飛鳥井雅経(歌人としても知られる)らに「蹴鞠の長者」の称号をもらうほどうまかったようです。後鳥羽上皇自ら蹴鞠に関する規則を作る(襪(しとうず。沓の中に履く足袋のようなもの)の色や模様を身分と技量によって分けた)ほど力を入れていました。

あまりに蹴鞠に耽る後鳥羽上皇(順徳天皇も)に対し、定家は後鳥羽上皇が神器のないまま天皇となったことを引き合いに出して上皇に天子としての徳がないと批判しています。

どんなに芸に秀でていても度が過ぎれば批判される。定家の例だけでなく、さまざまな場面で同様の批判があったのではないかと想像されます。過去例のない形で践祚した後鳥羽上皇は、何をするにも人々の評価を意識せざるを得なかったでしょう。

刀剣

武芸を好んだ後鳥羽上皇は、各地から優れた刀鍛冶を集め、月交代で太刀をつくらせる御番鍛冶の制度を設けました。その時つくらせたものとして現存するのが、国の重要文化財になっている「菊御作(菊一文字、御所焼ともいう)」です。後鳥羽上皇は自ら鍛造して菊花紋を刻んだといわれています。

後鳥羽上皇の刀剣に対する愛着は、失われたまま戻ってこなかった宝剣への執着からくるものだったのでしょうか。失われた宝剣の穴を少しでも埋めようとしたと考えられます。

後鳥羽上皇の政治

幼くして即位した後鳥羽天皇。後白河院存命中は法皇が治天の君として朝廷の実権を握り、崩御してようやく親政となるも、実際は関白の九条兼実が実権を握りました。しかし兼実は源通親、丹後局によって失脚。後鳥羽天皇の中宮であった兼実の娘・任子(のちの宜秋門院)も内裏から退出させられています。通親の養子(妻の連れ子)である源在子(承明門院)が皇子(為仁。のちの土御門天皇)を生んだことから、外祖父の通親が力を持ちました。

しかし、後鳥羽天皇もいつまでもじっとしてはいませんでした。建久9(1198)年に土御門天皇に譲位して上皇になると、院政を開始します。ちなみに、この少し前から後鳥羽上皇の寵愛は在子か藤原重子(のちの修明門院)へ移っており、重子が生んだ守成(のちの順徳天皇)を皇太弟としています。後鳥羽上皇は土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇の三代23年にわたって院政を行うことになります。

兼実が失脚してからは通親が幅を利かせていたものの、通親が建仁2(1202)年に亡くなると、後鳥羽上皇は九条家ら不遇であった貴族もバランスよく重用しました。

後鳥羽天皇が宮廷儀礼の復興にも力を入れました。上皇自身が熱心に宮廷儀礼を学び、貴族たちの行動にも厳しかったようです。

順徳天皇の大嘗会の前には公事竪義(くじりゅうぎ。儀礼に関する口頭試問のようなもの)を行い、間違いがあれば上皇自ら指摘したとか。『明月記』に不満をもらした定家のように、不平不満をもつ貴族も多かったと思われますが、保元の乱以降戦乱続きでなかなか過去と同じような儀礼が行われない時代が続いた中、後鳥羽上皇の尽力によって宮中儀礼が復興したのでした。

源実朝暗殺事件

承久元(1219)年正月27日、右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮に参詣した鎌倉幕府将軍・源実朝が暗殺される事件が起こりました。実行したのは、実朝の兄・頼家の遺児である公暁です。

この事件には、さまざまな黒幕説があります。実朝と一緒に殺されるはずであったのに途中退席して難を逃れた北条義時、不在であった三浦義村、そして後鳥羽上皇。

後鳥羽上皇黒幕説に関しては、谷昇氏が後鳥羽上皇の修法(ずほう。密教で行う加持祈祷)を検証し、政治過程を重ね合わせることで、その可能性もあり得ることを指摘しています(『後鳥羽院制の展開と儀礼』思文閣出版、2010年)。

実朝暗殺前後に多く行われた修法は調伏目的で行われることの多い「五壇法」であり、後鳥羽上皇は実朝と義時二人の死を願った。しかし半分失敗し、義時は生き残りました。そのため、後鳥羽上皇は邪魔な北条義時を排除するために軍事行動に踏み切ることになったというわけです。

しかし、それは諸説あるうちのひとつです。和歌という共通の趣味を持ち良好な関係を築いていた後鳥羽上皇と実朝の姿を素直に受けとるならば、実朝の死を知った後鳥羽上皇の気持ちはどうだったのでしょう。

実朝には実子がなく、母の政子は事件の前年に熊野参詣のため上洛した際、後鳥羽上皇の乳母の藤原兼子(卿局)と何度か会談し、実朝の後継者が生まれなかった場合は後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を将軍にするという密約を結んでいます。これは後鳥羽上皇自身の構想でもあったと思われます。

にもかかわらず、実朝の死の直後に幕府が親王の下向を求めた時の後鳥羽上皇の答えは「親王を下向させるつもりだが、今ではない」というものでした。僧侶・慈円の歴史書『愚管抄』によれば、後鳥羽上皇は親王を将軍にすれば日本を分裂させることになるので、そんなことはできない、と言ったとか。それでもなお幕府は催促しました。これに対する後鳥羽上皇の答えは、「摂津国の長江・倉橋の二荘園の地頭を罷免せよ」という院宣でした。

交通の要衝である荘園の地頭職を手放せ、というのは幕府への挑発のようにも見えますが、後鳥羽上皇は幕府がおとなしく朝廷の下につくかどうか試したのかもしれません。すぐに親王を下向させなかったのも、実朝を死なせた幕府を信用できなくなったから、と考えられます。

後鳥羽上皇の要求に対する幕府の回答は、否でした。結局両者が妥協する形で、親王ではなく摂関家である九条家の三寅(のちの頼経。九条道家の子)が送られることで決着がつきました。

源頼茂の事件


将軍後継者の決定に関連して、ある事件が起こりました。「源三位」の名で知られる源頼政の孫・源頼茂が7月13日に後鳥羽上皇の院宣を受けた在京御家人に攻められた末、内裏の仁寿殿(じじゅうでん)に籠って火をかけ自害したため、大内裏が焼失してしまったのです。

発端は、頼茂が「我こそ次の将軍に」という思いをもっていたのに三寅が選ばれたので謀反心を抱いたためであるとか(上皇と内通していて、上皇の倒幕の意思を知っていたため口封じのため討たれたという説もある)。実朝の死、大内裏の焼失という大事件が重なり、後鳥羽上皇はストレスにより一月以上床に臥したといいます。

将軍の地位を狙った謀反を防ぐための軍事行動が大内裏焼失というショッキングな事態を招いたことで、後鳥羽上皇は幕府の内紛を都に持ち込んだ幕府を恨んだでしょうが、この事件はある確信をもたらしたとも言えそうです。

後鳥羽上皇直属の武力といえば、院の警護にあたった「西面の武士」がいました。これは後鳥羽上皇が従来の北面の武士(院の北側に伺候した)に加えて新設したものです。最初は在京御家人とは別に編成されたようですが、次第に在京御家人も加わっていったといわれます。つまり、幕府の御家人でありながら、半分後鳥羽上皇の私兵化していたのです。

この西面の武士と北面の武士は、のちに承久の乱で上皇方の軍勢の中心として戦っていますが、後鳥羽上皇はそれだけを頼りに幕府との戦いに踏み切ったわけではなかったでしょう。頼茂追討の際、在京御家人たちは幕府を通すことなく上皇の院宣を直接受けて頼茂を攻めました。

後鳥羽上皇は、もし朝廷と幕府が対立しても、在京御家人ならば朝廷の戦力として動員することができると考えたのではないでしょうか。それが鎌倉に対する軍事行動に踏み切る後押しになったのかもしれません。

承久の乱

ここまで、後鳥羽上皇が幕府に不信感をもち、不満を抱いた経緯を見てきました。では、後鳥羽上皇の不満が限界を迎えたのはいつだったのでしょうか。

坂井孝一氏は、「大内裏造営を進める中で苛立ちを募らせた後鳥羽が、幕府をコントロール下に置くために優先順位を変更し、大内裏の完成から問題の元凶である北条義時の追討へと方針を転換するに至った」(『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中央公論新社、2018年)としています。

焼失した大内裏を再建するために朝廷は造内裏役として一国平均役を全国の荘園・公領に賦課しました。しかしあちこちで抵抗が起き、後鳥羽上皇は苛立ちを募らせます。後鳥羽上皇にしてみれば、そもそも大内裏が焼失したのは幕府の内紛に都が巻き込まれたからです。幕府は大内裏再建に積極的に協力すべきなのに、各地で抵抗が起きている。制御できない幕府への苛立ちは、幕府を実質的に動かしていた(と上皇が考える)執権・北条義時に向かいました。

こうして承久3(1221)年5月14日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣・官宣旨を出し、承久の乱が起こりました。

結果を簡単にいえば、上皇方の軍は京に攻め上ってきた幕府の大軍にあっけなく敗れてしまいました。しかし、なにも後鳥羽上皇が「院宣・官宣旨があれば各地の武士たちが味方して簡単に勝利する」と楽観視していたわけではありません。

院宣を出す前には在京御家人たちの取り込みを行っていましたし、院宣を8人の有力御家人宛に出して幕府内部の分裂を図り、さらに官宣旨では五機内・諸国の守護・地頭等に対して義時追討命令を出し、幕府内部だけではどうにもならないケースに備えて幾重にも戦略を立てていたわけです。

ところが、幕府では尼将軍・北条政子の演説で御家人たちが結束し、後鳥羽上皇が狙った分断は起こりませんでした。幕府では今まで散々内紛が起こっていたので、後鳥羽上皇もちょっとつつけば簡単に分断・対立してくれるだろうと考えたのかもしれませんが、後鳥羽上皇の想像を超えて幕府の結束力は強かったということでしょう。

坂井孝一氏は、マルチな才能を持った後鳥羽上皇はすべてを一人でこなそうとする傾向が顕著であったとし、「京方は「チーム京都」ではなく、後鳥羽が監督・裏方・キャプテンを兼務する「後鳥羽ワンマンチーム」とでもいうべきもの」であったと例えています。

なんでも一人で決定してきた後鳥羽上皇には、幕府の結束力の強さを想像もできなかったのかもしれません。承久の乱は朝敵が官軍を破った日本史上唯一の例なので、さすがにここまでひどい形で敗北するとは思わなかった、というのもあるかもしれませんが。

配流先の隠岐で

敗れた後鳥羽上皇は、戦後幽閉されて出家したのちに、幕府によって隠岐島へ流されました。法名は金剛理あるいは良然といいました。あわせて、土御門上皇、順徳上皇(後鳥羽上皇の軍事行動にあわせて譲位していた)も、それぞれ土佐、佐渡に流されています。

土御門上皇は父の計画に関与されなかったため罪に問われませんでしたが、自ら申し出て土佐に遷ったのでした。またほかにも後鳥羽上皇の皇子二人(六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王)もそれぞれ但馬と備前に流されています。

後鳥羽院は隠岐で、主に和歌と仏道修行に力を入れて過ごしました。後鳥羽院が残した作品には、日記『後鳥羽天皇宸記』、歌集『後鳥羽院御集』『遠島御百首』、歌論書『後鳥羽院御口伝』、仏書『無常講式』、有職故実書『世俗浅深秘抄』などの著書があります。帝王としては道半ばで終わってしまいましたが、和歌への情熱は配流されてからも絶えず、最期まで歌人であり続けました。

延応元(1239)年2月22日、60歳の時、後鳥羽院は隠岐の苅田御所で亡くなりました。隠岐で火葬された後、同地(現在の島根県隠岐郡の海士町陵)と京(京都市左京区大原来迎院町の大原陵)の2か所に御陵が設けられています。死後、「顕徳院」の諡号が贈られましたが、院の怨霊が噂されるようになり、「後鳥羽院」と改められています。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中央公論新社、2018年)
  • 五味文彦『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか』(角川学芸出版、2012年)
  • 谷昇『後鳥羽院制の展開と儀礼』(思文閣出版、2010年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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