【戦国の命名】上杉謙信のネーミングセンス(2) ~ 武田家に意地悪だった謙信

※内容紹介(戦国ヒストリー編集部より)

本記事は、歴史家・乃至政彦氏による解説記事「【戦国の命名】上杉謙信のネーミングセンス」の続編です。前編をまだご覧になってない方は【戦国の命名】上杉謙信のネーミングセンス(1) ~ 謙信・景虎・景勝はなぜそんな名前に? をご参照ください。


越相同盟の破綻と上杉景勝の誕生

 ところが、越相同盟は破綻した。なにしろ謙信は東国の戦いから離れたくて、武田信玄への攻撃を控えていた。氏康にすれば、冗談ではない。同盟の締結は武田挟撃が大前提である。のらりくらりと氏康の要請を無視しようとする謙信だが、氏康が病死すると、同盟は白紙に戻された。氏康の跡を継いだ北条氏政は、武田信玄との同盟を復活することにした。

 すべては振り出しに戻ったのである。謙信はせっかく上洛しようと準備していたところなのに、背後を武田と北条に攻められたら、たまらない。

 再び関東に目を向け、越相同盟のせいで「やってられねぇわ」とそっぽを向いてしまった関東将士との関係を修復しようと動き出す。全く自分勝手な話だが、北条の脅威が高まってはたまらないので、話を聞く者もあったが、難色を示す者もいたようだ。

 こうなっては悲しいことだが、景虎の存在が邪魔である。景虎は実家よりも謙信を信じており、相模国には戻らなかった。景虎には赤子も生まれており、このまま越後国に骨を埋める覚悟であった。ところがこれだと、関東将士からすれば、「謙信はやがて景虎に家督を譲るんじゃないか。孫もいることだし」と、心を許してくれない。

 弱った謙信は、長尾顕景を「上杉景勝」へと名乗りを改めさせ、しかも自身の官名「弾正少弼」まで譲って、その後継体制を知らしめようとした。ただ、北条と完全決裂してしまうと、本当に上洛どころではなくなってしまう。それに義将として知られるおのれが、こんな都合で景虎を切り捨てることなど絶対にできないことだ。

 だからであろう。顕景を景勝にする際、景虎の立場を崩さないようにした。景勝の名前をよく見てほしい。「景」の一文字が下ではなく上にある。思うに謙信は、自らの家督を景勝にも景虎にも譲らないことを宣言したのではなかろうか。もし全面的に景勝後継体制を整備するつもりなら、景勝ではなく、「上杉顕景」と名乗らせればよかったはずだ。それをしなかったということは、つまり2人とも謙信の家督相続者とされなかったということだろう。

道満丸後継体制

 少し余談に入るが、景勝はまだ独身であったが、同じ養子の景虎には息子がいた。ここで謙信が考えていたのは、景虎の長男・上杉道満丸を家督相続者に指名する後継体制であったのではないかと愚考している。家督相続者を道満丸に定めることで、上杉景勝をその中継ぎ当主(つまり「陣代」)に置くのは合理性が高く、前例も少なくない。

 例えば、武田勝頼は信玄の孫である武田信勝の「陣代」であったとされる。勝頼の大名権力に制限された形跡がないことから、これを否定的に見る研究もあるが、陣代も一時的とはいえ正式な家督相続を受ける点で、権限が縮小されることはない。武家社会には女性が「名代家督」として当主になる例もあったように、陣代とは名代家督と同義と考えればよい。

 名代家督も陣代も、次代となる児童が立派に成長すれば、当人に家督をそのまま移譲する仕組みである。謙信も晴景嫡男の幼子の陣代であったが、病弱な晴景父子が早世してしまったので、仕方なくその地位を保ち、なおかつ簒奪者と見られることを避けるため実子を設けず、姉の実子を養子に迎え入れたのである。

 謙信の後継体制は、景虎への立場と自身の名誉を保持するべく、その立ち位置を変えることなく、景勝を上杉一族に昇らせる上で、景虎の上位者を意味するような「上杉顕景」の名乗りを与えまいとしていたのである。

謙信の意地悪

 ところで上杉景勝の命名だが、顕景から別の名前にするにあたり、「景勝」という名前はどこに由緒があるのか、全く定かではない。かなり意地の悪い見方になるが、案外これは謙信の野心にあったのではないかと見ている。

 かつて謙信は越相同盟で、北条氏康ら反上杉陣営に自らの上杉家督と関東管領の地位を認めさせた。その際に謙信は、輝虎から謙信へ改号する。

 ここに、東国で謙信の山内上杉相続に否を唱えるのは、武田家のみとなった。そこでまずは謙信の名前の由来だが、謙の一文字は通説どおり益翁宗謙に由来するとして、その下にある「信」は武田信玄を意識したのではないだろうか。謙信にすれば、信玄の傲慢と強欲に散々苦しめられてきたから、せめて名前だけでも上位に立って、これを見下してやりたいという気持ちがあったように思えてならない。

 信玄が病没して、武田勝頼の時代になると、謙信は次の世代のことを考えた。そこで喜平次が武田家にコンプレックスを抱かないように、勝頼の「勝」の一文字を「景」の下に置くことで、上杉景勝の格がより高いことを印象付けようと考えたのではなかろうか。

 謙信、景勝、どちらもともに武田家を意識したネーミングと考えれば、晩年期の謙信が考えていた戦略の糸口もつかめるような気がする。

おわりに

 今回、上杉謙信のネーミングセンスを追いかけることで、その思考に想像力を巡らせてみた。そうしていま我が胸中では、謙信がそんなことを考えるだろうかという思いと、謙信ならこういうことをやりそうだという思いとが交錯している。

 これまで10年あまり上杉謙信に関する発言を繰り返してきた経験則から、歴史を考えるにあたり、多角的な視点で仮説を推し進めていくことは有用と考えている。これからも先入観に捉われず、かつまた既存の歴史ファンの気持ちに配慮しながら遠慮なく、想像力を働かせてみたい。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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