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明治の会津人が教育にかけた思い
- 2024/02/26
戊辰戦争後、「賊軍」となってしまった会津の人々。彼らはいわゆる「負け組」のため、薩長の支配する明治の世では仕官も商売も思うようにいきませんでした。
中には、厳しい環境の北海道や青森への開拓に向かい、苦しい生活を強いられる者も多かったと聞きます。しかし、さすがは会津人です。そんな逆境にあっても努力を続け、学問で身を立てた人々がいました。
中には、厳しい環境の北海道や青森への開拓に向かい、苦しい生活を強いられる者も多かったと聞きます。しかし、さすがは会津人です。そんな逆境にあっても努力を続け、学問で身を立てた人々がいました。
捨てたつもりで留学へ・大山捨松
2024年からの新紙幣に選ばれた津田梅子。彼女と同時期にアメリカへ留学していたのが会津藩家老の娘・大山捨松(おおやま すてまつ。1860~1919年)です。元の名前は「咲子」ですが、母親が「捨てたつもりで待つ」の意味を込めて「捨松」と名付けました。未知の国へ旅立つ娘を思う、母親の心情が伝わります。
捨松はアメリカで猛勉強をし、成績優秀で大学では卒業スピーチを行うなど才能を発揮します。しかし、帰国後の捨松を待っていたのは厳しい現実でした。
日本政府は女子教育に力を入れず、せっかくの留学経験をいかすことができずに捨松は絶望します。しかし、そんな捨松に運命を変える出会いが訪れます。陸軍卿の大山巌(おおやまいわお)は会津の敵である薩摩出身でしたが、留学経験のある紳士であり、同じく留学経験のある捨松に求婚、意気投合した二人は後に結婚します。
結婚後、捨松はこれまでの知識をいかして大山を支えるとともに、津田梅子の女学校設立を支援したり、鹿鳴館での人脈をいかして看護学校設立に資金を提供したりと、女子教育の支援に務めました。
白虎隊から帝大総長へ・山川健次郎
山川捨松の兄である山川健次郎(1854〜1931年)は、白虎隊から帝大の総長にまで上り詰めた人物です。会津の山川家は家老職の家柄で、兄の山川大蔵は戊辰戦争で活躍、前述の大山捨松は妹ですし、姉の山川二葉も女子高等師範学校の教諭として教育に携わりました。
もう一人の姉・操も、明治天皇のフランス語通訳として活躍したそうですから、山川家は優秀な人が多かったのですね。
山川健次郎は戊辰戦争当時、白虎隊へ入隊したものの、15歳という年齢では戦場で戦いに無理があるとされ、まもなく除隊させられます。その後、会津藩士たちは全滅を避けるため、特に優秀な少年を脱出させます。その中のひとりが山川健次郎でした。
やがて健次郎は国費留学生としてアメリカへ留学しました。アメリカでの健次郎は、あえて日本人のいない環境に身をおき、英語力を磨くという徹底した姿勢で勉学に励んだのです。
健次郎はその後、アメリカの大学で物理学を学び帰国後は日本人初の物理学教授となり、最終的には東大の総長にまで出世します。
生涯、努力を続けて学び、会津の人々の地位向上に尽くした一生でした。
会津人の希望・秩父宮勢津子妃
秩父宮勢津子妃は悲劇の会津藩主・松平容保を祖父に持ち、常日頃から両親や周囲から会津人としての誇りと、祖父の無念を教えられて育ちました。そのため、勉学にかける努力は人一倍だったそうで、アメリカ留学経験から英語にも堪能で英語のスピーチを得意とされていました。
その努力家な姿勢が、やがて貞明皇后(大正天皇皇后)のお耳に入り、秩父宮妃に選ばれました。このロイヤルウェディングは、会津の人々にとって逆賊という汚名を返上することになり、大いに喜ばれました。
まとめ
日本人は負けた方に肩入れする「判官びいき」の傾向がありますが、会津はまさに「判官びいき」の最たるものだと思います。戊辰戦争で活躍した山川大蔵や新島八重、中野竹子などのヒーロー、ヒロインの波乱万丈な人生や、少年たちが命を捨てた白虎隊の悲劇など、心を動かされる逸話が多いこともあるでしょう。
そして、会津の人々は虐げられる明治の世で、会津藩時代から培った教養と「会津魂」を武器に、教育で人生を切り開いていきます。
その姿は実に痛快でかっこよくて、そうした逸話を知ると、ますます会津に肩入れしたくなるのです。
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