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会津武士の心を持つ女性・中野竹子の生きざま、死にざま

※中野竹子の肖像(wikipediaより)
※中野竹子の肖像(wikipediaより)
大河ドラマ「八重の桜」の放送で、幕末・維新の会津戦争を戦った新島八重が一躍知名度を上げました。しかし、会津地方の方にうかがうと、地元で有名なのは八重よりも「中野竹子」だという声を多く聞きます。それは、中野竹子の勇ましくも潔い生きざま、死にざまが語り継がれているからなのです。

中野竹子の生きざま

中野竹子は慶応4(1868)年の会津戦争で戦死しました。その最期のようすについては後ほど触れますが、竹子が戦いに向かう前にしたためた辞世の句があります。それは「もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」というものです。

もののふとは、会津武士のことを指しています。会津武士は幼い時から「ならぬことはならぬ」と教えられ、それを貫いてきました。「間違ったことなど、やってはいけないことは、決してやってはならない」という意味で、会津武士道の根幹ともいえます。

この言葉を通し、真っすぐで、正義感が強く、固い意志を持つ会津武士の姿が目に浮かびます。竹子も同じだったと思います。自分もそうありたい、でも女の身でできることは限られている、そう感じたからこそ「数にも入らぬ」と謙遜したのでしょう。

竹子は薙刀(なぎなた)の実力者でした。平時であれば、武芸のたしなみがある女性として、実戦で薙刀を振るうことなく生涯を終えられたはずでした。しかし、激動の時代のなか、竹子は戦いの場へと引きずり込まれていくことになるのです。

中野竹子の死にざま

会津藩が賊軍の汚名をきせられ、攻められようとしたとき、竹子たち女性有志が「娘子隊(じょうしたい)」を結成します。敬愛する会津武士たちが苦戦し、一人また一人と討ち死にしていくのを見聞きし、自分たちも立ち上がらなければならないと思ったのでしょう。

藩主の義姉・照姫を護衛するとともに、自分たちも会津藩を守ろうという決死の覚悟で、娘子隊は戦いの最前線へと向かいます。「従軍させてもらえないなら、この場で自決する」との決意を示し、家老の萱野権兵衛に直談判したそうです。

新政府軍と遭遇した娘子隊は猛然と戦い、竹子も薙刀を振るって、相手を斬り倒していきました。最初は女と侮っていた新政府軍も、激しい戦いぶりを見て銃撃戦で対抗。奮闘していた竹子は銃弾に体を撃ち抜かれ、瀕死の重傷を負ってしまいます。

竹子は「首が敵の手に渡るような死に恥をさらしたくない」と、妹に介錯を命じます。姉の首を落とさなければならない妹の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうになりますが、妹は立派に介錯を務めたのです。竹子は20代半ばという若さで、戦場に散ったのでした。

おわりに

竹子が戦死した場所は「中野竹子旬節之地」の碑がある史跡になっています。観光名所からは離れた田園地帯にあり、碑の横には薙刀を振るう竹子の像が建ちます。その勇ましい姿を見ながら、あの「もののふの」の句を口ずさむと、思わず涙ぐんでしまいます。

中野竹子は立派な会津武士だったと思います。でも、あえて「戦場に咲いた一輪の花」に例えたい・・・なぜなら、その気高き魂は美しく咲いた花のようであり、美しいからこそ散り際のはかなさが一層胸を打つからです。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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