終戦直後から賑わった闇市…東京の第一号 "新宿マーケット"を牛耳ったのは尾津組

新橋にあった闇市。仕切っていた関東松田組の名前が見える(1946年2月。出典:wikipedia)
新橋にあった闇市。仕切っていた関東松田組の名前が見える(1946年2月。出典:wikipedia)
 太平洋戦争終戦のわずか数日後には始まったという闇市(やみいち)。東京・大阪をはじめ、京都・神戸・帯広・福岡など、瞬く間に全国に広まります。それまで戦時体制下で押さえつけられていた国民の欲求が解放され、当局の取り締まりも行き届かず、一種の解放区のような様相を呈しました。

以前から存在したものが大っぴらに

 戦時経済体制下では主食の米や衣類・日用品など、生活に必要なもののほとんどが政府による配給統制のもとに置かれていました。

 政府刊行の『写真週報』では

「闇で買ったり闇で売ったりそれで生きて行く人達の生活は "もぐら" のようなものだと思ひませんか。明るいところへ出てきたまへ、そして一緒にやっていかうぢゃないか。明るい取引で明るい生活を」
『写真週報』より

と呼びかけますが、必要最低限の物資も配給せずに何を言ってるのか… です。

 そんな言いつけを守っていては干上がってしまうと、人々は違法であっても独自のルートで必要な物を手に入れていました。それが大っぴらに売り買いされるようになったのが焼け跡闇市です。当局は取り締まろうと躍起になりましたが、とても手が回りませんでした。

ヤミ物資を没収する警察官とMP(1949年、出典:wikipedia)
ヤミ物資を没収する警察官とMP(1949年、出典:wikipedia)

警察の了解を得ていた新宿マーケット

 東京の闇市の中でも立ち上がりが早かったのは "新宿マーケット" です。終戦が昭和20年(1945)の8月14日で、その3日後には新聞で出店を募る広告を打ち、20日にはもうバラックで営業していましたから。このマーケットを立ち上げたのは、戦前からこの辺りの祭りや縁日を仕切っていた4つのテキ屋の組で、中でも先頭立ったのは尾津喜之助(おづきのすけ)率いる“尾津組”です。

 彼の手記によると、3月の東京大空襲の時には下町から逃れて来た罹災者に貴重な米を使って炊き出しをしたり、履物や着物を無料で配ったり、当時の淀橋警察署後の新宿署の依頼を受けて防空壕を作ったりしたそうです。4月に新宿が空襲に見舞われた後は焼け跡の整理、商人向けの商品交換所の開設、一般客への小売も行いました。

 このような経緯もあって "新宿マーケット" は、新宿駅東口区画に淀橋警察署長の了解を得て開設されます。その後、一旦休業を求められますが、警視庁・都庁など関係機関と協議の末、9月2日には営業を再開しています。

“光は新宿より”

 “光は新宿より”

 現在でも使えそうなキャッチフレーズですが、これは "新宿マーケット" の呼び込み文句で、ビラや看板、時折出稿される新聞を通じて盛んに宣伝され、 "新宿マーケット" は東京を中心に名前を知られるようになります。

 この闇市のユニークなところは、軍需物資を生産していた工場に「これからは生活用品を造らないか」と話を持ち掛け、生産した商品を小売店まで持ち込ませる条件で契約を結んだ事です。尾津に言わせるとその契約は「資材原価✕0.7+工賃+工場経費+利益2割=工場原価」です。そこに尾津たちは2割の小売利益を乗せて販売しました。

 資材原価が7掛けになっているのは、これも尾津に言わせれば

「軍需産業時代にたっぷり儲けたのだから、時代の変遷につれて手持資材を3割ぐらい泣くのは当然」

だそうです。

 やがて国内も落ち着き、工場の生産体制も整って物資が出回り始めます。闇市にも「物が豊富になれば価格は下がる」の市場原理が押し寄せて来ました。それまでは物はあるが高すぎる闇相場で、九寸物の鋳物鍋が90円ほどだったのが、 "新宿マーケット" では35円で売られ、60円のフライパンが25円で店に並びます。

 尾津は以下のように言っています。

「軍需からの転換工場と契約して2万個の鍋・釜を生産し始めたが、全部納品しないうちに他の工場でも作り始めてどんどん値が下がって行った」

 これを受けて政府内部からも統制の撤廃を求める声が上がり始めます。大蔵省の戦後通貨物価対策委員会では、石橋湛山を中心に統制撤廃を求める意見が提出されました。

 昭和20年(1945)11月25日付の朝日新聞大阪版には、天王寺を仕切っていた土地の親分の意見が載せられます。

「闇市の撲滅よりも自由市場の公認を熱望する。大阪府が手をこまねいて不安定なままにしておくのに不満である。 "新宿マーケット" 式の組合組織により正しい業者を育成する市場の出現を望む」
1945年11月25日付 朝日新聞大阪版より

 どうやら "新宿マーケット" は市場原理による物価抑制の成功例と見なされていたようで、用紙の不足から表裏二面しかなかった新聞にテキ屋の親分が流通の担い手として意見を述べるまでになっています。

新宿を牛耳った4つの組

 "新宿マーケット" に乗り込んだのは尾津組だけではありません。和田組・安田組・野原組など、それまで新宿を根城にしていた他の組も出店を求めます。縄張り争いを避けるため、組ごとに扱う商品と持ち場が決められました。

 新宿通りの露店は尾津組で、食材や化粧品・衣料品・日用雑貨などを扱います。その南の新宿聚楽食品ストアの周辺や近隣路地は野原組が押さえ、飲み屋を中心に屋台が店を出します。さらにその南の武蔵野映画劇場から甲州街道までの広い地域には、長屋形式の和田組マーケットが建てられました。このエリアの北側は食べ物屋、南側は飲み屋街でしたがその一部は売春宿も兼ねていました。新宿駅西口の線路沿いには安田組マーケットが建てられます。

 しかし闇市の賑わいは長くは続きませんでした。復興が進んで物価統制は少しづつ撤廃され、昭和26年(1951)10月には米以外の食品は自由販売となり、闇物資ではなくなりました。前年には戦災復興土地区画整理事業や露店整理事業により、違法な露店は次々に整理され、昭和26年の10月には闇市は姿を消してしまいます。

選挙に出馬するも、梯子を外されて落選

 尾津は昭和20年(1945)10月には東京都露天商同業組合の理事長に選出され、広く東京の露天商を束ねる立場になっていました。その後、大野伴睦や石橋湛山らに説得されて日本自由党に入党、昭和22年(1947)4月には第23回衆議院議員総選挙に、公認を与えたいとの申し入れを受けて東京都第1区から立候補しています。

 最初は献金目当ての出馬要請ではないかと怪しんでいた尾津ですが、最終的には自由党公認を受けて出馬。しかし選挙当日の投票所の掲示に公認の文字はなく、無所属とされ、結果次次点で落選しました。

おわりに

 混乱した時代の猥雑なエネルギーと剥き出しの欲望と暴力に満ちた焼け跡闇市、覗いて見たかった気もするのです。


【主な参考文献】
  • 安田常雄『シリーズ戦後日本社会の歴史2』(岩波書店、2013年)
  • 地理情報開発/編『別冊太陽 地図と写真でみる半藤一利「昭和史戦後篇1945-1989」』(平凡社、2022年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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