マル福金貨 日本陸軍の奇妙な残留物
- 2023/07/26
コイン収集家のためのオークションに時折「マル福金貨」というものが出品されることがあります。通貨というものには発行国、発行年、通貨価値が刻印されているのが普通なのに、この金貨にはそういったことが一切刻印されておらず、表は「福」の字が一文字だけ。裏は「24K 1000」と刻印されているだけです。
一体これは何だ? と興味を持ったコイン収集家が調査をしました。そして、この金貨の出所を辿って行くと「旧日本陸軍が作成した物」であることが判明したのです。
一体、何のために? どこで、どれくらい作られ、どこでどのように使われたのか? これらを追って行くと、ある都市伝説に繋がる可能性もわかってきたのです。そこで「マル福金貨」というものについて現在わかっていることを全てお話しします。
一体これは何だ? と興味を持ったコイン収集家が調査をしました。そして、この金貨の出所を辿って行くと「旧日本陸軍が作成した物」であることが判明したのです。
一体、何のために? どこで、どれくらい作られ、どこでどのように使われたのか? これらを追って行くと、ある都市伝説に繋がる可能性もわかってきたのです。そこで「マル福金貨」というものについて現在わかっていることを全てお話しします。
マル福金貨の特徴と製造元
マル福金貨は表面に「福」の一文字、裏面は「24K 1000」としか刻印されていません。直径は30.54mm、重量は31gです。24Kの刻印の通り、純金製のコインです。時折、このコインがオークションにかけられるので、コイン収集家には一応馴染みのある品でした。囁かれているウワサでは「旧日本陸軍が南方の戦争地域で物資調達のために作った物らしい」とされていたのだそうです。
そして研究熱心な、あるコイン収集家が調査に乗り出し、ついに突き止めたのです。このコインの製造元は当時、造幣局の依頼を受けて満州国の貨幣を作っていた「丸福商店」という会社だと。。
その収集家は運よく、丸福商店の店主に直接お話を聞くことが出来、以下のような事実がわかりました。
- 太平洋戦争(1941~45年)中に造幣局の指示で当社で作成したものである。
- 当時の同社資料に「海外で収集した金銀は軍用品として日本に送られ本所工場(東京都墨田区)で精製して日本銀行に納入した」とある。
- 丸福商店の社章は〇の中に「福」という文字が入った物で書体もデザインもマル福金貨と全く同じである。
- 図案は町の鍛冶屋レベルでも確認できる品質と重量であることを重要視したため、シンプルな物とした。
- 福の字の他に製造上の管理記号として「禄」・「囍」・「富貴萬年」と言う文字を入れた物も若干数、製造した。
- 具体的な輸送先は満州とフィリピンであり現地での物資調達用、と聞いている。
丸福商店は満州国の貨幣作成を行っており、造幣局の信頼が厚かったことから、このコインの作成依頼を受けたと考えられます。そして主な輸送先はフィリピンであったようです。
当時のフィリピンでは日本と米国が熾烈な戦争をしており、双方とも必要な物資は「現地調達」でした。物資を売るフィリピン側にとっては、紙幣では信用性が薄いので金の方が良いこと、細かい単位で支払いができるコインの方が便利であったこと、等がマル福金貨を作ることになった理由であると考えられます。
またフィリピン側は日米双方に物資を売っていたので、日本の金貨を持っていると米国側に「日本にも売っている」ことがバレて都合が悪いので、「鍛冶屋レベルでも確認できる品質と重量であること」を確認したら、すぐに鋳つぶしてしまうであろうことを想定していました。このため、シンプルなデザインにしたと推測されています。
そして後述の資料からフィリピンに送られたマル福金貨は2万5千枚であったことが分かっています。つまり、マル福金貨は「誰かが適当にでっち上げた物」ではなく、丸福商店という会社が造幣局の依頼により製造、納入した、れっきとした「軍用貨幣」であった訳です。
金貨の原材料はどこから得たのか?
丸福商店の資料には「海外で収集した金銀は軍用品として日本に送られ、本所工場(東京都墨田区)で精製して日本銀行に納入した」とありますが、”海外” とはどこなのでしょうか?当時、日本は朝鮮半島、満州国、台湾、樺太を領土としていましたが、31gの金貨を2万5千枚作るには775kgの金が必要であり、それだけの金を、どこからか持ってきたという記録は見当たりません。そこで考えられるのは戦争中に陸軍が行った「貴金属接収」です。
資源に恵まれていない日本は、戦争が長期化するに従って鉄・銅・アルミなどの金属類が不足しはじめ、民間から半ば強制的に接収したことが知られています。学校にあった二宮金次郎の銅像や社寺の鐘などが接収されたのです。これらは兵器製造に必要であったからです。その他にも、金・銀・プラチナ・ダイヤモンドなどの貴金属、宝石類も接収されました。戦争をしている真っ最中ですから輸出不振で、日銀の金保有残高も底をついていて、資金面でも行き詰まっていたために実施されたのです。
金に限ってみますと、昭和13年(1938)5月から金の買上げ運動が展開され、同年11月に「第一回 金の国勢調査」というのが行われました。これで「誰が、どれくらいの金を持っているか」ということを特定したうえで強制的な接収が行われたのです。その結果、昭和12~16 年(1937~41)の5年間で約100トンの金が接収されたことが分かっています。
マル福金貨の作成に必要な775kgの金なら、この接収された金だけでも十分に賄えたはずです。むしろ残りの99トン225kgはどこに行ってしまったのか、が気になりますが、ここでは、それには触れないことにしておきます。
戦時中の接収貴金属・宝石類の行方については実態として、大部分はGHQが持っていってしまったようなのですが、それを証明する資料はありません。敗戦後、旧陸軍が隠しておいたと思われる大量の貴金属類が見つかっていますが、全てGHQに押収されています。そしてGHQは「全て日本政府に返還した」としていますが、では、政府のどこの部署に返還したのか、については分からない、と言う状態なのです。
当時の日本政府にはGHQに抗う術はなく、やりたいようにやられてしまったのです。わずかに日銀の金庫に接収されたけれど、供出元が判明せず(終戦のどさくさで供出台帳は失われている、とされています)返還の申し出も無かったので、やむなく国家財産となった接収ダイヤモンドが今でも保管されています。
ダイヤモンドは金と違い、換金性が悪く、民間でも質屋さんへ持っていくか貴金属買取店に持っていくしかありません。このため、GHQも全てを持っていこうとはしなかったようです。しかしそれでも、旧GHQ関係者が米国の故郷に帰ってから親しい友人達にダイヤモンドをプレゼントしまくっていたという事件が起きている等、ダイヤモンドでさえもGHQに相当に持っていかれてしまったものと思われます。現在、日銀の金庫に保管されているものは「GHQの残り物」である可能性が高いと言われています。
フィリピンに送られたマル福金貨のその後
丸福商店主の証言では、マル福金貨は満州とフィリピンに送られたようだ、とありますが、満州分については、その後どうなったのか全く資料がないため分かりません。もしかしたら満州には送られていなかった可能性もあります。何故なら、当時、フィリピンで陸軍大将として指揮を取っていた山下奉文大将は満州国の 関東防衛軍司令官でもあり、それが原因で「満州」という言葉が出てきた可能性もあるからです。
その一方、フィリピンについては当時、陸軍の参謀本部で参謀を努めていた堀栄三中佐が残した手記の中に、マル福金貨について書かれている部分があり、それである程度の行方が分かります。
掘栄三中佐は情報分析の専門家で戦争中は参謀本部において、米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とまで呼ばれたほど優秀な参謀でした。戦後は陸上自衛隊に入隊し陸上幕僚監部第二部国外班長を務め、初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官にも就任しています。
彼は「物事の本質を見抜く」事にたけた英才でした。ですので残された手記は決していい加減なものではない、と言えるのです。では、その手記からマル福金貨について触れた部分を、そのままご紹介しましょう。
「あちらこちらで米軍がばら撒く紙幣は、単なるゲリラの軍資金ではなく、かなりの偽札が故意に混入されているらしく、ルソンは急速に極端なインフレになっていった。そのために、日本守備隊の物資の現地調達が、朝二ドル といったものが昼には四ドルに、次の日は五ドルと 跳ね上る始末で、明らかな米軍の市場攪乱を狙う計画的謀略であった。
(中略)
例の金貨は、黒田軍司令官時代(先代の司令官)にインフレに対処して準備されたものである。余談だが、この金貨は昭和十九年二月、戦闘機の護衛する重爆撃機で、東京から台北経由マニラに輸送され、方面軍のマッキンレー 時代は経理部が管理していたものである。その量は、金貨五十枚ずつの木箱入り十箱を単位に頑丈な木枠で梱包、それが五十梱包あったから、金貨の数は二万五千枚の計算になる。
表面に福の字が刻印されていたので、関係者達は「マル福金貨」と呼んでいた。山下司令部がバギオに移動するとき、金貨の一部は将来の万一を慮って 各拠点や守備隊に配分されたので、情報課がバギオに運んだのは残りの約三十梱包だったと聞いている。バギオが危なくなってからは、当然さらに北方の山中に移したと推測されるが、堀は一月二十 三日バギオから東京に帰ったので、最終的にどのような処置がとられたかは知らない。この書のためにいろいろ調査してみたが、金貨の最終の輸送に携わった者が全滅しているため、皆目不明であっ た」
つまり、米国のインフレ攻撃に対抗する方法としてマル福金貨が必要とされた、ということです。そしてフィリピンに送られてきた枚数は2万5千枚。多くの資料でマル福金貨の製造枚数を2万5千枚としているのは、この堀参謀の残した手記を根拠としていると思われます。そして1万枚は各拠点や守備隊に配分され、残りの1万5千枚は、最終の輸送に携わった者が全滅しているため、皆目不明なのです。
米軍の対応
日本の敗戦が決まり、日本兵を捕虜とした米国軍は、その日本兵がマル福金貨を持っていると拷問にかけ、残りのありかを聞き出そうとした、と伝えられています。堀中佐の手記にもあるように、1万枚は各拠点や守備隊に配分されましたが、それらの拠点や守備隊では兵隊一人に数枚づつ配った所があったようなのです。物資調達資金ですので、当然あり得る話です。しかし結局は使われずに敗戦となり、マル福金貨を持ったまま米軍の捕虜となった日本兵がいた、ということです。米軍は日本がマル福金貨をフィリピンに大量に持ち込んでいる、という情報を得ていたらしく、その行方を追っていたようなのです。
ですので、戦後、アメリカ・日本でオークションに出てきた物は捕虜とした日本兵が持っていた物を押収して私物化したものか、気づかれずに持ち帰ることが出来た日本兵が出して来たものと見て良いでしょう。
いわゆる「山下財宝」との関連
都市伝説的な存在ですが「山下財宝」というものがフィリピンに存在する、という噂が流れています。多くは「山下奉文大将がフィリピンで略奪した財宝を、どこかに隠している」というものですが、マル福金貨も「山下財宝の一部」と捉える向きがあります。確かに相当量が行方不明になっているのでフィリピンのどこかに大量に隠されている可能性がゼロとは言えません。コイン市場に出てきているマル福金貨は「極く僅かな枚数」しかないのですから。しかし「元々が鋳つぶされる前提」で作られた物なので既に「鋳つぶされてしまった」ものも相当量あると思われます。ですので少ないのも当然と言えるのです。
もし、あなたがフィリピンでマル福金貨を大量に見つけたとしたらどうしますか? 後述しますが、もしマル福金貨のまま、マニラの貴金属店に大量に持ち込んだら、フィリピン政府が黙っていません。密かに溶かしてインゴットにしてしまえば誰も騒いだりしませんので、その方が色々な意味で安全なのです。
おそらく、全滅させられた最後の輸送部隊が運んでいた1万5千枚のマル福金貨は、その輸送部隊を全滅させた米軍部隊が奪い取っていったとみるべきでしょう。そしてそれらは今日、マル福金貨の形はしていないと考えるのが合理的です。今現在、いまだに「マル福金貨」の形で残っているものは「「各拠点や守備隊に配分」」された物の「使い残り」ではないかと思われます。
確かに山下奉文大将が受取人ですが、マル福金貨は物資調達用に日本から送られたもので、決して略奪品ではありません。また、各拠点や守備隊に配分もされており、残りは輸送部隊が全滅したので皆目不明ということだと、山下奉文大将が大量のマル福金貨を持っていた可能性は、限りなく低いのではないでしょうか。従って、いわゆる「山下財宝」と関連づけて考えるのは無理があるように思われます。
フィリピンでは現在でもマル福金貨を探し回っている人達が大勢いるそうです。中には周辺住民に迷惑を及ぼすような行為をする輩もおり、フィリピン政府はマル福金貨も含め、いわゆる「山下財宝」を捜索しようする場合、フィリピン政府の環境天然資源省へ1万ペソ(約2万円)の手数料を事前に払うことを義務化しています。
また、見つかった場合の処置についても規定されており、以下のようになっています。
- 文化遺産と判断されたとき → フィリピン政府がすべて没収する
- 公有地で発見されたと → フィリピン政府が75%、発掘者が25%に配分する
- 私有地で発見されたとき → フィリピン政府が30%、発掘者と地主に70%を配分する
決して、発見者にとって有利ではない規定ですが、それでも、現在、海外からやってきた人達だけでも200チーム以上の「捜索隊」がフィリピンの中で金属探知機を使って探し回っているそうです。つまりフィリピンにとっては、マル福金貨も山下財宝も「金のなる木」なのです。
それでも行って、探してみようと思う方は、必ず「所定の手続き」を踏んで下さい。ちなみにジャングル地帯はほとんどがフィリピンの公有地です。このため、ジャングルで発見した場合、25%の取り分になります。さらにもし、それが「文化遺産」と認定されれば、丸ごと没収で取り分は0円です。それでも行って見たいと言う方を止めはしません。それはフィリピン政府の減収につながりますので。
マル福金貨の本来の用途と、堀中佐の手記の内容を考えると、どこかに大量に隠してある可能性は限りなくゼロに近い、と思われます。また、兵隊がそんな大事な物を、どこかに捨てるということも考えづらいので、いくら探しても草むらの影から出て来るという可能性は、ほぼ皆無といってよいでしょう。
【主な参考文献】
- 『月刊収集2020年7月号 Vol45 7』
- 稲村光郎『昭和戦時下の資源回収』
- 結城凛『M資金が動き出す』(ダイアプレス、2018年)
- 堀栄三『情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記』(文春文庫、1996年)
- 松本清張「征服者とダイヤモンド」『日本の黒い霧』(文春文庫、2004年)
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