札束列車マニ30 戦後の経済復興の一翼を担い、列島をひた走った列車があった

マニ30 2012 (小樽市総合博物館・2005年11月撮影、出典:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E3%83%9E%E3%83%8B30%E5%BD%A2%E5%AE%A2%E8%BB%8A" target="_blank">wikipedia</a>)
マニ30 2012 (小樽市総合博物館・2005年11月撮影、出典:wikipedia
これはかつて支払方法が現金一択だったころのお話です。太平洋戦争敗戦の痛手から立ち直り、人々は「明日は今日より良くなる」と信じて生産活動を開始し、懸命に働きました。そんな日本の戦後経済復興を陰で支えたのが、現金を満載して列島をひた走った札束列車『マニ30』です。

新円を届けろ、旧円は回収しろ

かつて鉄道業界のトップシークレットだったのが、現JRグループ旧日本国有鉄道が運行していたマニ30形客車です。マニ30は12両存在し、車籍は国鉄に置いていましたが、実際の所有者は日本銀行と郵政省でした。

この車両は重要な任務を担っていましたが、その運用が鉄道雑誌などで取り上げられる事は無く、国鉄在籍車両すべてが記載されているはずの『輛数表』にもその名前は記載されていません。まるで「そのような車両は存在いたしません」とでも言いたげな扱いです。

なぜそのように国鉄はマニ30の存在を隠したがったのか?それはこの列車が特殊な荷物を運んでいたからです。それはズバリ「日本銀行券」。そう、札束・現ナマを運んでいたからです。

現在では労働者の給与はほぼ銀行振り込みで電子マネーも行き渡って来ましたが、当時は現金手渡し一択でした。

前後の車両との行き来はできない荷物室。コンテナに紙幣が収められた。(出典:wikipedia)
前後の車両との行き来はできない荷物室。コンテナに紙幣が収められた。(出典:wikipedia)

この列車が活躍したのは太平洋戦争後の急激なインフレが進行した時で、紙幣の発行量と流通量が著しく増大した時代です。それに加えて昭和21(1946)年2月17日に実施された新円切換で、新紙幣を送り届け、旧紙幣は回収せねばならず、日銀も旧大蔵省もおおわらわでした。

道路は使えん、専用運搬列車を作れ

ところが当時は国道でさえまだまだ整備が進んでおらず、安全に迅速に大量の紙幣を運ぶには鉄路に頼るしかありませんでした。この現金輸送専用車両マニ30の設計・製造は当時の日本車輌製造と帝国車輌製造が引き受け、国鉄はほとんどタッチしていません。

昭和22(1947)年に設計が始まった専用車両は翌年に完成。防犯を第一に考えられた車両の構造は特殊なもので、1両の中が車掌室以外に3つの部屋に分かれていました。

真ん中の部屋には警備員が乗り込み、その部屋の前後の部屋には現金が積まれます。現金部屋はかなり広くて、1度に数百億円の札束が積み込めました。警備員は一旦乗務に就くと長時間車両の外に出られないので、室内にはベッド・トイレ・ミニキッチン・居住スペースが設けられ、車両内で支障なく生活できるように設計されています。

リクライニングシートが設置されている警備員添乗室。後方の荷物室に通じている。(出典:wikipedia)
リクライニングシートが設置されている警備員添乗室。後方の荷物室に通じている。(出典:wikipedia)
警備員添乗室の寝台兼用の座席。(出典:wikipedia)
警備員添乗室の寝台兼用の座席。(出典:wikipedia)

外部からの襲撃に備え、窓は厚さ18mmの防弾ガラス製、常に外部との連絡が取れるよう無線機も常備。さらには非常事態を知らせるサイレンや、車掌室のモニターにつながる監視カメラまで設置されていました。

当初は秘密でも無かった

国鉄がそんな車両は無いように振舞ったマニ30ですが、初めからそんな極秘扱いではありませんでした。さまざまな鉄道雑誌で普通に取り上げられ、車両図面や写真も掲載されています。

鉄道友の会が発行する『RAILFAN』では、昭和53(1978)年新造のマニ30をブルーリボン賞にノミネートするなど、鉄道ファンの間ではその存在は認知されていました。しかし同年国鉄が発行する『客車形式図』からマニ30の存在は抹消され、その後国鉄がマニ30について言及する事は無くなります。

現金輸送車の特殊性が重く見られ、世間の目からマニ30の存在を隠したいとの国鉄の意思が優先されたようですね。どのルートを走るのか、どこで荷物の積み下ろしをするのかなどは、国鉄内部でもトップシークレット扱いになって行きました。

鉄道趣味雑誌『Rail Magazine』の当時の編集長が、自身が作ったマニ30の模型写真とその図面を誌面に掲載したところ、国鉄から呼び出しを食らったそうです。「なぜマニ30関係の記事を載せたのだ」と叱責を受けたとか。同じく鉄道模型雑誌『とれいん』編集長も呼び出され「マニ30の列車番号や運転日の記録の詳細を発表するのはやめて貰えないか」と関係者から要請されます。

鉄道雑誌にとって情報源であり、飯のタネである国鉄から睨まれるのはおまんまの食い上げです。編集長たちは従わざるを得ませんでした。こうしてマニ30の存在は闇の中に埋もれて行きます。

札束はどのようにして全国へ届けられたのか

さて、このように厳重な警備体制が取られた車両に積み込まれる紙幣はどこで作られていたのか?お札つまり日本銀行券を印刷できる大蔵省印刷局の工場は、東京都港区虎ノ門・同北区滝野川・小田原・静岡・彦根・岡山の6ヶ所にありました。

刷り上がった紙幣は、出来るだけ人目に触れぬよう気を配って列車に積み込まねばなりません。工場からまずは自動車で国鉄の駅まで運ばれます。滝野川を例に挙げると、当時の地図では尾久(おく)客車操車場や、南千住駅に併設されている隅田川貨物駅が目に入ります。

国鉄は何も言いませんが、おそらく車で隅田川貨物駅まで運ばれた紙幣はそこでマニ30に積み込まれ、後は鉄路を通って全国の日本銀行の支店まで運ばれたと考えられます。

国鉄がJRに移行した後もマニ30は高速貨物列車に連結されて走って居ましたが、平成4(1992)年から紙幣の輸送は順次自動車へと切り替わって行き、平成15(2003)年、日本銀行券の鉄道輸送が終了するとともに、1両を残して廃車となります。最後の1両は、北海道小樽市総合博物館に寄贈されました。

おわりに

イギリスの大列車強盗事件、東京府中市の3億円盗難事件、どちらも大量の札束が搬送された時代だからこそ起きた事件です。マニ30が襲われなくて本当に良かったです。


【主な参考文献】
  • 小川裕夫『鉄道「裏歴史」読本』(吉川弘文館、1960年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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