吉村貫一郎は新選組で最強の男だったのか? フィクションに隠された真実とは

 『壬生義士伝』では、新選組最強の男とうたわれ、妻子を養うために新選組に入隊し、悲しい最期を遂げる吉村貫一郎。もちろんこれは、あくまでフィクションである。実際にはどのような人物だったのか。本当に実在したのか。その最期の様子や時期はいつなのか。

 今回は、わからないことだらけの吉村貫一郎に少しでも近づいてみようと試みた。

盛岡藩での吉村貫一郎

 「吉村貫一郎」と言う名は、新選組の名簿には書かれているが、彼の出身地とされる奥州南部盛岡藩の史料には見当たらない。彼の本名は「嘉村権太郎」と言い、新選組入隊に際して吉村貫一郎と改名をしたらしい。志を貫くという意味で貫一郎と言う名にしたというのだが、この理由についての確かな根拠はない。

 貫一郎は、天保10年(1839)の生まれで、父は盛岡藩目付の嘉村弓司(瀬兵衛・弥次兵衛)である。『盛岡名人忌辰録』では、新当流の高弟だったとされているところから、盛岡在中の頃から剣の才が認められていたようである。

江戸で剣術修行をする

 文久2年(1862)12月に軍役に就き、同藩の重臣・遠山礼蔵の指揮の下、江戸へ出た貫一郎は、元治元年(1864)には北辰一刀流の名門道場・玄武館に入門している。

 このころ、剣術道場では、時勢を憂い、多くの若者が様々な議論を戦わせる場ともなっていた。貫一郎も玄武館で尊王攘夷の思想に触れ、彼なりに時代の趨勢を注目していたかもしれない。

 慶応元年(1865)1月、貫一郎は盛岡藩へ戻るように命令されるが、それに従わずに出奔した。玄武館での剣術修行、そして仲間との議論の中で漠然と何かをやり遂げたいという思いでもあったのだろうか。それとも他に理由があったのか、そのあたりは明らかになっていない。同年4月、江戸での新選組隊士募集に応じ、「吉村貫一郎」は新選組に入隊した。

新選組での吉村貫一郎

 当初、平隊士として入隊した貫一郎は、同年秋には諸士調役兼監察に抜擢されている。その後は剣術指南役にも就いているところから、彼の真摯で真面目な性格、そして剣術の非凡さが想像できる。

広島での探索活動

 同年9月に勅許が出された長州再征(第2次長州征伐)に伴い、11月4日、大目付・永井尚志の長州詰問使として、新選組局長・近藤勇を始め、伊東甲子太郎、武田観柳斎、山崎烝、尾形俊太郎、服部武雄らとともに、貫一郎も広島まで随行する。

 この広島行きは、長州征伐を行う前の下調べ、長州への取調べのようなものである。ちなみに近藤はこの時、長州にまで行くつもりだったが、実現できていない。

 貫一郎は、近藤らが帰郷した後も山崎烝と共に広島に残留し、情報収集を行っていた。慶応2年(1866)9月、第2次長州征伐が始まった後しばらくは、戦の情報も集め続けていた。

 同年9月12日に三条制札事件(土佐藩士が制札を引き抜こうとするのを新選組が阻止しようとして戦闘となった事件)が起こった。19日になり土佐藩と会津藩・新選組が話し合う場が持たれたのだが、その場に貫一郎も出席していたという記録があるため、彼は9月中頃には京に戻っていたことがわかる。

交渉役として活躍

 新選組の屯所は、結成当初から慶応元年(1865)3月の頃までは、現在の京都市中京区の壬生にある八木邸と旧前川邸、それに旧南部邸であった。その後、西本願寺に屯所を移し、慶応3年(1867)には、不動堂村、現在の京都駅の西北、リーガロイヤルホテル京都付近に移転している。

 この移転に関して、貫一郎は山崎烝とともに、西本願寺と交渉して屯所を建てる金を出させている。また、伊東甲子太郎暗殺の時には、これも山崎らとともに、近藤の妾宅で宴を行う手配をしていたという。

 同年12月7日の天満屋事件では、坂本龍馬を暗殺した犯人だと誤解された紀州藩三浦休太郎の護衛の任に当たっていたが、この時共に護衛をしていた永倉新八の残した記録には、襲撃してきた土佐藩士と貫一郎が斬り合ったという記載はない。

 剣術指南を任せられる腕を持ちながら、貫一郎は剣をふるうよりも交渉役としての活躍が目立っていたようである。これはおそらく彼の温厚でまじめな性格が影響しているのではないだろうか。

鳥羽伏見の戦い

 慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いには、貫一郎も新選組隊士として参戦しているが、その後の行方は定かではない。当時薩摩軍が陣を敷いていた伏見桃山の御香宮に残る“戊辰東軍戦死者霊名簿”には、

「正月六日淀において戦死 諸士調役 嘉村権太郎」

とある。また“戦亡殉難志士人名録“では、

「正月三日から六日の山城。鳥羽、八幡、山崎各地の先頭において戦死した」

とある。

 嘉村家の過去帳では「明治3年1月15日 嘉村権太郎 摂州伏見戦死 享年三十一」となっているが、鳥羽伏見の戦いは慶応4年、つまり明治元年の1月3~6日ごろにかけてのことなので、これはおそらく誤って残されたものだろう。

吉村貫一郎の最期の様子

 鳥羽伏見の戦い以後の貫一郎の消息は、正確にはわかっていないが、戦いの最中、もしくはそのしばらく後には、亡くなっていたと考えられる。戦死したのか、戦いの中で受けた傷がもとで亡くなったのか、そのあたりもわかっていない。

 しかし、西本願寺の侍臣・西村兼文が書いた『壬生浪士始末記(新撰組始末記)』には、このような記述がある。以下わかりやすく意訳している。

“新撰組吉村貫一郎は、元奥州南部脱藩浪士で、文武両道、書も上手い人物だった。(中略)鳥羽伏見から敗走し大坂へ来たが、近藤・土方以下(新撰組)はすでに江戸へ向けて発っていた。(貫一郎は)当時網浜にあった南部藩邸へ行き、旧知の留守居役に、これからは勤王の心を持って働くので、しばらく匿って欲しいと願った。留守居は激怒し、「一度は脱藩し、幕府のために働いてきたものが、今更勤王のために尽くすとは誠意がない。幕府が滅びそうだからと心変わりをするのは、真に不義である。」そして、士道を立てて、切腹しろと言われ、(貫一郎は)その場で切腹した”

 これが真実なのかどうかはわからないが、現在知られている吉村貫一郎の最期は、この記述がもとになっているようだ。

数々の逸話は本当なのか

 一般に知られている吉村貫一郎は、妻子5人を養っているはずだ。しかし、ここまで紹介してきた彼には、妻子を持っていた様子がない。

 振り返って考えてみると、貫一郎が江戸へ出てきたのは、24歳の頃で、3年後には出奔し、新選組に入隊しているのである。彼は独身だった、もしくは妻はいたものの、子はいなかったのではないだろうか。

『新選組物語』の吉村貫一郎

 子母澤寛氏が著された新選組三部作の一冊『新選組物語』“隊士絶命記”では、吉村貫一郎について次のように描かれている。

“妻子5人を養うために、単身大坂へ出てきた貫一郎。妻子に仕送りをしながら、その後新選組に入隊し、諸士調役兼監察という役に付き、やはり妻子に仕送りをしていた。(中略)鳥羽伏見の戦いの際、味方とはぐれ、何とか大坂へのがれてきたが、新選組の連中はすでに江戸行きの船に乗っていた。仕方なく盛岡藩の藩邸へ行って、留守居役の大野次郎衛門を頼ったが、不忠を責められ、切腹した”

 前述の『壬生浪士始末記』と酷似しているが、ただ『新選組物語』では、貫一郎の最期の様子も具体的に描かれていて、彼が斃れていた側に小刀と二分金十枚ほどが入った紙入れ(財布)が置かれ、壁に妻子に渡してほしいという文字があったというのだ。そして、この話は元新選組幹部・島田魁が壬生屯所となっていた八木邸の次男に語ったと締めている。

 新撰組三部作は、ノンフィクションのように勘違いをされている時期もあったが、今では、聞き書きを基にしたフィクションであったということは、よく知られている。つまり子母澤寛は、『壬生浪士始末記』をもとにして、架空の吉村貫一郎を描いたのであって、史実の貫一郎とは別人である。もちろん大野次郎衛門という留守居役も実在の人物ではない。

『壬生義士伝』で完成したイメージ

 『新選組物語』をもとに数十年後に書かれたのが『壬生義士伝』である。この作品があまりにも名作であったことから、この小説の主人公こそが史実の吉村貫一郎その人であるように勘違いする人が多く見られた(実は私もその一人だ)。

 本当の吉村貫一郎は、南部盛岡藩出身で、新選組最強ではなかったかもしれないが、剣術指南役を任されるだけの腕があり、調役兼監察として重要な役割を担い、おそらく鳥羽伏見の戦いの最中もしくはその後に亡くなった…

 ここまではフィクションの貫一郎とよく似ているが、妻子に関わる状況は完全なフィクションであるというのが結論である。なんだか少し味気ないような気もするが、吉村貫一郎という男が新選組隊士として活躍したという事実に間違いはない。

おわりに

 吉村貫一郎は、当時の若者らしく尊王攘夷への思いを果たすべく、縁あって新選組に入隊した。そして与えられた任務を、真面目に必死で遂行し、歴史の激しい流れの中で人知れず命を終えた。

 ところが、何をどう間違って彼の最期が伝わってしまったのか、そのおかげで今や好きな新選組隊士の上位にも食い込もうかというほどになっている。150年以上の後の日本で、こんなに人気者になっていると知ったら、貫一郎はどう思うのだろう。情けないような恥ずかしいような表情で「おもさげながんす(申し訳ございません)」とでも言っているかもしれない。


【主な参考文献】
  • 伊東成郎『新撰組二千百四十五日』(新潮社、2007年)
  • 前田政記『新選組全隊士徹底ガイド』(河出書房新社、2004年)
  • 歴史群像シリーズ『新選組隊士伝』(学研プラス、2004年)
  • 『新選組史料集』(新人物往来社、1998年)
  • 子母澤寛『新選組物語』(中央公論新社、1977年)
  • 盛岡市都南歴史民俗資料館 となん歴民だより 2009年9月15日号

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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