勝海舟の父「勝小吉」の破天荒な生涯と妻・信の肝っ玉!
- 2023/06/13
坂本龍馬の目を世界に向け、江戸無血開城をやり遂げ、徳川家を守り続けた勝海舟。江戸弁で無頼なイメージが強い勝海舟だが、彼の父親・小吉は、海舟に3重くらい輪をかけたくらいの無頼者だった。
今回は、勝小吉の生涯と、夫に負けず劣らずの肝の太さを持っていた妻・信について、小吉が残した本を中心に紹介したい。
小吉が自身の生涯を振り返ってしたためた『夢酔独言(むすいどくげん)』は、ちゃきちゃきの江戸弁で書かれている。まるで小吉がそこで話しているような錯覚に陥るような、テンポの良い文章で、とにかく面白いのだ。
今回は、勝小吉の生涯と、夫に負けず劣らずの肝の太さを持っていた妻・信について、小吉が残した本を中心に紹介したい。
小吉が自身の生涯を振り返ってしたためた『夢酔独言(むすいどくげん)』は、ちゃきちゃきの江戸弁で書かれている。まるで小吉がそこで話しているような錯覚に陥るような、テンポの良い文章で、とにかく面白いのだ。
勝小吉の生い立ち
小吉は、旗本男谷(おたに)平蔵の三男として、享和2年(1802)に生まれている。剣術家で「幕末の剣聖」とも呼ばれた男谷精一郎信友は、甥にあたる。生家・男谷家
幼い時から目が不自由だった小吉の祖父は、越後の農家出身だった。鍼(はり)を学ぶために江戸に出て、治療代を資金として金融業を営んでいる。その財で盲人の最高位である検校の称号を得て、米山検校と名乗った。米山検校は、子の平蔵に男谷家の御家人株を買い与え、ここに旗本・男谷家となる。ただ小吉は三男であったため、男谷家を継ぐことはなく、7歳で勝家の養子となった。
養家・勝家
勝家は、天正年間(1573~92)に鉄砲組の同心にかかえられた家康以来の由緒正しい御家人である。江戸中期には、旗本の資格を得ているが、小吉の養父である元良は、役につけないまま生涯を終えている。7歳で勝家へ入る
小吉は、7歳で勝家の養子となるが、すでに養父にあたる元良は他界し、元良の母とまだ幼い娘・信が残っていただけだったため、勝家は深川の男谷の屋敷内で暮らすこととなった。勝小吉となってはいたが、いまだ実父の保護と厳しいしつけの下に置かれていた。毎日喧嘩ばかりしていた小吉は、父に叱られどおし。ある時はあまりの悪さに、下駄で頭を殴られたこともあると『夢酔独言』には書かれている。
破天荒すぎる日常
ここからは小吉の暴れっぷりを『夢酔独言』から見てみよう。小吉の文章にはある程度大袈裟に書かれている部分もあると思うが、それにしても常軌を逸した行動が続く。以下、少しわかりやすく意訳してみた。小吉7歳の時
“凧に関わるいさかいで2,30人をひとりで相手にしたが、かなわなかった。情けなくて切腹しようと思い、泣きながら脇差を抜き、腹を切ろうとすると、近くにいた白子屋という米屋が止めて家まで送ってくれた。その様子を見た近所の子供がみんな俺の手下になった”
その後も喧嘩に明け暮れる小吉。いつも泥だらけになっていたようだ。
小吉9歳
小吉は人並みに文武鍛錬の機会が与えられていたが、勉学の方はほとんど身が入らず、実は20歳を過ぎるまで字が書けなかった。しかし、剣術や柔術の才はあった。“柔術の稽古場では、みんなが俺を嫌った。(理由は書いていない)ある寒げいこの夜、師匠から許しが出てみんなで食べ物を持ち寄ったのだが、さてみんなで食べようという時になって、俺だけ帯で縛られ、つるし上げられた。その下でうまそうに食べる奴ら。俺は悔しくて上から小便をしてやった。いい気味だと思ったよ”
小吉は特に馬の稽古が好きだったようで、12歳のころから本格的に学問も始めたのだが、学問所へはほとんど通わず、馬の稽古ばかりしていた。そのおかげで実兄や実父には、いつも叱られていた。
小吉14歳
勝家の祖母と小吉は、はじめから相性が悪く、小吉はことあるごとに祖母、小吉は「ばばあ」と書いているが、その祖母に意地悪をされている。”普段の食べ物、俺にはまずいものばかり食わして、憎いばばあだ“
“俺が自分で煮炊きをするようになると、しょうゆ差しに水を入れたり、ことごとく意地悪をしやがる”
“よそから菓子をもらっても、俺には隠している。俺の着物を一枚作っただけで回りに言いふらして良い祖母のような顔をする”
居心地の悪い勝の家から、小吉はとうとう家出をした。
“14の年、男なら何をしても一生食っていけるから、上方へ行こうと思った。7,8両ばかり盗み出して腹に巻き、まず品川まで来たが、なんだか心細かった”
小吉の家出旅
家出旅では、途中で出会った二人連れに着物も刀もお金も取られている。だが小吉は江戸へ戻らない。宿の主人に抜参りの姿で歩くように教えられた小吉は、手に柄杓を持ち、博徒の親分や武家屋敷などで世話を受け、一夜の宿を借りながら伊勢へたどり着いた。不思議な人望
破天荒な行動が目立つ小吉であるが、この男は天性の人たらしのようである。どこに行っても、誰かの助けがあったり、可愛がられたりと、何とか切り抜けている。結局家出から4ヶ月ほどで江戸へ戻る小吉だが、その帰りは漁師の家で世話になり、うちの子どもになれとまで言われている。大怪我をする小吉
この旅で、小吉はがけから落ちて睾丸を強打している。何とか家までは帰ってきたが、それから2年間、その時の傷が原因の痛みでほとんど外出もできない状態だった。ちなみに小吉の息子である勝海舟も幼いころに犬に睾丸を噛まれて生死の境をさまよっている。妙なところが似るものだ。
座敷牢の小吉
小吉は、実は酒もたばこもほとんどやらないが、吉原へは頻繁に通っている。親からもらった刀も質屋に入れ、方々に借金をしてまで吉原へ行っているのだ。とはいえ、収入がほとんどないのであるから、借金はたまる一方、家族にも顔向けできなかったせいか、すでに所帯を持っていたにもかかわらず、小吉は21歳にして2度目の出奔をしてしまった。今回も3ヶ月ほどで戻ってくると、さすがに激怒した実父によって小吉は、座敷牢に閉じ込められた。
やっと読み書きを覚える
何とか座敷牢から逃げようと画策していた小吉だが、“よくよく考えたところ、みんな俺が悪いから起きたことだ、と気が付いたから、檻の中で手習いを始めた”
それまで自分の名前も書けなかった小吉だが、座敷牢に閉じ込められた約3年間でやっと読み書きができるようになる。ついでに子供まで作っている。長男・麟太郎のちの勝海舟である。
本所の男伊達
無役の小吉は、俸給だけでは暮らしが立ち行かず、小道具の売買や刀剣の目利きなどで生計を立てていた。近隣でいざこざが起こると仲裁役として活躍し、「本所の男伊達」と言われ、慕われていたという。幕末最強の男
小吉の甥である男谷精一郎は、力の斎藤・位の桃井・技の千葉と称された江戸三大道場でも歯が立たないと言われたほどの剣客である。ところがこの精一郎を小吉は片手でひねったという逸話を持っているのだ。幕末の侠客として有名な新門辰五郎も小吉については「喧嘩で右に出る者はいない」と言っている。まさに幕末最強の勝小吉である。
小吉の大芝居
天保元年(1830)小吉夫婦は、男谷家の敷地内から旗本・岡野孫一郎の地所内に移っているが、この岡野家の知行地での御用金取り立てに小吉が大芝居をうったことがある。『夢酔独言』では、その時の様子が詳細に書かれているが少し長いので、かいつまんで説明しておこう。“岡野の家来と偽り、友を連れて知行地の上方へ行ったが、村では今までにも相当額の御用金を用立ててきたのだから、これ以上は出せないの一点張り。俺はじっくりと腰を据えて交渉するが、らちが明かない。そこで村人全員集めた席に白装束で登場し、こう言った。
「集金ができずに帰ることはできない。ならば責任を取って今から皆の前で切腹する。みなの者、俺の切腹をよくよく見ておけ」
村人たちは大慌てだ。そして結局600両の大金を召し上げた“
これは、芝居のような嘘のような、でもホントの話である。
妻・信の肝っ玉
信は、勝家の娘で、文政2年(1815)に結婚している。無頼者・小吉の妻となった信とはどのような女性なのか。さぞ大変だったろうと思うのだが、どうもこの信という女性も自由奔放でものに動じない人だったようだ。『夢酔独言』に信のとても格好いい逸話が記されている。“ある時、俺は武家の妻に惚れてしまった。それを信に打ち明けると、信は「その女をもらってあげよう」と言うではないか。そして「その方の家へ私が参って、ぜひともうちの小吉のもとへ来てくださいと言うつもりですが、向こうも武士の家です。もしも叶わない時は、私が自害してでももらい受けてきます」と言った。
そこで俺は信に自害用の短刀を渡して、遊びに出かけた。だが、南平(占いやのような仕事をしていた小吉の知人)から、女難・剣難の相が出ていると言われ、信とのいきさつを話した。すると南平は「妻にもっと情をかけてやれ」と言う。よくよく考えれば俺が悪かったと思い、急いで家に帰ってみると、信が遺書を書いて家を出るところだった“
小吉も小吉だが、信の肝の座りっぷりもすごいものである。いやもしかすると、小吉は必ず戻ってくると思っていたのかもしれない。どちらにしても、度胸満点の女性である。
決して俺の真似をするな
小吉が『夢酔独言』を書いた理由は、自らの生涯を反面教師として、戒めにしてほしいという思いからだった。自分の生き方を自慢するためではない。本の冒頭で小吉は言っている。
“息子(勝海舟)は、益友をともとして、悪友に付き合わず、武芸に勤しみ、俺には孝心してくれて(中略)俺たち夫婦が少しも苦労のないようにしてくれるから、本当の楽隠居になった”
最後では、男子の生き方について、語っている。小吉自身の生きざまとは正反対の生き方を、である。
“四十二になってはじめて人の道や君父(主君や父親)に仕えること、親を大切に仲良くし、妻子・下人の慈しみ・情けをほんの少し知ったことで、これまでの所業がおそろしくなった。(この本を)よくよく読んでしっかりと考えて欲しい”
四十にして惑わずどころか、迷い反省しまくっている。人生の最期が見えてきてやっと落ち着いた小吉の、ちょっと困った顔が浮かぶようである。
終わりに
喧嘩に明け暮れ、好き放題に生きた小吉であったが、なぜか他人に頼られ、人に好かれ、気づくと何となくうまい具合に事が運んでいる。それも人徳なのだろうか。勝海舟は、父のことを「物事にこだわらず、いったん承諾したことは、必ず実行する性質だった」と評している。反対に、ちょっとした恨み言も残しているのだが、海舟にとって父と言う存在は、反面教師であり、同時にあこがれの存在であったのかもしれない。
小吉は、嘉永3年(1850)年に亡くなっているため、勝海舟の活躍を見ることはなかった。だが信は、維新での海舟の姿を見ている。江戸無血開城を成し遂げた胆力と根性は、まさに小吉と信のDNAそのものである。そんな息子を信は、誇らしく思っていたことだろう。
【主な参考文献】
- 勝小吉(著)勝部真長(編)『夢酔独言』(講談社、2015年)
- 大口勇次郎『勝小吉と勝海舟』(山川出版社、2013年)
- 『驚愕!歴史ミステリー 坂本龍馬と幕末暗黒史』(コスミック出版、2009年)
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