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【やさしい歴史用語解説】「ちょんまげ」
- 2022/07/04
明治になってから「あの髷の形ってなんだっけ?」という話になり、「ゝ(ちょん)」という字に形が似てるから、ちょんまげと名付けられたそうです。
起源は奈良時代までさかのぼり、冠(かんむり)を被りやすくするために髪を束ねるスタイルが流行しました。これを冠下(かんむりした)と呼びます。やがて冠は烏帽子へと変化を遂げ、貴族から庶民に至るまで烏帽子を被ることが日常となりました。
平安時代末期から鎌倉時代になると、武士の間で月代(さかやき)を作ることが流行します。兜を被ると蒸れてかゆくなるため、いっそのこと毛を失くしてしまえ!となりました。額から後頭部にかけて毛を抜いたスタイルです。だんだんとちょんまげに近づいてきましたね。
さらに室町時代に入ると、武家や庶民の間で烏帽子を被らない露頂(ろちょう)が広まります。烏帽子を被るのは公式の場だけ。といった習慣に変化していったようです。この頃になると高く髻を結い上げた「片わな」や、毛先を豪快に遊ばせた茶筅髷など、個人の好みに合った髪型が現れています。
ところが月代にしている場合、維持がとても大変です。実は頭を剃るのではなく、毛を一本一本抜くという作業が必要でした。ちなみに来日した宣教師ルイス・フロイスは、「武士の頭が血だらけになっている」と記しているほど。毛を抜くたびに痛みを伴いますから、それが苦手な人は月代スタイルにしないという自由もあったようです。
さて、江戸時代には本格的なちょんまげが登場します。そもそも男性が歳を取ると毛髪が薄くなる人が多く、そのような人が人前に出て恥ずかしい思いをしなくても済むよう、成人男性がすべて月代にしたのが始まりでした。
寛永年間を過ぎる頃には、従来の茶筅髷から、ちょんまげを指す「二つ折」がスタンダードとなります。やがて髷の先っぽを頭の上にチョコンと乗せるスタイルが一般化したようですね。
また、武士と庶民では微妙に月代や髷の感じが異なります。
定番は「銀杏髷(いちょうまげ)」というスタイルですが、武士は髷を長く月代は狭くといったイメージ。逆に庶民は髷を小さくした「小銀杏(こいちょう)」で、月代は広くなっています。
また商人ですとさらに髷を小さくし、逆に職人や町火消といった威勢の良い人たちは髷を太く大きめにして、男らしさを強調していたようです。
また江戸っ子気質や粋っぽさを示すちょんまげも登場しました。これが「本多髷」と呼ばれるもので、月代がとにかく広く、ネズミの尻尾のように細く作った髷を高く結い上げ、急角度で頭頂部に垂らすというものでした。
とりわけ人気のあった芝居役者に愛好家が多く、吉原の遊郭へ出入りするなら、この髷でないと相手にされないと言われたほど。まさに流行の最先端だったわけですね。
やがて江戸時代も終わり、程なくして断髪令が布告されます。長らく日本人男性の髪型もついに洋式文化の発展とともに時代遅れとなったのです。
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