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【やさしい歴史用語解説】「院政」
- 2022/08/01
今回は「院政(いんせい)」についてお話してきましょう。現代でも社長や大臣を退いてからも権力を握り続けることを「院政」と呼びますよね。実際に歴史用語としての「院政」も同じ意味を持ちます。
奈良時代に日本が律令国家としてスタートした頃、全国の土地と人民は国のものであり、そこから上がる税収を国家予算としていました。ところが時代が経るにつれて庶民が耕作を放棄したり、逃亡が相次ぐようになり、税収が目減りしていきます。そこで苦肉の策として取られたのが「墾田永年私財法」という制度でした。
これは「開墾した土地は自分の物にしていいですよ」という法律で、開発した者には減免措置が取られたのです。ところが開発事業者となったのは有力貴族たちでした。すなわち自分たちが作った法律で甘い汁を吸おうとしたわけです。
減免措置はなし崩しとなり、彼らにとって都合が良いように解釈され、やがて貴族の私有地である荘園が拡大していきました。
貴族たちが経済的に潤ういっぽうで割を食った人がいます。それが天皇でした。なんせ「土地と人民は国のもの」という建前ですから、天皇に個人的な資産はありません。ますます経済的に窮乏していくばかりで皇室財政は火の車でした。ついには皇子や皇女を皇籍臣下させてまで口減らしをしたほどです。
ところが、これに対抗した人物がいました。初めて院政を敷くことになる白河上皇です。貴族たちが我が世の春を謳歌するなら、こちらも望むところだ。と言わんばかりに譲位して上皇となり、何をするかといえば法勝寺などの大寺院を建立したのです。
当時の荘園は、有力者の権威を利用して「不輸・不入の権」を獲得することが一般的でした。皇室や寺社などの有力者に土地を寄進し、後ろ盾を得ることで、国衙(すなわち行政機関)からの課税や立ち入りを免れていたのです。
白河上皇はすでに天皇を退位した私人ですから、個人資産をどれだけ増やしても構いません。どんどん荘園から土地を寄進させることで莫大な富を築いたのです。さらに上皇は出家して白河法皇となりました。これで自ら大寺院を運営できることになり、大手を振って蓄財に励んだといいます。
こうなると大金持ちとなった白河法皇にとって怖いものなどありません。莫大な経済力を背景に政治へ介入し、天皇の皇位継承すら法皇の胸先三寸となりました。まさにキングメーカー的な存在でしょうか。
また天皇より強い力を持つ法皇の周囲には、優れた人材が集まるようになります。これを「院の近臣」といい、まるで日本に朝廷が二つあるかのような時代を迎えました。まさしく院政は政治の主流となったのです。
白河法皇ののち、退位した天皇が続々と院政を行うのですが、その存在は「治天の君」と呼ばれています。いわゆる「天下を治める統治者」という意味となり、天皇としての地位は院政までの繋ぎでしかありませんでした。
こうした状況は政治の流れに悪影響を及ぼします。平清盛が台頭するきっかけとなる保元の乱などは、治天の君VS天皇の勢力争いという側面がありますし、結果的に武家政治が誕生したのも、そんな政治的な捻じれが深くかかわっているのです。
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