「卿局(藤原兼子)」後鳥羽天皇の乳母として院政に関わった女性政治家

卿局(藤原兼子)のイラスト
卿局(藤原兼子)のイラスト
卿局(きょうのつぼね)こと藤原兼子(ふじわらのけんし)は、父が刑部卿であったことからこの通称で知られます。他、位階の昇進に合わせて「卿典侍」「卿三位」「卿二位」とも呼ばれました。卿局は後鳥羽天皇の乳母(めのと)の立場から重んぜられ、後鳥羽院政に深く関わりました。

後鳥羽天皇の乳母

藤原兼子(以下、便宜上卿局で統一)は、刑部卿藤原範兼(のりかね/のりかぬ)の娘として、久寿2(1155)年に生まれました。

父の範兼は歌人でもあり、二条天皇の近臣として同じ歌人の源頼政や俊恵らと親しく付き合いました。その父は長寛3(1165)年4月26日に亡くなり、卿局は姉の範子とともに、範兼の養子になっていた叔父の範季に養育されることになりました。

※参考:卿局(藤原兼子)と後鳥羽天皇の人物相関図
※参考:卿局(藤原兼子)と後鳥羽天皇の人物相関図

養父となった範季は、妻が平教盛の娘(教子)であった関係から幼い後鳥羽天皇を養育していました。卿局・範子姉妹はその関係から後鳥羽天皇の乳母になったと思われます。また、範季の娘・重子(のちの修明門院/しゅめいもんいん)は後鳥羽天皇の寵愛を得て3人の皇子を生み、うちひとりの守成親王はのちに順徳天皇となりました。

さらに、姉・範子と僧の能円の娘・源在子(のちの承明門院/しょうめいもんいん)も重子に先んじて後鳥羽天皇の後宮に入っており、為仁親王(のちの土御門天皇)を生んでいます。つまり、卿局の家は後鳥羽天皇と何重にも深く結びついていて、近臣になる環境ができていたのです。

同時代の天台宗の僧・慈円の歴史書『愚管抄』によれば、卿局は

「ヒシト君ニツキ参ラセテ。カカル果報ノ人ニナリタル也」
(『愚管抄』第五巻より)

とあり、後鳥羽天皇の乳母として常にそばについて世話をしていたために果報の人になったことがわかります。

卿局が史料に登場するのは建久9(1198)年正月です。九条家の家司として仕えていた藤原長兼の日記『三長記』の中に、姪・在子所生の土御門天皇の下級女房(位階は正六位上)として登場します。

初見ではこのように低い身分ですが、後鳥羽天皇が譲位して上皇となり、院政を開始するとどんどん昇進していき、翌正治元(1199)年正月には典侍(ないしのすけ。内侍司の次官で、尚侍/ないしのかみ に次ぐ位。上級女官)に、さらに2年後には従三位に叙せられました。卿局の権勢は、歌人・藤原定家の日記『明月記』の中で「権門女房」と評されるほどでした(定家自身も卿局のおかげで従三位になった)。

長らく独身であった卿局ですが、典侍になった45歳の時に藤原(葉室)宗頼と結婚しました。しかし建仁3(1203)年に死別し、すぐに太政大臣の藤原(大炊御門/おおいのみかど)頼実と再婚しています。

鎌倉幕府との関わり

卿局の政治への関わりを見てきましょう。とくに目立つのが、幕府政策への関わりです。

元久元(1204)年12月、13歳の3代将軍・源実朝は、坊門信清の娘を正室として迎えました。信清は後鳥羽天皇の母方の叔父にあたり、ほかにも後鳥羽上皇の後宮に入った坊門局などの娘がいます。この婚姻を斡旋したのが卿局であったといわれています。坊門信清の娘は卿局の養女でした。

実朝とこの娘との間に子が生まれればよかったのですが、長らく恵まれませんでした。これには実朝の母・政子も悩み、建保6(1218)年に熊野詣でをした際に京へ上り、卿局と面会しています。

その時ふたりの間で密約が交わされ、実朝の次の将軍として後鳥羽上皇の皇子の冷泉宮頼仁親王(母は坊門信清の娘の坊門局)か六条宮雅成親王(母は卿局の従姉妹の修明門院)をのいずれかを下向させることを決めました。特に頼仁親王は実朝室の甥にあたり、卿局によって養育されていました。再び、卿局の息のかかった人物を鎌倉へ送り込もうと考えたわけです。

また、政子が京に滞在中、卿局の斡旋によって従三位に叙せられ、同年中さらに従二位に叙せられています(従二位への昇叙は平時子/二位尼を先例とする)。

その翌年、実朝が甥の公暁(頼家の遺児)によって暗殺されました。幕府は約束どおり頼仁親王を鎌倉へ送ってほしいと願いましたが、後鳥羽上皇が拒否。卿局と政子の密談はもちろん後鳥羽上皇の意思に沿ったものでしたが、実朝暗殺により状況が変わったためか、最終的には九条道家の子・三寅(のちの頼経)が送られることになりました。

没落

承久3(1221)年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時追討の院宣を発し、朝廷と幕府の戦いが始まりました(承久の乱)。しかし京へ攻め上った幕府軍はあっという間に上皇軍を破り、後鳥羽上皇は隠岐へ配流となりました。

当然、後鳥羽上皇と近い卿局の一族も連座しました。養父・範季の子・範茂は上皇軍を率いて戦った人物で、敗北後に処刑が決まっていましたが、鎌倉に護送される道中で自死を選んで相模国の早川で入水しました。卿局自身は生き残ったものの勢力を失い、寛喜元(1229)年8月16日に75歳で亡くなりました。卿局の邸や荘園などの財産の多くは、卿局の猶子となっていた従姉妹の修明門院に譲られています。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本歴史地名大系』(平凡社)
  • 坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中央公論新社、2018年)
  • 五味文彦『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか』(角川学芸出版、2012年)
  • 渡辺保『人物叢書新装版 北条政子』(吉川弘文館、1985年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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