「土御門通親(源通親)」村上源氏の全盛期を築いた平安末期から鎌倉時代初期の政治家
- 2022/11/04
土御門通親(つちみかど みちちか)は、親平家派の公卿として高倉天皇の近臣となり、平家が滅亡すると後白河院の近臣に転じて政治的地位を守りました。また後鳥羽天皇の乳母夫、土御門天皇の外祖父として朝廷で実権を握り、村上源氏の全盛期を築きました。
【目次】
村上源氏
通親の生まれた年はわかっていませんが、没年から逆算すると久安5(1149)年に生まれたと考えられています。父は内大臣まで昇り、久我(こが)内大臣と称された源雅通、母は鳥羽院寵愛の后・美福門院とその娘・八条院に仕えた女房(典薬助藤原行兼の女)です。父の雅通は藤原得子(とくし/なりこ/のちの美福門院)が立后した時に皇后宮権亮に任ぜられて長く使えていたうえ、鳥羽院の近臣で美福門院の従兄弟にあたる藤原家成の妹を妻にしていたため、鳥羽院や美福門院に近い立場にありました。通親の母とはその中で出会い結ばれたものと思われます。
通親が生まれた家は、平安中期の村上天皇の3人の皇子を祖とする賜姓貴族の村上源氏で、中でも特に栄えた具平親王(ともひら)の子・師房の流れを汲んでいます。天皇の子孫である賜姓貴族の源氏であっても、出自のよさだけで地位を維持し続ける例は稀で、多くは一、二代公卿に列しただけで終わりました。そのうち息が長かったのが宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏です。
村上源氏の中でも、通親の父の名にもなっている久我家の祖・顕房(あきふさ)以来ほとんどが大臣になっており、白河院政期には顕房の娘・賢子(けんし/かたいこ)が白河院の中宮になっていたことから、摂関家をしのぐほどの勢力を持ちました。
それから一時は衰退していたものの、通親も同じように、天皇の外祖父の立場を獲得することで摂関家にリードし、その後鎌倉時代に入ってからも村上源氏は数代の天皇の外戚の地位を得ます。通親の後から村上源氏は久我家・中院家・六条家・岩倉家・千種家・北畠家などに分かれ、五摂家に次ぐ家格の清華家またはその下の羽林家に列することになります。
高倉天皇の近臣として
通親の名が初めて歴史に登場するのは保元3(1158)年のこと。8月5日に臨時の除目(じもく。大臣以外の官職を任命する儀式)が行われ、10歳の通親は従五位下に叙せられました。これは氏の長者である父・雅通の推挙による氏爵でした。それから10年後の仁安3(1168)年2月19日、高倉天皇が践祚しました。通親は高倉天皇の東宮時代の殿上人以外にプラスされた8人のひとりに加わり、昇殿を許されて高倉天皇が崩御するまで近臣として仕えます。同じころ、父の雅通は高倉天皇の生母・平滋子が女御から皇太后に昇ったのに合わせて皇太后宮大夫に補されています。
通親は最初、太政大臣藤原忠雅の女を室とし長男の通宗をもうけています。忠雅の子・兼雅は平清盛の女を室としていたので、通親は縁戚を通じて平家とつながりを持ったことになります。また、忠雅の女とは別に承安元(1171)年には清盛の姪(教盛の女)を室として次男をもうけており、一層平家との関係を深めていることがわかります。
それを示すように、嘉応元(1169)年に皇太后が女院(号・建春門院)になると父の雅通は別当に補されて通親も殿上人に列しています。さらに承安元(1171)年に清盛の女・平徳子が入内して高倉天皇の女御になると、女御家の侍所別当に補されました。また、徳子所生の皇子・言仁親王(ときひと。のちの安徳天皇)が皇太子になると、通親は東宮昇殿を許されています。
平家と結びついていたのは雅通・通親父子だけではありません。通親の姉妹が近衛局という名で皇太子・言仁親王に仕え、また徳子の御匣(みくしげ。御匣殿は衣服の裁縫をするところ)であったとか。親子きょうだいぐるみで平家と密接につながっていたようです。この通親の姿勢については、九条兼実が日記『玉葉』の中で「只察権門素意(ただ権門(清盛)の意向を推察している)」と罵ることもありました(とはいえ、摂関家の兼実はひどく通親を嫌っているので、彼の評価は客観的とは言いがたい)。
治承3(1179)年正月、通親は蔵人頭(くろうどのとう。天皇の秘書のトップ)に補され、その年末には中宮権亮(ちゅうぐうごんのすけ。中宮に関する事務・庶務を扱う中宮職の次官)を兼ねるなど、高倉天皇の近臣として重んぜられました。
同年、「治承三年のクーデター」として知られる事件が起こって後白河院政が停止されると、高倉天皇は翌年2月21日に譲位し、安徳天皇が践祚。通親は高倉上皇の院別当に補され、引き続き近臣としてそば近くに仕え、上皇を支えました。また、同年中に参議に昇進し、公卿に列しました。この年の安徳天皇、高倉上皇、後白河院の厳島御幸にも、高倉上皇の4人の近臣のひとりとして従い、その出来事を『高倉院厳島御幸記』に記しています。
クーデター後、清盛は福原に遷都しましたが、整う前に以仁王が挙兵し、京は混乱状態に。このまま福原に留まることもできず、還都することになりました。このころには高倉上皇の病が重くなり、年末には起き上がることもできないほどであったようです。通親は上皇の平癒を祈願し、御所に留まって苦しむ上皇の病状を見守りました。
「惜からぬ命をかへて類ひなき君か御代をも千世になさはや」
この和歌は上皇の快癒を願う通親の気持ちが表れたもの。自分の命をかえてでも並ぶものがない上皇の御代を永遠にしたいものだ、と願いますが、その甲斐なく高倉上皇は治承5(1181)年正月14日に21歳の若さで崩御しました。
通親は高倉上皇の近臣として、公卿では5人しか賜らなかった素服(そふく。喪服のこと)を賜り、しばらくは高倉上皇を追慕して過ごしました。通親の高倉上皇を慕う思いは強く、追慕の日々を振り返った歌日記『高倉院昇霞記(たかくらいんしょうかき)』が今に伝えられています。
後白河院の近臣へ
高倉上皇の崩御の翌月、権勢を振るった平清盛が亡くなりました。平家は一門の巨大な柱を失い、翌寿永2(1183)年7月には安徳天皇と三種の神器を奉じて西走し、2年ののちに壇ノ浦で滅亡することになります。親平家派の公卿として地位を築いてきた通親は高倉上皇、清盛の相次ぐ死、平家都落ちにより大きな支えを失い、政治的立場を維持するために今度は後白河院との関係を強めていきます。
例えば、名門村上源氏の嫡流として、有識の公卿らしさを遺憾なく発揮しました。改元定においては参議に昇って以降、養和への改元から寿永、元暦、建久の改元定に参加し、議論の場で中国の古典や日本の先例などを引きながら積極的に意見を述べています。後鳥羽天皇の名字の議定においても、通親が推した名は選ばれなかったものの参加して意見を述べています。
また、後鳥羽天皇即位に関連しても、中国の例を挙げて助け船を出しています。安徳天皇が平家に連れられて都落ちしたため、都では新帝の擁立が急がれましたが、三種の神器のない践祚の儀は先例になく、大きな問題となっていました。
通親は、こういった先例はわが国にはないけれど、中国では後漢の光武帝、東晋の元帝が即位からかなり時を経てから玉璽(伝国璽)を得たという例を挙げ、これは拠るべき吉例だと述べたのです。
後鳥羽天皇の乳母夫
通親の大きな転機は、後鳥羽天皇の乳母である藤原範子(ふじわらのはんし)を室としたことです。範子は藤原範兼(ふじわらののりかね)の娘で、父の死後その弟の範季(のりすえ)に養育された人物です。範子は通親との婚姻の前に僧侶の能円室として娘を生みましたが、夫が平家と運命を共にして離別。能円は平清盛の正室・時子の異父弟にあたるのです。範子の養父・範季もまた平家一門の女性(平教盛の女)を妻に迎えていたので、そのつながりから範子と能円の関係が生まれたのでしょう。
今となっては平家とのつながりなど枷になるばかりですが、いいこともありました。後鳥羽天皇の生母・七条院(藤原殖子。しょくし/たねこ)は親平家派の藤原信隆の女で、継母は清盛の娘。七条院自身、建礼門院(平徳子)の女房として仕えていて高倉天皇の目に留まり、天皇の典侍(ないしのすけ)となって皇子を生んだ人物です。つまり、安徳天皇の次の天皇となった後鳥羽天皇にも平家とのつながりがあったのです。
通親は平家の親類として幼い後鳥羽天皇の乳母の地位を得ていた範子を室とすることで、天皇の乳母夫となったのです。なお、通親は範子と能円の間に生まれた在子も養女として迎えています。
鎌倉では北条氏と比企氏が頼朝の子の乳母夫として力を得て互いに鎌倉殿の乳母夫として争ったことからもわかりますが、権力者の乳母・乳母夫となると実の親子と同等、あるいはそれ以上の絆が生まれることもあり、大きな権力を手にすることができます。平家という拠り所を失った通親は、範子との婚姻を再浮上の第一歩としたのです。
後白河院寵愛の皇女・宣陽門院の後見人
文治元(1185)年には、源頼朝の推薦により幕府に好意的な公卿10人が選ばれ、議奏公卿となりました。内覧は九条兼実。その他は通親のような有職の公卿が多く選ばれました。これと同時に通親は因幡国(現在の鳥取県東部地方)を知行国として与えられ、息子の通具(みちとも)を因幡守に推任しました。議奏公卿を置いたねらいは後白河院の専断を抑制することにありました。後白河院は義経に請われて頼朝追討宣旨を発した負い目もあって頼朝に強く反発することはありませんでしたが、のらりくらりと受け流し、議奏公卿を置いた効果はあまりなかったようです。後白河院は亡くなるまで実権を手離しませんでした。
後白河院に批判的で、常に一定の距離を保って接していた兼実は、後白河院に敬遠されていました。治承三年のクーデターのころは右大臣でありながらほとんど出仕せず、政変により解官や配流の憂き目にあった院近臣にも嫌われていたようです。両者の間には埋めようのない溝があり、後白河院は兼実と対立する近衛基通をひいきしました。
このころの通親は公事に励み、常々日記で通親を罵るばかりの兼実をして「肩を並べる人はいない」とか「忠士というべし」などと褒めたたえているほどでした。しかし兼実のもとでなかなか昇進できませんでした。文治4(1188)年に下臈若輩の九条良経(兼実の次男)が通親を飛び越えて正二位に昇った時は抗議し、「去年従二位にしてやった恩を知らないのは禽獣に異ならない」と兼実に罵倒されています。
『玉葉』では罵っていたものの実際には悪くなかった両者の関係が、これを機に悪化していきます。後白河院とも関係が悪く、結局すべて頼朝に頼りきりの兼実を後目に、通親は後白河院を邸(久我邸)に招いて進物を贈るなど、着実に後白河院周辺との関係を深めていくのです。
後白河院が寵愛した女性といえば建春門院(平滋子)が有名ですが、彼女が亡くなってからしばらく、治承三年のクーデターのころから丹後局(高階栄子)を寵愛するようになり、亡くなるまでそば近くに置きました。この丹後局所生の皇女・宣陽門院(覲子内親王。きんし)への寵愛ぶりもよく知られています。後白河院は天皇の生母でもなく准母でもない、そして后位にもついていない内親王である覲子に院号を与えて女院とし、自身のもつ膨大な長講堂領と、六条殿(長講堂がある後白河院の御所)を伝領しました。
文治6(1190)年、兼実が後鳥羽天皇の元服にあわせて娘・任子を入内させ、同年(建久に改元)に上洛した頼朝と面談して手ごたえを感じていた中、通親は翌建久2(1191)年に女院庁別当となり、宣陽門院の後見人となって丹後局・宣陽門院親子とのつながりを得るとともに、膨大な長講堂領の管理を担います。
建久七年の政変
建久3(1192)年、後白河院が亡くなると兼実は頼朝を征夷大将軍にしました。ようやく自分の時代がやってきた、頼朝と組んでやっていこうと思ったでしょう。しかしその時代は長くは続きませんでした。通親は丹後局と結んで反兼実勢力を築き、兼実を失脚させるチャンスをうかがっていました。建久6(1195)年、頼朝が再び上洛しました。東大寺の落慶供養のためでしたが、目的はほかにもありました。長女・大姫の入内工作です。政子と大姫を伴って上洛した頼朝は、後白河院亡き後も発言力をもつ丹後局に砂金三百両などの贈り物をしています。その後丹後局は政子と大姫に面会しているので、頼朝の思い通りに進められていたのでしょう。結局この入内の話は大姫が亡くなったことで立ち消えてしまうのですが、この一件は通親や丹後局にとってはプラスに働きました。
頼朝は当初兼実と協力していましたが、大姫の入内を望む限り、皇后の父である兼実はいずれ敵対しかねない相手です。通親と丹後局はこれをチャンスととらえ、両者を離反させるべく動きました。
兼実は頼朝の入内工作のうわさを聞いてショックを受け、また二度目の上洛時の贈り物が少ないことに再びショックを受け、さらに長講堂領の再興をごり押しされて追い打ちをかけられる。
そもそも通親や丹後局が兼実を失脚させようとした理由のひとつは、兼実が後白河院の死後に通親や丹後局が立てた荘園を倒してしまったことにあります。摂関家に生まれた兼実は院近臣や丹後局のように出自が低い人々を見下すところがあり、それでぞんざいに扱ってしまうのですが、彼が下の信頼を得られないのはそういう性格ゆえかもしれません。
ともかく、頼朝の入内工作をきっかけに頼りとする頼朝をも失った兼実には、任子の皇子出産だけが頼みの綱でした。しかし、同年8月に任子が出産したのは皇女でした。
一方、このころ後鳥羽天皇の寵愛を得て後宮に入っていた在子(通親の養女)は12月に皇子(のちの土御門天皇)を出産。後鳥羽天皇の乳母夫になった時といい、通親は範子がつないだ縁からよく大きなチャンスに恵まれます。
在子が皇子を生んだ以上、通親が天皇の外戚となるためには、次に皇子を生む可能性のある皇后・任子にこのままいてもらっては困ります。建久7(1196)年11月24日、任子は突然内裏から退出させられ、翌25日には父の兼実が関白を罷免させられました。これが「建久七年の政変」と呼ばれる事件です。
天皇の外祖父となるも……
通親は外孫の即位を急ぎました。これについては後鳥羽天皇にも異存はありませんでした。成長して自立心がめばえていた後鳥羽天皇は、むしろ譲位して上皇として院政を敷き、実権を握りたいと考えていたのです。両者の望みが合致し、さっそく建久8(1197)年から院の御所となる二条殿造営が始められ、翌建久9(1198)年正月に通親の外孫・為仁が践祚。土御門天皇が即位しました。この通親による強引な即位は、「桑門(僧侶)の外孫は先例がない(※在子の実父が能円であることから)」などと批判されたといいます。
通親は天皇の外祖父になると同時に、後鳥羽院庁の執事別当にも補されて政治の実権を握りました。兼実の日記『玉葉』によれば世の人々は通親を「源博陸(げんはくろく)」と称したとか。「博陸」とは、漢の武帝により博陸侯に封ぜられたた霍光(かくこう)の故事にちなみ、朝廷の重鎮、または関白を指します。実際は関白どころかまだ権大納言だったわけですが、通親は急ぐことなく慎重に事を進めました。
しかし、自身の右近衛大将拝命に際して關東の感触を和らげようとして同時に頼朝嫡男・頼家の左近衛中将に昇進させる計画が、建久10(1199)年正月13日の頼朝の急死により狂ってしまいました。通親は11日に頼朝が重病危急により出家したという情報を受けていましたが、20日の臨時除目で自身の右近衛大将就任と頼家の左近衛中将昇進を強行。その翌日に頼朝薨去を聞いて驚き、弔意を表すといって閉門しました。九条家に仕えていた歌人・藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)は「奇謀の至り」(『明月記』)と非難しています。
同年6月、通親は内大臣に昇りました。しかしすべては通親の思うままかというとそうでもなく、翌年の正治2(1200)年には「今においてはわが力及ばず」と嘆いていたとか。通親は後鳥羽上皇と強調して政治を進めました。後鳥羽上皇は年々自立心を強め、自由にいかないことも多くなっていきました。近衛家・九条家をバランスよく重用するなど、人事に後鳥羽上皇の意思が反映され、また同年中には後鳥羽上皇の意思により上皇の三宮守成親王が土御門天皇の皇太子となりました。
守成親王の生母は藤原範季の女・重子(じゅうし/しげこ)です。後鳥羽上皇の寵愛が在子から重子に移っていたことも、通親と上皇の力関係の変化に関わっているかもしれません。
後鳥羽上皇ひとりに権力が集中するようになると、上皇の周辺の女房が影響力を高め、権勢を振るうようになります。その代表格が後鳥羽上皇の乳母・卿局(藤原兼子)でした。
このように後鳥羽上皇を中心に少しずつ宮廷の勢力図が変わる中、通親は建仁2(1202)年10月21日(20日説もあり)に急死しました。20日には普段どおり参院しており、世の人々は突然の死を驚いたといいます。
後鳥羽上皇の和歌活動を支えた
通親は優れた政治家であると同時に、和歌にも秀でていました。後鳥羽上皇が和歌を愛したことはよく知られていますが、上皇を和歌の道に導いたのは通親であったとか。後鳥羽上皇が尊敬する和歌の師、寂蓮や藤原俊成(しゅんぜい/としなり)と引き合わせたのも通親であったといいます。建仁元(1201)年、後鳥羽上皇は和歌所を設置しました。それに通親が関わったのは言うまでもありません。通親は有力歌人として、14人の寄人のひとりにも選ばれています。
通親の和歌は、藤原俊成が撰者として編纂に携わった『千載和歌集』から、室町時代に編纂された『新続古今和歌集』まで、12の勅撰集に入集し、現在まで多数の和歌が伝えられています。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 五味文彦『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか』(角川学芸出版、2012年)
- 橋本義彦『人物叢書新装版 源通親』(吉川弘文館、1992年)
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