「島津斉彬」富国強兵を目指した幕末の薩摩藩主 藩内に集成館を設立、四賢侯の一人として幕政にも参画

島津斉彬の像(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/">近代日本人の肖像</a>)
島津斉彬の像(出典:近代日本人の肖像
 薩摩藩の討幕を成し遂げる原動力は、開明的な一人の人物によって形成されました。幕末の薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)です。

 斉彬は幼少期から曽祖父・重豪のもとで洋学に傾倒。それが元でお由羅騒動に巻き込まれ、忠臣の多くを失うことにもなります。家督相続後は集成館事業によって薩摩藩の近代化を推進し、軍事や経済において飛躍的な進歩を実現させます。

 斉彬の視線は、自国だけではなく日本国全体に向いていました。将軍継嗣問題では一橋派に所属し、徳川慶喜を次期将軍に推しています。斉彬は英明な将軍のもと、公武合体政策によって日本をまとめ上げること企図していました。しかし一橋派が井伊直弼によって弾圧。やがて斉彬の身にも思いがけない事態が訪れます。

 斉彬は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。島津斉彬の生涯を見ていきましょう。

蘭学と漢学のハイブリッド教育を受けて育つ

 文化6年(1809)、島津斉彬は武蔵国江戸の薩摩藩邸上屋敷で、薩摩藩第十代藩主・島津斉興の長男として生を受けます。幼名は「邦丸」

 生母は正室の周子(かねこ)です。鳥取藩主・池田治道の娘で、薩摩島津家輿入れに際しては、嫁入り道具に四書五経などの大量の漢籍を選択。和歌にも通じた学識豊かな人物でした。本来であれば、邦丸も他藩と同様に乳母に養育されるはずでしたが、周子は自ら母乳を与え、書物の読み聞かせをして養育しています。

 母の一生懸命な教育の甲斐もあり、利発な少年に成長した邦丸。文化9年(1812)には薩摩藩世子に決まっています。文政4年(1821)年には無事に元服し、武士らしく「島津又三郎忠方」と名乗りを変えています。そして文政7年(1825)年には、11代将軍・徳川家斉の偏諱を受けて「斉彬」と改名。内外ともに世継ぎとして認識されていきました。

 斉彬が影響を受けたのは、母・周子だけではありませんでした。蘭学に通じていた曽祖父・重豪は利発な斉彬を可愛がり、共に暮らして薫陶を与えます。実際に文政9年(1826)には、シーボルトとの会見に斉彬を同席させていました。

 重豪は隠居の身でしたが、薩摩藩の実権を握り続けていましたから、斉彬が将来、薩摩藩主となるのは疑いようがない状況だったのです。

島津斉彬の略系図
島津斉彬の略系図

お由羅騒動と家督相続

 しかし、順風満帆な斉彬の人生が突如として翳りを見せ始めます。

 父・斉興は斉彬に家督を継がせることを躊躇していました。その理由は斉彬が蘭学に傾倒していたあったようです。重豪が藩主の時代には、多額の藩費が蘭学に費やされていました。斉彬が藩主となれば、重豪と同様の事態に陥るという見方です。

 薩摩藩の財政を預かっていた家老・調所広郷は、斉彬の家督相続に反対。斉興が側室・お由羅の方に生ませた島津久光を藩主に据えようとしていました。

 斉彬を支持する藩士たちは当然のことながら反発します。斉彬の側近らはお由羅派を暗殺すべく、計画を練りますが、最終的に発覚して斉彬派の多くが切腹や遠島処分に処せられてしまいました。世にいう「お由羅騒動」です。

 お家騒動は、藩取り潰しの口実となる案件でした。斉彬派に事態の収拾を嘆願された福岡藩主・黒田斉溥(重豪の十三男)は、幕府老中の阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平慶永(春嶽)らに協力を求めます。

 こうした幕府の仲介によって嘉永4年(1851)、斉興の隠居が決定。斉彬が家督を相続して薩摩藩11代藩主となるのです。

 しかし藩主となったとはいえ、藩内には斉興やお由羅の方の勢力も少なからず存在しています。斉彬は対立をできるだけ回避し、より堅実に藩政を運営していく道を模索していくことになります。

集成館事業に注力

 斉彬が藩政において最も注力したのが「集成館(しゅうせいかん)事業」です。「集成館」をコトバンクから引用すると

・鹿児島県鹿児島市にある、日本最初の本格的洋式工場を含む旧工場群

・鹿児島藩の兵器製造を中心とした工場。島津斉彬が1852年創業

・幕末、薩摩藩主 島津斉彬が軍備充実・殖産興業のため設けた洋式工場
コトバンク 「集成館」より

とのことです。

 海外では清国(中国)とイギリスの間でアヘン戦争(1839~1842)が勃発。敗戦した清国は、イギリスなどの半植民地となっていきました。この当時の海外情勢は日本にも伝わっています。

 こうした対外的な危機に対処するべく、斉彬は ”富国強兵” を目指していました。いわば集成館事業は、殖産興業や軍事技術を念頭においた薩摩のみならず、日本の近代化政策だったのです。

 嘉永4年(1851)には、日本に帰国した土佐の漂流民・ジョン(中浜)万次郎と面会。海外情勢の報告を受けた斉彬は、万次郎から薩摩藩士に対し、航海術や造船技術、のちには英語も学ばせる等しています。

 ペリー率いる黒船艦隊が来航(1853)した際も、斉彬は引き続き、集成館事業を押し進めていました。黒船来航の翌年には、洋式帆船である「いろは丸」が完成。さらに同年には西洋軍艦「昇平丸」が建造されて幕府に献上しています。

 斉彬は集成館事業の中で様々な問題意識を持っていました。工場群の建設によって、反射炉を建設して製鉄技術は向上。加えて帆船の帆布製造のために、木綿紡績を事業化するなど、多角化していきます。さらにガス灯やガラス製造にも力を入れる等、経済的な面も意識されていました。

 また、開明的な斉彬はこの間に写真撮影にも挑戦。日本人で初めて自分の姿を写真に残しています。

※参考:集成館事業については、以下の動画(YouTube 鹿児島県公式チャンネルより)をみれば、より具体的なイメージが湧くのでおススメです。


幕政改革と公武合体政策への関わり

 黒船来航は、日本の幕藩体制や鎖国制度を根本から揺るがしていました。本来の幕府政治は、将軍の下で老中の合議で決するのが通常です。その他に「溜間詰」の大名が関与するだけで、外様大名が政治に関わることはありませんでした。

 しかし黒船来航後、幕府は諸大名に対して幅広く意見を求めます。その結果、四賢侯(しけんこう)と称された斉彬(薩摩藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)、松平慶永(福井藩主)、山内豊信(土佐藩主)らが幕府政治に意見を述べるようになります。また、外様だけでなく、徳川の身内である御三家も政治的発言を発信。水戸藩前藩主・徳川斉昭(徳川慶喜の父)は海防参与に任命されました。

 斉彬らはさらに幕政改革を阿部正弘に上申。近代的な人材育成のための機関創設を求めています。結果、講武所(軍事研究施設)や蕃書調所(洋楽研究機関。東京大学の源流)、長崎海軍伝習所(海軍士官養成所)など、人材育成政策が推進されていきました。

 薩摩藩というと、討幕運動のイメージが先行しがちです。しかし斉彬はあくまで日本国の最善の道を模索していました。実際に斉彬は公武合体政策を主張。朝廷と幕府、諸藩の結びつきを強めることを念頭に置いていました。

 加えて斉彬には、幕閣より先見の明があります。不平等条約を締結するのではなく、あくまで武備開国路線を堅持。薩摩藩においては、支配下の琉球王国を介在したフランスとの貿易を計画していました。

将軍継嗣問題への関わり

将軍継嗣問題で一橋派に所属する

 中央政治との関わりは、斉彬や薩摩藩を揺るがす大事へと発展していきます。

 ときの13代将軍・徳川家定には後継者がいません。そこで斉彬は一計を案じて実行に移ります。安政3(1856)に養女・篤姫(天璋院)を家定の正室に輿入れさせました。斉彬は病弱な家定に後継が生まれることは難しいと判断。篤姫を送り込んだのは、次代将軍の候補者推挙に関わりがあったようです。

 次期将軍を巡っては、一橋徳川家の徳川慶喜と、紀州藩主の徳川慶福(家茂)が取り沙汰されていました。

 斉彬をはじめ、徳川斉昭、松平慶永らは、英明で外様大名からも多くの信望を集めていた徳川慶喜を推薦します。

 対して徳川慶福は、彦根藩主・井伊直弼や会津藩主・松平容保らが擁立。譜代大名を中心に支持を集めています。

 このとき、老中の阿部正弘や堀田正睦らは慶喜を推しており、何もなければ、慶喜が次期将軍となることは確実な情勢でした。しかし安政4年(1857)に阿部正弘が病没。翌安政5年(1858)には、井伊直弼が大老に抜擢されると事態は一変します。

 同年7月5日、井伊直弼は家定の死去直前に登城した斉昭らを不時登城の罪で処罰。慶喜にも謹慎を申し渡します。さらに井伊は一橋派の多くを蟄居や閉門に追い込んで、橋本左内らを処刑。攘夷派の人物たちを次々と捕らえて、弾圧を加えていきました。世にいう「安政の大獄」(1858~59)です。

 このとき、斉彬は国許の薩摩に滞在していました。いずれ来る時のために政治的な運動の準備を整えていたのです。

練兵の最中に病に倒れる

 将軍継嗣問題での政治的敗北は、結果的に斉彬と薩摩藩を新たな局面へと誘うこととなります。

 徳川斉昭や松平慶永、伊達宗城らが隠居謹慎となった以上、斉彬も同様に政治的窮地に立たされていました。しかし江戸で一橋派が処罰されたことは、まだ薩摩には届いていません。このときの斉彬は、幕府に対する抗議活動を決定。薩摩藩の藩兵五千人を率いて京に上る計画を打ち立てていました。

 藩兵を率いての抗議は軍事行動にも準する行為ですが、斉彬にとっては「将軍継嗣問題の決着が日本の行く末を左右する」と捉えていました。

 しかし突如として斉彬の最期が訪れます。

 安政5年(1858)7月8日、鹿児島城下での練兵を見ていた際に発病し、そのまま倒れてしまいます。死の間際、斉彬は異母弟・久光の長男である島津茂久(忠吉)に家督を継がせることを遺言。のちの薩摩藩と日本の行く末を託しています。

 同月16日に世を去りました。享年五十。法名は順聖院殿英徳良雄大居士。墓所は福昌寺にあります。

 斉彬の死因は、日本で流行していたコレラだと言われてきましたが、実際は違うようです。このときの薩摩ではコレラ流行が既に終息しており、症状である心臓の衰弱はコレラには当てはまりませんでした。そこで毒殺説が提唱されています。犯人は父・斉興やお由羅の方の一派とも言われていますが、真相は定かではありません。大河ドラマ『西郷どん』では、井伊直弼らに毒殺された説を採用しています。

 明治維新後、斉彬は功績が評価されて官位が追贈。明治2年(1869)に従一位、明治34年(1901)に正一位が贈られています。


【参考文献】
  • コトバンク
  • 村野守治編 『島津斉彬のすべて』(新人物往来社、2007年)
  • 芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年)

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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