「伊達宗城」幕末四賢侯の一角!アジア初の蒸気船を建造した先見の明をもつ伊予宇和島藩主
- 2021/08/10
英雄とも称される多くの人材が群雄割拠した幕末。有名かつ人気のある人物は無論のこと、まだまだ十分にスポットライトが当たっていない偉人がひしめいています。幕末史では志士の側か、あるいは幕府に殉じた戦闘員たちに感情移入してしまうことが多いかと思います。しかし、かつての一国の主である「藩主」にも、英邁で知られた優秀な人材はいました。
今回はそんな藩主のうち、「幕末四賢侯」の一人に数えられた伊予宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市あたり)の伊達宗城(だてむねなり)をピックアップ。開明的な思想と優れた先見の明で激動の時代を生き抜いた、宇和島藩主の生涯をご紹介します。
今回はそんな藩主のうち、「幕末四賢侯」の一人に数えられた伊予宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市あたり)の伊達宗城(だてむねなり)をピックアップ。開明的な思想と優れた先見の明で激動の時代を生き抜いた、宇和島藩主の生涯をご紹介します。
出生~青年時代
伊達宗城は文政元年(1818)8月1日、3000石の大身旗本・山口相模守直勝の次男として生を受けました。幼名は亀三郎といい、父の直勝は第7代宇和島藩主・伊達宗紀(むねただ)の従弟にあたるため伊達氏とは血縁関係にありました。文政11年(1828)には一旦同族の伊達寿光に養子入りし、翌文政12年(1829)に宗紀の正式な養嗣子となりました。これは宗紀に跡継ぎとなりうる男子が誕生しなかったための措置で、宗城の諱はこの時からの名乗りです。通称も兵五郎へと改め、字は子藩を用いました。宗城は宗紀の五女である貞と婚約して婿養子となる予定でしたが、彼女の早逝により婚姻を経ずに伊達姓となりました。
宗城は天保6年(1835)に満17歳で元服、同年5月に初めて伊予宇和島本国に入国しました。
伊達宗紀の事績
やがて宗城は養父・宗紀の跡を継いで宇和島藩主となりますが、彼の政治姿勢を考えるうえで、この養父の影響が大であることがうかがえるため、先に伊達宗紀の事績を概観しておきましょう。宗紀の最大の功績は、藩財政の立て直しと殖産興業・富国強兵策の推進にあります。文政7年(1824)、第7代宇和島藩主に就任した宗紀は主に倹約と債務整理を中心とした藩政改革に乗り出しました。
5年計画での倹約令や藩士の負債減免と補助米支給、さらには民間人の負債まで白紙に戻し、藩財政の赤字体質を抜本的に改めました。当時は武家が商人から多額の借財をすることが半ば一般化していましたが、宗紀は大坂の商人に対して藩の負債を実に200か年での年額返済として承諾させました。
このような剛腕を振るった宗紀でしたが、藩の特産品として蝋の専売制復活をはじめとする商業振興、また農地整備などの民政にも注力。並行して藩士への文武教育奨励による武備増強、そして高島流に代表される洋式砲術の導入など藩軍制の近代化に取り組むという先見の明も持ち合わせていました。
宗紀が引退する頃には藩財政は完全な黒字へと転換しており、実に6万両もの備蓄を次世代に残したといいます。宗城は、宗紀の優れた手腕と思想を引き継ぐ形で宇和島藩の舵取りを託されたともいえるでしょう。
藩主就任~参予会議解体
弘化元年(1844)、宗城は引退した養父・宗紀の跡を継いで第8代伊予宇和島藩主に就任します。遠江守に叙され、同3年には侍従に任ぜられました。藩主就任ののち、弘化2年(1845)に宇和島本国に帰藩すると近代化を見据えた藩政改革に着手します。この改革自体は先代・伊達宗紀の路線を引き継ぐものであり、いわば養父子二代にわたる大事業でした。
富国強兵と積極的な人材登用
宗城は藩主就任から10年余り、先代の方針を引き継いで殖産興業を推進します。また、洋式兵学の導入をさらに進め、幕府鉄炮方の「下曾根金三郎」を経由して伝えられた洋式砲術を「威遠流」と命名。弘化2年(1845)には自藩による大砲鋳造を行い、総合的な軍事調練を実施しています。嘉永元年(1848)には、幕府から追われていた蘭学者「高野長英」を密かに宇和島にかくまい、その知識を吸収しました。
高野長英は同年4月からおよそ8か月間ほど滞在し、その間に洋式兵術書『三兵答古知機(さんぺいたくちーき)』の邦訳を完成させました。これはプロシアの軍学書を原著とし、オランダ語訳されたものの翻訳書です。
「三兵」とは歩兵・砲兵・騎兵を表し、「答古知機(たくちーき)」は戦略・戦術を意味する言葉とされています。このことから、近代軍制の理論が宇和島にもたらされたことがうかがえます。
安政元年(1854)から翌年にかけては長州の兵学者「大村益次郎(村田蔵六)」を招き、藩内の市井の技術者「前原巧山」とともに国産蒸気船の研究に着手します。
ちなみに、前年に黒船が来航したことが理由で、蒸気船の話が出てきたという事ではないようです。黒船来航の5年前、高野長英から宇和島藩士への手紙の中で「洋式艦船の件はどうなりましたか?」との問合せがあったことから、宇和島藩では以前から計画・研究が進められていたことがうかがえます。
安政6年(1859)にこの蒸気船は完成し、同年4月には参勤交代で帰国する宗城を佐多岬沖で出迎えたといいます。厳密には国産初の蒸気船建造に成功したのは薩摩とされていますが、宇和島はもっとも早い段階で国産蒸気機関を実用化した藩の一角でした。
幕政にも参画、公武合体派の中心メンバーへ
このように開明性を発揮した宗城は、幕府中枢とも強力なパイプを築くことになります。その代表例は水戸藩主「徳川斉昭」との交誼で、これは天保10年(1839)に斉昭の娘「賢姫(さかひめ)」と婚約していたことに由来します。姫の早逝で婚姻は実現しませんでしたが、以降は将軍継嗣問題でもいわゆる「一橋派」に属しました。斉昭や松平春嶽らとの交流を通じて強い国防意識をもっていたことがうかがえますが、いわゆる安政の大獄で処分対象となり、安政5年(1858)に退隠。藩主の座を先代・宗紀の子「宗徳」に譲りました。
この時の宗城への処分が軽く済んだのは、大老・井伊直弼と伊達家は縁戚関係にあったことが影響したとされています。
元々は強硬な攘夷派として知られた宗城でしたが、その姿勢を改め、やがては公武合体の方針を指向。文久3年(1863)には「一橋慶喜」「松平容保」「松平慶永」「山内容堂」らとともに、朝廷より朝議参予に任命されました。紛争状態にあった幕府と長州の宥和に尽力し、開国容認や公武合体を推進しましたが、参与会議は翌元治元年(1864)に解体されることになります。
慶応年間
慶応元年(1865)、着任直後の英国公使「ハリー・パークス」が下関と宇和島を訪問。翌年には同じく英国書記官の「アーネスト・サトウ」が宗城のもとを訪れ、懇談の機会が設けられました。サトウの著書『一外交官の見た明治維新』のなかでその時の様子に触れており、宗城が日本の政治体制について「天皇を元首とした連邦国家」とする構想をもっていたとしています。宗城は慶応3年(1867)4月以降、王政復古の後を含めて計4回朝廷に招かれて上洛しています。武家の政権返上という大変革期にあって、その見識が大いに必要とされたことをうかがわせます。
王政復古~最期
同年12月の王政復古後、宗城は維新政府の議定に就任します。外国官知事を経て明治2年(1869)には民部卿兼大蔵卿となり、鉄道建設のためイギリスからの借款に尽力します。明治4年(1871)には日清修好条規に全権として調印。その後は政府公職からは身を引き、明治9年(1876)に華族会館第一部長、同16年(1883)に修史館副総裁を歴任しました。宗城は明治25年(1892)12月20日、東京浅草の今戸邸にて満74歳の生涯を閉じました。法名は靖国院殿藍山維城大居士、墓地は愛媛県宇和島市の竜華山等覚寺にありますが、のちに東京都台東区の谷中墓地にも分骨されています。
おわりに
「幕末四賢侯」の一人に名を連ねる伊達宗城。その開明的な思想だけではなく、藩主としての卓越した行動力がそういわしめていることを感じさせます。宇和島藩は約10万石ともいわれる小さな国でしたが、当時において国内最先端の科学技術を自藩で手にしたといっても過言ではありません。どちらかというと幕末史の影に隠れがちな歴史ですが、改めてその事績を振り返るとき、驚きの念を禁じ得ませんね。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 三好造船株式会社 造船海運コラム #1 前原巧山~純国産の蒸気船は宇和島生まれ?~
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