「忍藩」の歴史 ~埼玉県行田市に存在した藩。関東の小城には『のぼうの城』のモデルとなった壮大な歴史があった!? ~

現在の埼玉県の行田市あたりに、忍藩(おしはん)がありました。忍はかねてから関東の覇権を争った土地でした。

江戸時代には、幕府老中らが居城を置いて統治。松平信綱をはじめとした主要人物たちが藩主として江戸の周囲を固めます。幕末には財政難に喘ぐ中、忍藩は江戸湾警備を担当。戊辰戦争では混乱を乗り切り、佐幕派ながら新政府に味方する道を選びました。

忍藩はどのように生まれて発展し、どのように終わったのでしょうか。忍藩の歴史について見ていきましょう。


『のぼうの城』でも描かれた忍藩前史


関東七名城の一つに数えられる

忍の地は、戦国時代から武蔵国における要衝の地でした。かつては扇谷上杉氏に所属する忍一族が忍の地を支配。しかし文明10(1478)年ごろ、古河公方・足利成氏の家臣の成田正等が忍一族を滅ぼしています。


忍城はこのとき、成田正等らによって築城されたと考えられています。忍城は北を利根川に、南を荒川に囲まれた扇状地に位置しており、広い沼地と自然堤防を生かした堅固な城でした。戦国時代には関東七名城の一つにも数えられ、その堅固さで幾多の名将たちを撃退していきます。


忍城(模擬御三階櫓)
忍城(模擬御三階櫓)

当時の関東は、堀越公方足利氏や、扇谷上杉氏、山内上杉氏などの旧勢力と、小田原北条氏などが覇権を争っていました。文明11(1479)年には、扇谷上杉氏が忍城を攻撃。しかし結局は扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が和睦を仲介するなど防衛に成功しています。


太田道灌は江戸城を築城したことでも知られる武将です。道灌は忍城の堅固さを見抜き、攻城に利あらずと見抜いていました。その後、忍城は関東の戦国時代を見つめていくこととなるのです。



上杉謙信の攻撃に耐えた城


戦国時代後期になると、忍城も関東の勢力争いに巻き込まれていきます。天文15(1546)年には、小田原北条氏の北条氏康が河越夜戦において扇谷上杉氏・古河公方・関東管領の連合軍を撃破。北条氏の勢力が武蔵国の広範囲に及ぶこととなります。

当初、成田氏は北条氏に抗戦する道を選択。そのため忍城も小田原北条氏の攻撃にさらされることとなります。しかし一度も落城することはありませんでした。


永禄3(1560)年、関東管領・上杉輝虎(謙信)が関東に侵攻。成田氏は謙信に恭順する道を選びます。当時の謙信は関東諸将の兵を従え、軍勢の規模は十万に及んでいました。上杉軍が破竹の勢いで小田原城まで進軍。成田氏の忍城は戦火から免れたかに思えました。



1560~61年の上杉謙信の関東遠征マップ。青マーカーは上杉氏に恭順した城、赤は北条方の城。赤×は遠征中に上杉方に攻略されてしまった城。

永禄4(1561)年、上杉謙信は小田原城を攻撃。成田氏の当主・長泰も従軍しています。しかし小田原城は落ちませんでした。それどころか成田長泰は謙信と仲違いをして離反。そのため永禄6(1563)年には、謙信によって忍城が攻撃されています。


忍城の長泰は降伏。永禄6(1563)年にも再び謙信に攻められますが、再び降伏して落城の危機を免れています。永禄12(1569)年、小田原北条氏と上杉氏との間で越相同盟が成立。国分(領土協定)によって、忍城の成田氏は北条氏の支配下に入ります。


天正2(1574)年には、後継の成田氏長が再び上杉に離反して包囲されています。上杉勢は城下に放火。攻勢を強めますが、忍城は落城せずに持ち堪えました。


忍城が落城しなかったのは、地勢的な堅固さだけではありません。城主である成田氏の的確な情勢判断が功を奏し、最良の選択をし続けていたからだと言えます。


『のぼうの城』で描かれた激戦


忍城が全国な知名度を得たのは、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐でしょう。

このとき、城主・氏長は北条氏に従って小田原城に籠城。忍城には氏長の叔父、成田泰季が城代として立て籠ります。忍城の長田方は二千人ほどの兵が集結。途中で泰季が没すると、泰季の子・成田長親が総大将として城方の指揮を担当しています。


忍城を包囲した豊臣方は、石田三成や大谷吉継、佐竹義宣、真田昌幸、直江兼続ら二万人でした。


これらの話は映画『のぼうの城』でも描かれています。


三成は利根川を利用した水攻めを立案。28kmに及ぶ石田堤を築いて、忍城を孤立させました。しかし忍城は頑強に抵抗を継続。石田堤を決壊させ、豊臣方に多数の死傷者を出しています。


忍城の水攻めの際、石田三成が布陣した丸墓山古墳
忍城の水攻めの際、石田三成が布陣した丸墓山古墳(出所:wikipedia

やがて豊臣方には援軍の上杉景勝や前田利家らが参加。それでも忍城は落ちませんでした。激戦の末、北条氏の小田原城が降伏。関東で抵抗を続けていたのは、もはや忍城のみとなってしまいます。


この時点で、関東、いえ全国で最後まで抵抗を続けていたのは、忍城のみという状況でした。やむなく忍城は開城。忍の土地は、新たな時代を迎えていくこととなります。


忍藩の立藩:徳川領となり、松平忠吉が城主へ


徳川家康の四男・松平忠吉が統治する

徳川家康が関東に入国すると、忍城も軍事的要衝として新たな主を迎えることとなりました。忍城には家康の四男・松平忠吉が10万石を与えられて入城します。


忠吉はのちの二代将軍・徳川秀忠の同母弟であり、家康の厚い信頼を受けていた武将です。しかしまだ幼年であったため、一時松平家忠が一万石で忍城を預かることになりました。


家忠のもとで戦で荒廃した忍城は修繕。代官・伊奈忠次が検地を実行し、内政においても整備されていきます。文禄元(1592)年、忠吉が改めて入城。家老・小笠原吉次のもとで忍城は治水工事や新田開発が行われています。


慶長5(1600)年、城主・松平忠吉は関ヶ原の戦いで活躍。戦後に加増されて尾張国に移封しています。このときから忍藩は天領(徳川直轄領)となり、代官の伊奈忠次らが統治するところとなりました。


知恵伊豆・松平信綱が藩主となる

戦国時代が終わり、江戸時代に入ると、忍城は別の意味で必要とされていきます。寛永10(1633)年、松平信綱が忍城に3万石を与えられて入城。信綱は「知恵伊豆」と称されるほどの人物で、のちに老中に昇進しています。


忍城は戦略的要衝であり、徳川将軍家が信頼する人物が城主を務めることが必要でした。天下は泰平となったものの、戦乱の気配は残っています。


寛永14(1637)年には九州肥前国において、島原の乱が勃発。忍城の城主・信綱が中心となって鎮圧に赴いています。忍城は戦略的重要地として、然るべき人物が睨みをきかせる城として機能していたようです。



※参考: 忍藩(1590~1871年)の歴代藩主




※ 親藩、10万石
  • 初代:忠吉(ただよし)



※ 譜代、3万石
  • 初代:信綱(のぶつな)



※ 譜代、5万→6万→8万→10万石
  • 初代:忠秋(ただあき)
  • 2代:正能(まさよし)
  • 3代:正武(まさたけ)
  • 4代:正喬(まさたか)
  • 5代:正允(まさちか)
  • 6代:正敏(まさとし)
  • 7代:正識(まさつね)
  • 8代:正由(まさよし)
  • 9代:正権(まさのり)



※ 譜代、10万石
  • 初代:忠堯(ただたか)
  • 2代:忠彦(たださと)
  • 3代:忠国(ただくに)
  • 4代:忠誠(ただざね)
  • 5代:忠敬(ただのり)



歴代藩主の多くが老中に就任した阿部家の時代

寛永16(1639)年、老中・阿部忠秋が5万石で忍城に入城。忍藩は「老中の藩」として、地理的に重要な土地となっていきました。


以降、阿部家は忍藩において順調に加増を重ね、三代藩主・阿部正武の代には10万石を与えられています。阿部家の歴代藩主は、いずれも老中に昇進。幕府政治を主導する立場を任されました。


加えて忍藩の藩主たちは、京都所司代や大坂城代などの要職を務めることを求められています。当然、出費が増大していき、藩の財政は逼迫。やがて藩は追い詰められていきます。


寛保2(1742)年には忍藩を大洪水が勃発。天明3(1783)年には浅間山噴火に伴い、天明の大飢饉が起こりました。天明6(1786)年には再び大洪水が忍藩を襲い、領内に甚大な被害を与えています。


藩内の領民たちは、暮らし向きに困窮。次第に藩政に対する不満を高めていました。宝暦2(1752)年には一揆が勃発。明和元(1764)年にも再び領民による一揆が起こっています。


借金漬けとなった奥平松平家の時代

忍藩の次の主となったのが、奥平松平家でした。文政6(1823)年、松平忠堯(ただたか)が忍藩に入封。しかし、石高に対して忠堯の家臣団は多かったため、再び忍藩の財政は逼迫していきます。忠堯は翌文政7(1824)年に忍藩において重い御用金を課しています。


しかし忍藩には更なる苦難が待っていました。第三代藩主・松平忠国は10万石のうち半分となる5万石を上総国と安房国に移され、外国船からの防備を命じられています。


嘉永6(1853)年には浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を迫るという事件が起きました。忍藩は品川砲台の第三台場の警備を担当し、外国船への警戒任務に従事しています。


次第に藩の財政は大きく傾いていきました。安政2(1855)年には安政の大地震が勃発。安政6(1859)年には寮内を大洪水が襲うという不幸に見舞われます。すでに忍藩の借財は76万両にまで膨らみ、財政破綻はすぐそこまで来ていました。出費を減らすため、家臣団の俸禄(給料)を6割減らすという政策を実行しています。



忍藩、忍県、そして埼玉県へ

幕末の動乱においては、忍藩は藩論を分裂させています。

当時の藩主・忠誠は幕府の命を受けて京都警護の任を受けて上洛中でした。しかし慶応3(1867)年10月、将軍・徳川慶喜が大政奉還を断行。翌慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、薩長の新政府軍が旧幕府軍を打ち破って官軍となっています。


新政府軍が東征を開始すると、国許の忍藩には幕府が衝鋒隊を派遣しました。東山道を進んでくる官軍によって、忍城下が戦火に包まれることは確実だったのです。


重臣・岸嘉右衛門らは、藩主・忠誠に新政府軍への恭順を提言。忠誠は提言を受け入れ、衝鋒隊を撤退させて新政府軍に従う道を選びます。恭順した忍藩は藩兵を長州藩隊に組み入れられて、奥州(東北)に転戦。忍城下での戦を回避することに成功しています。


時代が明治に入ると、新政府は中央集権下に取り組み、忍藩も近代化の波に飲まれていきました。明治2(1869)年、忍藩では版籍奉還後に五代藩主・忠敬が知藩事を拝命。明治4(1871)年7月の廃藩置県で、忍藩の廃藩が決定しています。旧忍藩は忍県となり、三ヶ月後に埼玉県に編入され、消滅しました。



【参考文献】
  • 大岡俊昭 『幕末下級武士の絵日記 その暮らしと住まいの風景を読む』 相模書房 2007年
  • 日本博学倶楽部 『江戸300藩の意外な「その後」』 PHP研究所 2005年
  • 埼玉県HP 「忍藩上屋敷跡」

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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