「川越藩」の歴史 ~埼玉県川越市に存在した藩。小江戸と呼ばれた歴史ある城下町~
- 2022/02/24
現在の埼玉県の川越市の辺りには、川越藩(かわごえはん)がありました。戦国時代から武蔵国の中心地であった同地は、度々大きな戦の舞台となっています。
江戸時代には、大老や老中の経験者が入封。財政難に苦しみつつ、災害や一揆を戦いながら統治を行います。幕末には江戸湾の警備に参加して国家のために尽力しました。しかし戊辰戦争で旧幕府が敗退すると新政府軍に帰順。旧幕府軍の兵を引かせて川越城下を戦火から救っています。
明治の廃藩置県後は県となるものの、やがて消滅。現在は市としてその名前を今に伝えています。川越藩はどのように生まれて発展し、終わったのでしょうか。川越藩の歴史を見ていきましょう。
戦国期、太田道灌によって河越城が築城される
川越(戦国時代以前は河越)は、武蔵国の中央に位置する土地です。時代を通して、軍事上の要衝地として周囲からは認識されていました。
扇谷上杉氏当主・上杉持朝は、河越の地に着目。家宰・大田道真、太田道灌親子に、のちに川越藩の藩庁となる川越城を築かせています。太田道灌は江戸城を築いたほどの築城の名手でした。上杉氏にとって河越の地がどれほど重要だったのかを物語る采配です。
築城以降、河越城は扇谷上杉氏による武蔵国支配の拠点として機能。関東の政局を左右する場所として存在していました。
大永4(1524)年、小田原北条氏当主・北条氏綱が河越城に侵攻を始めます。扇谷上杉氏は、居城でもある河越城を防衛すべく抵抗。両者の間に四度にわたる激闘が繰り広げられました。
天文6(1537)年、氏綱率いる北条氏方が河越城を制圧。武蔵国をはじめとする関東広域に勢力圏を拡大させます。
河越夜戦の舞台となる
しかし扇谷上杉氏は河越城攻略を諦めませんでした。河越城の帰趨は、武蔵国の支配権に直結するほどのものです。再び奪取するべく策略を巡らせていました。
天文14(1545)年7月、扇谷上杉氏当主・上杉朝定は、関東管領・上杉憲政や古河公方・足利晴氏と同盟。関東の諸将に動員令を発出し、総勢八万という大軍を集めます。八万の軍勢は北条方の河越城を包囲。このとき、河越城は北条綱成が三千の兵で守備していました。
翌天文15(1546)年、北条氏康は八千の兵で小田原から出撃。上杉方の大軍に奇襲攻撃を仕掛け、大混乱の末に敗走させています。世にいう河越夜戦です。
河越夜戦において、扇谷上杉氏当主・上杉朝定は討死。扇谷上杉氏は滅亡することとなりました。関東管領・上杉憲政は越後に逃亡し、長尾景虎(上杉謙信)を養子に迎えて、のちの関東出兵を引き起こしています。
河越城の帰趨は、そのまま武蔵国や関東のみならず、日本の勢力図を左右するほどの舞台となっていたのです。
川越藩の立藩:老中や大老が統治する藩
戦国時代の終わりと共に、河越城は新たな時代を迎えます。
天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原征伐を挙行。北条氏は豊臣方の大軍に攻められ、降伏に追い込まれました。このとき、河越城も降伏開城しています。
同年、徳川家康が関東に移封。川越城には酒井重忠が1万石で入城しています。酒井重忠は、三河以来の最古参となる徳川譜代家臣です。雅楽頭酒井家の祖となり、以降徳川家を支える家の祖でした。
天正20(1592)年の文禄の役においても、重忠は江戸城の留守居役を拝命。家康の重臣として働いています。加えて、重忠と同時期に戸田一西(かずあき)が5000石で川越の鯨井を領有。一西も三河以来の譜代家臣であり、家康が采配を預けたほどの人物でした。
川越藩は軍事上の要衝として、信頼の置く人物が統治する場所となっていました。
※参考: 川越藩(1590~1871年)の歴代藩主
- 初代:朝矩(とものり)
- 2代:直恒(なおつね)
- 3代:直温(なおのぶ)
- 4代:斉典(なりつね)
- 5代:典則(つねのり)
- 6代:直侯(なおよし)
- 7代:直克(なおかつ)
天領から老中の藩となる
慶長6(1601)年、重忠と一西は移封。江戸防衛の要である川越藩は、八年にわたって天領(徳川幕府直轄領)とされました。
慶長14(1609)年、酒井忠利(重忠の再従兄弟)が2万石で入城します。忠利は大坂の陣で江戸城留守居役を拝命。三代将軍・家光の厚い信任を受けて老中として幕政に参画しています。
寛永4(1627)年に忠利が病没し、忠利の嫡男・酒井忠勝8万石で川越城に入っています。忠勝も老中を務めて家光を支え、寛永9(1632)年には2万石を加増されて10万石の大名となりました。
忠勝の代で時の鐘が建立。現代に残る、川越の城下町としての街並みも整備されています。
寛永11(1634)年、忠勝の若狭国小浜藩へ移封に伴い、相馬中村藩主・相馬義胤が城代を拝命します。このとき、義胤は川越城の城門の堅固さに感心。のちに川越城の城門を模して、義稙の国許にある相馬中村城に外大手一ノ門を作らせています。
翌寛永12(1635)年、堀田正盛が3万5000石で入封。正盛は家光の乳母・春日局の孫にあたります。
川越藩の重要性は、この時代にあっても揺らいでいません。しかし寛永15(1638)年、城下町は川越大火によって被災。喜多院や城下町の多くが被害に遭っています。
城や城下町の本格的な整備と発展
本格的な川越藩の発展は、江戸との繋がりの強化にありました。
寛永16(1639)年、老中・松平信綱が6万石で入封。信綱は「知恵伊豆」と称されるほどの政治家です。藩政において、信綱は抜本的な改革を断行しました。
川越城の大改築と城下町の地割を実行。次いで玉川上水や野火止用水の開削などを行い、農業振興にも力を入れています。また、船運についても整備。船着場である川越五河岸を新設し、江戸との船の往来を実現させました。
信綱の嫡男・輝綱が藩主となると、江戸と川越街道が整えられます。川越藩の発展の多くは、信綱ら大河内松平家によるところが大きいようです。
元禄7(1694)年、柳沢吉保が7万2000石で入国。吉保は五代将軍・徳川綱吉の信任を一身に受け、側用人(大老格)に抜擢されたほどの人物です。もはや川越藩は、大老や老中を輩出する藩となっていました。
吉保は儒学者・荻生徂徠を登用。徂徠の建言によって、三富の新田開発が行われるなど、川越藩は発展を続けています。宝永元(1704)年には、吉保が甲斐国甲府藩に転封となり、以降は数年間、川越藩は天領となりました。
殖産興業に取り組む
殖産興業と鉱山開発
正徳元(1711)年、老中・秋元喬知(たかとも)が5万石で入国。まもなく6万石に加増され、川越藩の藩政改革に当たっています。
喬知は移封元の甲斐国から職人を動員。柿や養魚、絹織物といった殖産興業政策を推し進めました。領民の暮らし向きを豊かにすることで、川越藩の財政充実を図る狙いがあったようです。
川越藩は「小江戸」や「江戸の台所」と通称されるほどに発展していきますが、その基礎はこの時代に形作られたようです。
しかし寛保2(1742)年、大規模な洪水が川越や江戸を襲います。四代藩主・涼朝は農民救済策を実行。平賀源内を登用して、奥秩父や大滝で鉱山開発をさせています。
明和元(1764)年、中山道沿いで大規模な一揆が勃発。一期は武蔵国から上野国や信濃国にまで波及しています。世にいう中山道伝馬騒動です。
当時の川越藩は、騒動に巻き込まれて混乱していました。加えて藩主・涼朝が田沼意次の強権政治に抗議して老中を辞任。川越藩から出羽国山形藩への転封を言い渡されてしまいます。
藩の消滅と復活
明和4(1767)年、川越藩は上野国前橋藩15万石(藩主は松平朝矩)に編入。川越藩の名前は消えてしまいます。
松平朝矩は、越前松平家の当主でした。家祖は徳川家康の次男・結城秀康であり、徳川一門の中でも特に由緒正しい家柄です。
しかし明和6(1769)年、前橋城が利根川の侵食を受けてしまうと事態は一変しました。本丸は崩壊の危機に晒されますが、直基系越前松平家には修築する力はありません。ここで前橋城の破却と川越城への移転が決まります。
四代藩主・斉典(なりつね)は、庄内藩転封を望みますが断念。藩政改革に着手しています。斉典の藩政改革では財政改革や水田開発が成功。藩校・博瑜堂を開設して人材育成の場を築いています。
江戸の台場警備を担当する
江戸湾の警備に従事する
日本近海に外国船が出没するようになると、川越藩も海防に関わることとなりました。文政3(1820)年、川越藩は相模国の警固役を拝命。500人以上の藩兵を三浦郡の川越藩領に派遣しています。
天保8(1837)年、川越藩は浦賀においてモリソン号を砲撃。警固役において、異国船打払令に基づく措置でした。事件以降、川越藩は数千人を動員し、より警護役に力を注いでいくこととなります。
弘化3(1846)年、アメリカ東インド艦隊司令官・ビッドルが三浦半島の城ヶ島に来航。最初に川越藩士・内池武者右衛門が接触しています。翌弘化4(1847)年には、川越藩は三浦半島一帯と周辺海域の警護役を担当。会津藩や彦根藩、忍藩と並んで江戸湾防衛体制に組み込まれました。
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。川越藩は鴨居から大津一帯に藩兵を展開しています。翌年にペリーが再び来航すると、川越藩は江戸湾内海の品川台場を守備。第一台場を担当しています。
このとき、川越藩では藩の鋳物師・小川原五郎右衛門に鋳造させたカノン砲を設置していました。ここまでの海防や武備を強化において、川越藩は莫大な出費に苦しめられています。
明治政府への恭順を決める
慶応2(1866)年、松平康英が8万4000石で入封します。康英は幕府中枢において、勘定奉行や外国奉行を歴任。老中も勤め上げたほどの人物です。
しかし幕末の政局は絶えず流動化していました。川越藩も徳川家との距離を見直すこととなります。慶応3(1867)年10月、将軍・徳川慶喜は大政奉還を断行。翌慶応4(1868)年1月には、旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れ去りました。
藩主・康英は新政府への恭順を決定。藩論をまとめ、老中を辞して上洛しています。康英は謹慎となりますが、川越城の堀を埋めるなど、恭順する姿勢は変わりませんでした。結果として川越藩は戦火から免れることとなります。
同年5月には、川越藩は上野から離脱した彰義隊の分派・振武軍と交戦。飯能戦争で渋沢成一郎らを壊滅に追いやります。
明治2(1869)年、康英は養子・康戴(やすとし)に家督を譲って隠居。まもなく康戴は版籍奉還を行い、川越藩の知藩事を拝命しています。
しかし同年、川越城下で大火が出てしまい九百軒以上を焼く被害を出してしまいました。再建にあたって莫大な費用がかかり、財政難に拍車がかかってしまいます。もはや川越藩は、財政上の問題からも統治は不可能な状況でした。
明治4(1871)年、明治政府は廃藩置県を断行。川越藩は川越県と改称されました。以降、川越県は入間県、熊谷県を経て最終的に埼玉県に編入されています。
【参考文献】
- 重田正夫 『川越藩』 現代書館 2015年
- 日本博学倶楽部 『江戸300藩の意外な「その後」』 PHP研究所 2005年
- 『江戸三百藩 藩主騒乱 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年
- 川越市HP 「川越藩と歴代藩主」
- 埼玉県HP 「川越藩上屋敷跡」
- 川越歴史博物館HP 「川越藩」
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